日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)10月10日 沙河会戦

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期間
明治37年(1904年)10月8日~18日
場所 沙河周辺
概要 遼陽を占領・確保した日本軍にたいして、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させます。両軍は、明治37年(1904年)10月8日から18日にかけて、沙河付近で戦闘を展開し、双方に大きな人的損害がでました。以後北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、翌年明治38年(1905年)の春まで対峙します。
 
 
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戦闘チャート

沙河会戦
明治37年(1904年)
10月4日 ロシア軍主力が日本軍への反撃のため、南下を開始。(関連資料1
10月8日
夜半
ロシア軍が日本軍最右翼の本渓湖を攻撃。ロシア軍の本格的攻勢が始まる。(関連資料2
10月9日 第1軍司令部が本渓湖を守る梅沢旅団に援軍を送る。
10月10日
20:00
満州軍総司令部が全軍に攻勢に出るよう命じる。
10月10日
左翼の第2軍、中央の第4軍が前進し、攻撃を開始する。(関連資料3
10月11日 各戦線で膠着状態が続く。(関連資料4
10月12日 日本軍がロシア軍の前進拠点である三塊石山を占領。(関連資料6
10月13日 日本軍が攻勢に転じる。(関連資料5
10月15日 日本軍が沙河河畔の丘陵である万宝山を占領。
10月16日 ロシア軍が万宝山を奪回する。(関連資料7
10月18日 満州軍総司令部は前進を中止し、防御態勢を固めることを決定。日露両軍とも戦いを止め、沙河を挟んで対峙する。(関連資料8
 
【 参考文献 】「明治三十七、八年日露戦史」
 
 
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解説

沙河会戦
北部戦線、こう着へ

 遼陽を占領・確保した日本軍が、兵員・物資の補給に苦慮するなか、ロシア軍は態勢を立て直し反撃に転じました。明治37年(1904年)10月4日、ロシア軍は奉天から大兵力を南下させ始めます。意表を突かれた、日本の満州軍総司令部では、遼陽北側の現陣地でロシア軍を迎え撃つのか、現陣地から打って出るのか意見が分かれました(関連資料1)。

 10月8日夜半、本渓湖の日本の第1軍最右翼にたいして、ロシア軍の攻撃が始まりました(関連資料2)。沙河会戦の始まりです。満州軍総司令部は、攻勢にでることを決定し、10日には左翼の第2軍、中央の第4軍が防御陣地を離れて攻撃前進を始めました(関連資料3)。

▲ロシア陸軍満州軍総司令官クロパトキン大将 (財団法人三笠保存会所蔵)
▲アジア歴史資料センター、
ref.C09050708300、件名:満洲軍総司令部(1) (防衛省防衛研究所所蔵)

 ロシア軍の作戦は、日本軍の右翼を圧迫して、その右翼から迂回包囲をするというものでした。これにたいして日本軍は、守勢の第1軍最右翼を旋回軸として攻勢に転じ、ロシア軍主力を日本軍右翼の山地方向に圧迫するという作戦をとりました。

 各地で激戦が展開される中で(関連資料4関連資料5)、10月12日、第4軍が三塊石山のロシア軍にたいして夜襲をかけ、同陣地を占領したことから両軍の均衡が崩れます(関連資料6)。戦線を縮小し後退するロシア軍にたいして、満州軍総司令部は、15日、第4軍を中心に、沙河河畔の丘陵である万宝山を占領させました。万宝山は、近辺のロシア軍陣地を一望できる戦略上の要地でした。このため、ロシア軍は、翌16日には反攻に転じ、万宝山を奪回しています(関連資料7)。その後、日本軍は後退するロシア軍を追って、沙河の線まで進出しますが、弾薬不足によりそれ以上の前進は困難になりました。

 10月18日、満州軍総司令部は、沙河南岸に陣地を築いて防御体勢を固めることを決定します。同月に旅順総攻撃をひかえていた日本軍には、北部戦線に人員の補充と弾薬の補給をおこなう余力はありませんでした。ロシア軍の動きも止まったため、両軍は沙河をはさんで、翌年明治38年(1905年)の春まで対峙することになりました。

