日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)2月4日 開戦決定

明治37年(1904年)2月6日 国交断絶

期間
明治37年(1904年)2月4日、6日
概要 明治37年(1904年)2月4日、日本は御前会議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り軍事行動に移ることを決議しました。2月6日、栗野慎一郎駐露公使がロシアに国交断絶を通告しました。
 
 
 
 

解説

開戦決定,国交断絶
日本による開戦の決定と、ロシアに対する国交断絶の通告

 日露戦争開戦前、日本とロシアとの間では、満州や韓国における互いの勢力範囲に関する交渉が続けられていました。この交渉が始められるきっかけとなったのは、明治33年(1900年)の北清事変の際に満州を占領したロシア軍が、その後も撤兵条約に従わずに満州に留まったことであったと言われています。この交渉の間、ロシアは極東の軍備を急激に増強したり、また日本の提案に対する返事を何度も遅延したりしましたが、日本はそれをロシアの時間稼ぎであると見なしていました(関連資料1)。

▲ロシアの要人たち
中央がロシア皇帝ニコライ2世。その左隣が皇后アレキサンドラ。
(防衛省防衛研究所所蔵)

 他方、日本も交渉をつづける一方で戦いが起こった場合に備えた準備を進めていました。そしてついに明治37年(1904年)2月4日午前、日本政府は臨時閣議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り、外交関係を断絶して独自の軍事行動をとる旨を閣議決定しました。閣議決定は同日午後に開かれた緊急の御前会議で承認され、ここに開戦が正式に決まりました。

 この決定は、翌2月5日に電報で外務大臣小村寿太郎から栗野慎一郎在ロシア公使に伝えられ、2月6日、栗野公使からロシアのラムスドルフ伯に伝達されました(関連資料2)。さらに同日、小村外務大臣はローゼン公使を外務省に呼び、外交関係断絶を通告しました。

 国交断絶決定後、海軍大臣及び陸軍大臣に勅語が下賜されましたが(関連資料3)、この勅語は当初部外秘とされ、海軍・陸軍内の限られた人物にのみ配布されました(関連資料4)。

▲国交断絶公文手交の訓令電報
明治37年(1904年)2月5日小村外務大臣発在露栗野公使宛公電第54号(前半部分)
(外務省外交史料館所蔵)

 また、国交断絶の事実は当初、一般には伏せられていました。一般の人々がそれを知るのは、2月8日夜、小村外務大臣が東京の各新聞社社長らを外務省に招いて交渉決裂の顛末を報告し、翌9日の新聞にその記事が掲載されてからでした(関連資料5)。

 国交断絶にともない、日露両国が互いに相手国に設置していた在外公館は国外に撤退しました。当時、日本はロシアの首都ペテルブルクに公使館を、黒海の貿易港オデッサと樺太(サハリン)南部のコルサコフに領事館を、極東のウラジオストックに貿易事務館を置いていましたが、これらすべてを撤退ないし閉館し(関連資料7関連資料8)、それにともなう費用は国庫剰余金から支出されました(関連資料9)。さらに満州にある牛荘領事館も撤退しました。また2月8日には、東京に設置されていたロシア公使館に対して撤退が要求されました。

 一方、国交断絶後も互いの領内に残る居留民については、居留民個人の権益が必要以上に損なわれることがないように対策がとられました。日露双方の依頼に応じる形で、ロシア及び満州における居留日本人の利益はアメリカ合衆国が、日本におけるロシア居留民の利益はフランスが保護することになりました。日本政府も、日本の利益に抵触しないかぎりは在留のロシア居留民に対してなるべく完全な保護を与えるよう、各庁府県などに通知を出しました(関連資料2関連資料10)。

 
 
