日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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1905年1月22日(1月9日) 血の日曜日事件

期間
1905年1月22日(1月9日)
場所 ペテルブルク(ロシア)
概要 ロシアの首都ペテルブルクにおいてツァーリ(皇帝)政府の軍隊が、ツァーリに「プラウダ(正義)」の実現を直接誓願するために冬宮へ向かった市民に対して発砲した事件です。この事件によって、ツァーリに対する市民の信頼が崩れ、ロシア革命の発端となりました。
 
 
 
 

解説

血の日曜日事件
ロシア革命の発端となった帝政軍隊による市民に対する発砲事件
 ロシア帝政時代は、憲法や代議制がない専制政治が敷かれていました。それに対して、20世紀初頭には専制を廃し憲法の制定や代議制を求める運動が、労働条件の改善を求める労働運動と相俟って既に歯止めがきかないほど激化していました。そして、「若し露帝をして憲法政治を布説せされば革命は遂に免かるべからさるの境遇に立ち至るべし」(関連資料1)とロシアの大学教授が当時のロシア社会の状況を描写しているように、たとえ憲法を制定したとしても帝政政府が専制政治体制を維持するのが難しい状況に至っていました(関連資料3)。
  このような状況下で、駐ストックホルム日本公使館付武官であった明石元二郎大佐は、ロシアの目を極東からロシア国内に向けさせるために、資金援助を通じてロシアの革命運動を支援しようとしていました(関連資料4関連資料5)。
▲ロシア帝国皇帝ニコライ2世
  (財団法人三笠保存会所蔵)
 「露京及其付近に於ける労働者の一般同盟罷工並に政治的示威運動は事益々重大に」なり、ツァーリに直接誓願書を渡すために、労働者たちは冬宮へ向けて行進をしました。それに対して軍隊、特に「コサック」兵は「遂に乱射を始め男子は固より婦女小児にして殺傷せらるるもの頗る多」く、約千人が死傷しました。「軍隊が武装なき職工輩に対して粗暴の手段を揉り以て斯うも多数の死傷を出したるに付きては一般も憤慨を極めた」のです(関連資料2)。この事件の結果、ロシア民衆のツァーリに対する信仰が大きく揺らぎ、抗議ストライキが帝国全土に広まりました。それは専制政治の打倒を要求するまでに激化し、ロシア革命につながる火種となりました。
 
 
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関連資料

血の日曜日事件
関連資料1 混迷するロシアの政治情勢についての報告1
関連資料2 混迷するロシアの政治情勢についての報告2
関連資料3 混迷するロシアの政治情勢についての報告3
関連資料4 明石大佐が露国革命党に対して運動資金提供をしていたことについての報告書
関連資料5 明石大佐の参謀本部機密費の受領記録

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : B03050935900
件名 :4 明治38年1月4日から1905〔明治38〕年3月7日

■資料解説

 「血の日曜日」事件前後の混迷するロシアの政治情勢についての、在欧の公使や領事などからの報告書群です。事件後に抗議・ストライキが各地に広がったことが記録されています。

 莫斯科(モスクワ)「キーフ」「ヴォロネズ」鉄道は同盟罷工の結果休業せり
 「ヴラジ」「コーカサス」鉄道及「ピスラムジヤスマ」鉄道被雇員の一部も亦罷工せり
 「リボウ」に於いては5,500人の職工罷業し又「ノヴオラド」「ヲムスク」に於いては総罷業起こりたり
 「コーカサス」の諸地方に於いては食物不足となり職業を得ざるもの増加し「バク」に於いては暴徒横行し軍隊の力は現に秩序を維持するに足らざるを以て一般の恐慌を来せり

 露国よりの公報によれば同国の同盟罷工運動は実際に於いては新聞紙上の報道よりも更に重大にして殆んど全国の各市街に蔓延し特に波羅的海に濱する地方に於いて猖獗なりと云ふ

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関連資料2
レファレンスコード : B03050934400
件名 : 5 1905〔明治38〕年1月19日から1905〔明治38〕年1月28日

■資料解説

 

 「血の日曜日」事件についての報告が含まれている資料です。この事件はヨーロッパ各国に伝えられ、大きく報道されました。ドイツでは「露京に於ける最近の出来事に関し伯林諸新聞は、露国革命既に萌芽せりと言ふに於いて一致し、又同国政府今回を軍事的鎮圧を以て抵抗力なき職工に対する虐殺なりと」みなしたとの報道がされました。フランスでは「新聞紙は何れも同事件の容易ならざるを認め、多くは平和的且武装なき請願者に対する露政府の蛮行を非難せり」と報道されました。  

 
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関連資料3
レファレンスコード : B03050935500
件名 : 3 露国内政改革運動其他内情ニ関スル件 1

■資料解説

 

 1905年1月7日に、在独特命全権公使である井上勝之助が、外務大臣の小村寿太郎にあてたロシアの内政改革運動の状況についての報告書です。ロシア帝政末期のこの時期に、権力側と人民との間の緊張は頂点に達していました。過酷な弾圧を推進していた内務大臣プレーヴェがテロルで爆殺され、その後を柔軟路線をとるスヴャトポルク・ミルスキーが継ぎました(2画像目)が、事態は収拾しませんでした。1904年末にはペテルブルクにおいてゼムストヴォ(地方議会)代表者の集会が開催され、憲法の制定や代議制の導入などが要求されました。司法制度改革40周年記念日の11月20日に開催された集会には676人が参加し、以下のことが要求されました(8~9画像目)。
  1.個人不可侵、信仰、言論、出版、集会及び結社の自由を保障し、
  2.階級、民籍及信教の区別に基く制限はすべて之を廃止し法律の前には四民平等たること
  3.人民一般より自由に選出したる代表者の協賛を経ずして法律を制定し、又は租税を賦課することを得す
  4.大臣をして人民代表者の会議に対し適法に責任を負はしめること
 以上のように、「血の日曜日」事件が起こる前年までには立憲制に基づいて国家体制を改組することが模索されるようになっていました。この動きに対してツァーリは1904年12月12日に改革に関する勅令を出しましたが、人民の代表が立法に参加することは認めませんでした(19~21画像目)。  

 
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関連資料4
レファレンスコード : B03040812100
件名 : 露国新聞「ノボエウレミヤ」紙上ニ明石大佐ト露国革命等トノ関係掲載一件

■資料解説

 

 1906年にロシアの新聞「ノーヴォエ・ヴレミヤ(新時代)」に、明石元二郎大佐が日露戦争中に露国革命党に運動資金を供給していたことが報じられたことに関する報告書です。5画像目から記事の訳文が記録されています。記事には次のように記されていました。「1904年9月を以て始めたる交渉は遂に日本の費用を以て露国に武装的一揆を起こさしむることに関する協約を成立せしむるに至れり」。  

 
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関連資料5
レファレンスコード : C03020210900
件名 : 機密費払戻の件

■資料解説

 

 1904年8月末に、明石元二郎大佐が参謀本部機密費から10万円(約8億円)の資金を受け取った記録です。明石大佐は、ロシア反政府系の諸党に対して、この資金から活動資金の援助をしました。  

 
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参考文献   和田春樹・和田あき子『血の日曜日』中公新書219、1970年
『世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社、1994年
稲葉千春「日露戦争―明石大佐とロシア革命運動」ロシア史研究会編『日露二〇〇年』彩流社、
1993年
西島有厚『ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合』青木書店、1977年
日露戦争勃発に戻ります 講和条約大網決定,講和斡旋,講和勧告に進みます
 
 
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