日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治38年(1905年)3月1日 奉天会戦

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期間
明治38年(1905年)2月~3月
場所 奉天付近
概要 日本陸軍とロシア陸軍は満州(現在の中国東北地方)の奉天周辺で大兵力を繰り出して激突、日本軍が辛勝しました。
 
 
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戦闘チャート

奉天会戦
明治38年(1905年)
2月20日 大山巌総司令官が各軍首脳を呼び集め、作戦に関する訓示を行う。
2月22日 日本軍が前進を開始。ロシア軍の左翼(東側)を攻撃。
2月27日 第3軍が北上を開始。(関連資料2
3月1日
日本軍の総攻撃が始まり、60km以上の戦線全域で両軍が衝突する。(関連資料3
3月2日
満州軍総司令部と第3軍司令部の連絡が途絶。戦線全域でロシア軍の反撃が激しく、膠着状態となる。
関連資料7
3月6日 第3軍の一部がロシア軍の攻撃で敗走。
3月7日 第3軍の進撃で、退路を断たれることを恐れたロシア軍が部隊の移動を始める。
3月8日
日本軍がロシア軍に対して追撃を開始。
3月9日
ロシア軍の抵抗で日本軍の追撃が止まる。ロシア軍は北方に退却を開始。(関連資料4
3月10日
大山総司令官が戦闘の終結を宣言。
関連資料5)(関連資料6)(関連資料8
3月15日
大山総司令官が奉天に入城。
関連資料1)(関連資料10
 
【 参考文献 】 「新装版 機密日露戦史」、「新装版 図説日露戦争」、
「明治三十七八年日露戦史 第9巻、第10巻」
 
 
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解説

奉天会戦
ナポレオン戦争以来の大会戦

 明治38年(1905年)2月から3月にかけて、日本陸軍とロシア陸軍は当時清国領であった満州(現在の中国東北地方)の奉天周辺で大兵力を繰り出して激突しました。この結果、両軍合わせて兵員10万以上が死傷し、民間人にも多数の被害が出ました。この大規模な戦闘は、奉天という都市を中心に繰り広げられたことから、後世「奉天会戦」「奉天の戦い」と呼ばれています。

 明治38年1月、ロシアの要塞だった旅順が陥落すると、要塞の攻撃を終えた日本陸軍第三軍は、北方の主力部隊(満州軍)と合流し、次の攻撃の準備が始まります(関連資料2)。そして明治38年2月下旬、日本陸軍は北上を開始し、翌月には長さ60km以上の戦線の全域にわたってロシア軍の大部隊と衝突しました。

▲昌円陣地を視察中の大山巌(右から4人目) (防衛省防衛研究所所蔵)
▲アジア歴史資料センター、ref.A03032172800、件名:第9巻 付図 第2~75(欠番66.67)[日露戦争における両軍位置図](奉天付近之会戦第4軍之戦闘、秋山支隊及騎兵第2旅団之位置、軍隊符号 外)、6~7画像目 (国立公文書館所蔵)
 日本軍は明治37年(1904年)2月の開戦以来の1年間、遼陽旅順での戦いで一応の勝利をおさめてきましたが、その中で、既に多数の将兵を失い、また大量の砲弾や資材を消耗していました。まだ近代化の途上にあったとも言える当時の日本社会にとっては、列強の一員であるロシアを相手とする戦争の負担は大きなものでした。したがって、戦争が長引くほど、人的・財政的な損失が重なり危機的な事態に陥る危険があり、その上、ロシア軍の増援はシベリア鉄道を経由して次々と満州に到着していたため、日露間の戦力の差が決定的なものとなる恐れも出てきていました。こうした事情から、日本の首脳陣は、一刻も早くロシア軍の主力を撃滅してロシアにとって戦争の継続が困難な状況を作り出し、講和への道を切り開こうとしていました。こうして、日本の満州軍(約25万人)は、数に勝るロシアの満州軍(約31万人)に対して敢えて攻撃をしかけることとなりました。