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関連資料

開戦決定,国交断絶
関連資料1 満韓に関する日露間交渉
関連資料2 国交断絶の通告公文と、公使館引き揚げの記録
関連資料3 時局に関し陸海軍両大臣へ下賜の勅語
関連資料4 明治37年 勅語奉答及慰問書類
関連資料5 日露国交断絶を伝える新聞記事
関連資料6 御勅語並に報答文配布の件
関連資料7 在外公館引き揚げの記事
関連資料8 オデッサ領事館引き揚げ時の文書
関連資料9 在露国帝国公館員引揚に要する費用を国庫剰余金より支出す
関連資料10 『日露戦争要報』の一部

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : B02130339000
件名 : 第九章 満韓ニ関スル日露間交渉

■資料解説

 

 昭和19年(1944)年2月に外務省政務局が発行した『日露交渉史 (上巻)』という資料の一部です。

 

 この資料の「第九章 満韓ニ関スル日露間交渉」の「第六節 日露戦争ニ至ル満韓ニ関スル日露交渉」(10~20画像目)には、明治36年(1903年)以来の日露戦争直前における外交交渉過程が書かれています。開戦決定と国交断絶にかかわる部分は、「第六項 談判停止及外交断絶」(19~20画像目)です。

 

 なお、『日露交渉史 (上巻)』の資料全体はレファレンスコードB02130337900で確認することができます。また、満州及び韓国をめぐる日露交渉に関連する主要な外交文書は、『日本外交文書 第37巻第1冊』の「事項1 満韓に関する日露交渉一件」に活字化されて収録されています。

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関連資料2
レファレンスコード : B07090546900
件名 : 聖坡特斯堡

■資料解説

 

 当時ロシアの首都であったペテルブルクから、公使館や居留民が引き揚げる際に役所の間でやりとりされた文書などがまとめられた資料です。件名の「聖坡特斯堡」は「セントペテルスブルグ(ペテルブルク)」の漢字表記です。

 

 この資料の中には、引き揚げ関連の文書だけではなく、ロシアへの国交断絶通告に関する文書も含まれています。4~5画像目は、外務大臣小村寿太郎が駐露公使栗野慎一郎に対して、ロシア政府に国交断絶を通告する公文を提出するよう命じた電報文です。この4~5画像目の資料については、「日露戦争特別展」でも紹介しています。「日露戦争写真館」の「外務省外交史料館」の中で、この電報のカラー画像と資料の原文、現代語訳をみることができます。

 

 ラムスドルフ伯へ通告すべきとされた公文の内容は、7~8画像目にあります。また33画像目には、公使館を引き揚げた栗野慎一郎らの一行がベルリンに到着したことを東京に伝える電報があります。

 

 15、21、36~37画像目などには、ロシア領内に残る日本居留民に対する保護をアメリカに依頼するよう命じた訓令と、それへの応答があります。

 

 なお、日露国交断絶に関連する主要な外交文書は、『日本外交文書 第37巻第38巻別冊日露戦争I』の第1章第1節「国交断絶」に活字化されて収録されています。

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関連資料3
レファレンスコード : A01200962200
件名 : 時局ニ関シ陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語

■資料解説

 

 日露の国交断絶に際して、陸軍大臣・海軍大臣に向けて下賜された勅語の草案です。1画像目、2画像目の日付は空欄ですが、附箋(4画像目)には「明治三十七年二月五日附ノ事」と記されています。

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関連資料4
レファレンスコード : C09020361400
件名 : 明治37年 勅語奉答及慰問書類1(1)

■資料解説

 

 日露戦争に際して下賜された勅語や、勅語に対する海軍軍人の奉答文などをまとめた資料「明治三十七八年戦時書類 巻213」の冒頭部分です。

 

 6~9画像目には、国交断絶の勅語を部外秘として取り扱う旨が記されています。また10~18画像目には、こんにゃく版や石版といった印刷法で印刷して長官や司令官に配布したことが記されています。30画像目以降には、海軍大臣をはじめとする勅語に対する奉答文が収録されています。これらの奉答文は、次の件名「明治37年 勅語奉答及慰問書類1(2)」(レファレンスコードC09020361500)の28画像目まで続きます。