 戦いは、日本軍がロシア軍を包囲しかけるところまで進展しますが、日本軍はこれまでの戦いと同様に人命と砲弾を消耗し、攻撃を受けて混乱したロシア軍が包囲網を脱して北に退却するのを阻止できませんでした(関連資料3関連資料4関連資料5)。当時の状況は、満州軍総司令部の一将校が「敵に出しぬかれたるは真に大元帥陛下に対し申訳の無い次第を致したり」(「大元帥陛下」とは明治天皇のこと。谷寿夫『機密日露戦史』1966年、545頁)と述べるほどのものでしたが、日本の将兵は長々と続いた行軍と戦闘のせいで疲弊しており、兵数で勝るロシア軍を追撃することができませんでした。3月10日、日本軍はロシア軍の司令部が置かれていた奉天(清国領)を占領しますが、すでにロシア軍の大半が奉天一帯から引き払った後で、「日本軍は大きな成功を収めはしたが、ロシア軍を残滅することができなかった」のでした(『ソ連から見た日露戦争』2009年、323頁原文ママ)。

 奉天会戦における日本軍の死傷者数は約7万人、ロシア側の死傷者数は(捕虜を合わせて)約8万人、その他に戦場周辺で暮らしていた民間人も犠牲となりました(関連資料6関連資料7)。

▲奉天での将軍たち
左から、黒木為楨、野津道貫、山県有朋、大山巌、奥保鞏、乃木希典、児玉源太郎、川村景明 (防衛省防衛研究所所蔵)
 
 
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関連資料

奉天会戦
関連資料1 奉天会戦後の明治38年5月16日付タイムズ記事の邦訳
関連資料2 旅順要塞の攻略に使われた28cm榴弾砲についての文書
関連資料3 奉天会戦における日露両軍の動きの図解
関連資料4 奉天会戦における日本軍の「戦利品」の報告
関連資料5 「陸軍軍人軍属死亡統計」を収録した資料
関連資料6 日露戦争後に行われた戦死者の遺骨収集・埋葬に関する資料
関連資料7 奉天の「露国赤十字」の病院で死亡したロシア軍人の母親が日本軍に宛てた書簡の邦訳
関連資料8 日露戦争後に陸軍省の戦時補給品調査委員会が作成した報告書
関連資料9 奉天会戦の直前に陸軍次官から出された文書

関連資料10 タイムズ紙による、日露戦争における日本陸軍の作戦と軍事思想家クラウゼヴィッツの論考との比較

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : A03023699700
件名 : タイムスの日露戦争批評(百八十八)奉天の会戦(後論一)

■資料解説

 

 奉天会戦が終わった後の明治「三十八年五月十六日」付タイムズ(タイムス)紙の記事を邦訳したものです。

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関連資料2
レファレンスコード : C03020266400
件名 : 28榴弾砲を満州北方に使用する件

■資料解説

 

 旅順要塞の攻略に使われた28cm榴弾砲を「北方」つまり奉天会戦に備えて動かす件の文書です。「セメント」や「木螺子」(もくねじ)「螺釘」(ねじくぎ)などの必要な資材がリストに挙がっています(6画像目)。

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関連資料3
レファレンスコード : A03032172800
件名 : [日露戦争における両軍位置図](奉天付近之会戦第4軍之戦闘、秋山支隊及騎兵第2旅団之位置、軍隊符号 外)

■資料解説

 

 奉天会戦における日露両軍の動きを図解した資料です。

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関連資料4
レファレンスコード : C06040374900
件名 : 38.4.27 満州軍総参謀長 各軍戦利品通報

■資料解説

 

 奉天会戦後、日本軍が獲得した「戦利品」の品目や量が報告されています。戦利品の中には「ハンドボール」「ミシン」「塩鮭」「氷砂糖」といったものも含まれている事が記されています(9~12画像目)。

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関連資料5
レファレンスコード : C06040752900
件名 : 11.6 陸軍省副官より軍人軍属死亡統計表送付

■資料解説

 

 奉天会戦の後、「陸軍省官房 統計掛」が「陸軍軍人軍属死亡統計」を収録した資料です(明治38年11月2日印刷)。この資料によると「昨年開戦以来本年十月三十一日まて当掛(かかり)に於て受領したる死亡報告」をまとめた結果として(2画像目)、

 陸軍軍人軍属ノ死亡総数ハ 七万七千五百七十六人 (77,576人)

との数字が示され、その死亡原因、階級別の内訳が報告されています。資料は、死亡者の階級としては「下士、兵卒」が95.24%(73,883人)、兵種では「歩兵」が81.6%(62,377人)を占めていることを伝えています(%は「百分比例」を参照)。

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関連資料6
レファレンスコード : B07090957700
件名 : 3.日露戦役関係在満州帝国戦死者遺骨埋葬ノ件

■資料解説

 

 日露戦争後の明治42年(1909)~大正2年(1913)にかけて行われた戦死者の遺骨収集・埋葬に関する公文書です。

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関連資料7
レファレンスコード : C03027578800
件名 : 露国参謀大佐「ミシエル、グーレウィッチ」の墓標建設其他の件

■資料解説

 

 明治38年「三月三日」、奉天にあった「露国赤十字」の病院で死亡して埋葬されたロシア軍人の母親が、ロシア軍退却後に奉天を占領した日本軍に対して、墓地に関する情報開示を求めた際の書簡の内容(訳文)が示されています。

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関連資料8
レファレンスコード : C02030391200
件名 : 作戦用弾薬準備に関する件

■資料解説

 

 日露戦争後の明治43年(1910年)に、陸軍省の戦時補給品調査委員会が作成した報告書です。報告書は、以降の戦争に使われる砲弾の推定量を「奉天会戦に於ける費消弾数の統計を基礎として」(10画像目)試算しています。 明治末に陸軍が想定した「将来の戦役」は日露戦争より「一層激烈にして会戦長時日に亘る」規模であったことが資料から読み取れます(11画像目)。

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関連資料9
レファレンスコード : C06040726200
件名 : 2.24 陸軍次官より社会主義に関し陸軍大臣訓示の件

■資料解説

 

 奉天会戦の直前、陸軍次官から出された文書です。当時の寺内正毅陸軍大臣が、「近来各地方に於いて往々社会主義を唱道し其言文を発表するものあり」(2画像目)として、非戦論などを対象とした言論の取締りを訓示していることが示されています(明治38年2月24日付)。

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関連資料10
レファレンスコード : A03023699500、A03023699600
件名 : タイムスの日露戦争批評(百八十六)クラウゼヴイッツ学説(上)、タイムスの日露戦争批評(百八十七)クラウゼヴイッツ学説(下)

■資料解説

 

 タイムズ(タイムス)紙(明治38年5月14日、15日付)の中には、日露戦争における日本陸軍の作戦と軍事思想家カール・フォン・クラウゼヴィッツの論考とを比較した批評が収録されています。



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参考文献   浅野裕一『孫子』 講談社、1997年
石津朋之「総力戦の登場とその発展―戦争と社会の関係を中心に」、戦略研究学会編『年報戦略研究 20世紀の戦争と平和』第6号、芙蓉書房、2009年
石津朋之・清水多吉共編 『クラウゼヴィッツと『戦争論』』、彩流社、2008年
大濱徹也、他『中学生の社会科・歴史 日本の歩みと世界』、日本文教出版社、2001年
小風秀雅編『日本の時代史23 アジアの帝国国家』、吉川弘文館、2004年
谷壽夫『機密日露戦史』(《明治百年史叢書》第3巻)、原書房、1966年
原剛・安岡昭男共編『日本陸海軍事典コンパクト版(上)(下)』、新人物往来社、2003年
原田敬一『日清・日露戦争』(シリーズ日本近現代史③)、岩波書店、2007年
福沢諭吉『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』時事新報社、1901年
牧野憲夫『シリーズ日本近現代史② 民権と憲法』、岩波書店、2006年
ジョン・ケネス・ガルブレイス、中村達也訳『満足の文化』、新潮社、1998年
マクレガー・ノックス、ウィリアムソン・マーレー共編著、今村伸哉訳『軍事革命とRMAの戦略史―軍事革命の史的変遷 1300~2050年』、芙蓉書房、2004年
ダニエル・ピック、小沢正人訳『戦争の機械―近代における殺戮の合理化』、法政大学出版局、1998年
I・I・ロストーノフ編、及川朝雄訳、大江志乃夫監修『ソ連から見た日露戦争』、原書房、2009年
A・J・P・テイラー、倉田稔訳『第一次世界大戦―目で見る戦史』、新評論、1980年
ミヒャエル・ヤイスマン、木村靖二訳『国民とその敵』山川出版社、2007年
Jonathan Bailey, "Military history and the pathology of lessons learned: the Russo-Japanese War", Williamson Murray & Richard Hart Sinnreich(eds.), The Past as Prologue: The Importance of History to the Military Profession, Cambridge University Press, 2006.
第3次旅順総攻撃に戻ります 樺太作戦に進みます
 
 
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