 

 なお、「明治三十七八年戦時書類」の巻213には明治37年(1904)年分、巻214には明治38~39年(1905~6年)分の勅語、奉答文、慰問書類がまとめられています。(レファレンスコードC09020361000、C09020362400)

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関連資料5
レファレンスコード : C09050715400
件名 : 日露戦役関係官報(1)

■資料解説

 

 8~10画像目に、明治37年(1904年)2月9日付の新聞記事「日露交渉の顛末(小村外相の報告)」が収録されています。

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関連資料6
レファレンスコード : C06040574900
件名 : 御勅語並に報答文配布の件

■資料解説

 

 国交断絶の勅語(4画像目)やそれに対する参謀総長大山巌の奉答文(3画像目)を、陸軍の各方面に配布したことを記した資料です。1画像目に、「部下を集め捧読すべし」と記されています。

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関連資料7
レファレンスコード : A07090194400
件名 : 単行書・明治職官沿革録附録官廨録(正本)

■資料解説

 

 明治37年(1904年)中に行われた職務や官位に関する主要な変更点が整理されている資料です。

 

 日露国交断絶にともなう公館撤退については6画像目に記述があり、2月12日付の官報を引用して、「二月六日 在露京帝国公使館、在オデッサ及牛荘帝国領事館並に在浦潮斯徳帝国貿易事務館を撤退し在哥爾薩港帝国領事館は交通の途なきを以て閉館す」、と記されています。文章中の露京はペテルブルク、浦潮斯徳はウラジオストック、哥爾薩港はコルサコフ港のことを指します。

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関連資料8
レファレンスコード : B07090547000
件名 : オデッサ

■資料解説

 

 日露国交断絶にともなって、在オデッサ日本領事館とその館員、および管轄地域内に居住する日本人がロシアから引き揚げた情況に関する資料です。

 

 ロシア国内各地からの日本人引き揚げに関する資料は、外務省外交資料館>外務省記録>5門 軍事>2類 戦争>1項 開戦 の中の、「日露戦役ノ際在露帝国公館撤退及帝国臣民引揚並米国政府保護一件」(第一巻~第五巻、附属第一巻~第二巻)(レファレンスコードB07090545400、B07090546100、B07090546700、B07090547400、B07090548200、B07090549000、B07090549600)に整理されています。

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関連資料9
レファレンスコード : A01200942200
件名 : 在露国帝国公館員引揚ニ要スル費用ヲ国庫剰余金ヨリ支出ス

■資料解説

 

 ロシア領内にある日本の在外公館の引き揚げのために必要な費用を、国庫剰余金から支出することに決めたことが記されています。

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関連資料10
レファレンスコード : B10070160300
件名 : 日露事件要報 一/1904年/分割1

■資料解説

 

 明治37年(1904年)7月に外務省臨時報告委員によりまとめられた資料『日露事件要報 一』の一部分です。

 

 14~25画像目に、国交断絶の電訓や宣戦の詔書、桂太郎内務大臣・小村寿太郎外務大臣の衆議院における演説など、開戦決定から宣戦に至るまでの主要な資料が引用されています。

 

 17画像目には、在外公館の撤退後、ロシアと満州における日本の利益はアメリカが、日本におけるロシアの利益はフランスが保護することになったことが記されています。

 

 22~23画像目には、開戦・国交断絶後の明治37年(1904年)2月9日~19日に、内務大臣から台湾総督府および各庁府県、神仏各教宗派管長へ出された訓令があります。これらの訓令では、国交断絶後といえども、日本に在留するロシア臣民に対して敵意を抱かず、保護に努めるよう訓示されています。

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参考文献   鹿島守之助『日本外交史 第7巻 日露戦争』鹿島研究所出版会、1970年
和田春樹『日露戦争 起源と開戦(下)』岩波書店、2010年
海上の戦いに戻ります 日露戦争勃発に進みます
 
 
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