▲軍使を護衛するロシア軍コサック騎兵(明治38年1月2日)
(防衛省防衛研究所所蔵)

 沙河会戦において、日本軍の参加兵力は12万800人で、戦死者4099人・戦傷者1万6398人の損害をうけました。一方のロシア軍は、参加兵力22万1600人で、戦死者5084人・戦傷者3万394人・行方不明者5868人の損害を出しています。日本の同盟国イギリスの新聞タイムズは、ロシア軍の失敗として、日本の第1軍最右翼に位置した本渓湖等を確保できなかったことを挙げています(関連資料8)。

 
 
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関連資料

沙河会戦
C09050700200 関連資料1 10月7日付の満州軍総司令部の命令です
C09050705700 関連資料2 10月8日、日本軍最右翼へのロシア軍の攻撃に関する報告です
C06041192200 関連資料3 10月10日、日本軍左翼の攻撃前進に関する報告です
C06041219500 関連資料4 10月12日、日本軍右翼方面での戦闘に関する報告です
C06041193700 関連資料5 10月13日、日本軍左翼方面での秋山支隊(秋山好古が率いる部隊)の戦闘報告です
C09050705600 関連資料6 10月12日、日本軍中央方面での戦闘に関する報告です
C09050705800 関連資料7 10月16日、日本軍中央方面での山田支隊の敗北に関する報告です
A03023696500 関連資料8 イギリスの新聞タイムズによる沙河会戦評の一部です

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C09050700200
件名 : 陸軍戦闘報告大本営海軍幕僚牒報班(2)

■資料解説

 

 45~49画像目は、在旅順の満州軍総司令官大山巌が、10月7日付で大本営に宛てた電報の写しです。47~49画像目には、総司令官が同日に下した命令が記されています。この命令では、防御作戦をとるのか攻勢作戦をとるのかが明確になっておらず、7日時点で総司令部の方針が決定していなかったことを示しています。この背景には、総司令部内での意見対立がありました。

 

 なお、本資料所収の「陸軍戦闘報告 明治37.6~38.1」(C09050699900)は、明治37年(1904年)6月から1905年1月にかけて、満州軍総司令部が大本営に宛てた電報(写し)等で構成されています。

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関連資料2
レファレンスコード : C09050705700
件名 : 陸軍沙河戦闘報告 日露戦争における満州軍総司令部報告綴(2)

■資料解説

 

 28~36画像目は、在烟台の満州軍総司令官大山巌が、10月19日付で大本営に宛てた電報の写しです。29~30画像目には、10月8日にロシア軍が、本渓湖の日本の第1軍最右翼を攻撃したことが記されています。

 

 なお、本資料所収の「陸軍沙河戦闘報告 日露戦争における満州軍総司令部報告綴」(C09050705400)は、1904年10月9日から1905年3月16日にかけて、満州軍総司令部が大本営に宛てた電報(写し)等で構成されています。

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関連資料3
レファレンスコード : C06041192200
件名 : 10月10日 太子河右岸康家台附近に於ける行動経過 第6師団長より

■資料解説

 

 第6師団長大久保春野が、所属する第2軍司令官奥保鞏に宛てた、10月10日の行軍の経過報告です。第6師団は、沙河会戦において、日本軍左翼の第2軍に所属していました。本資料には、第6師団が同日、攻撃前進を開始したことが記されています。

 

 なお、本資料所収の「明治37年10月11日~10月15日 第二軍戦闘報告綴」(C06041192000)は、第2軍所属の第6師団・歩兵第24旅団・秋山支隊(秋山好古が率いる部隊)・野戦砲兵第13連隊が、1904年10月11日から30日にかけて発信した戦闘報告等で構成されています。

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関連資料4
レファレンスコード : C06041219500
件名 : 戦闘詳報第17号 10月12日 老君峪北方高地附近

■資料解説

 

 近衛歩兵第3連隊第3大隊の10月12日の戦闘詳報です。同隊は、沙河会戦において、日本軍右翼の第1軍に所属していました。本資料には、10月12日の同隊の行軍、戦闘の状況が記されています。

 

 なお、本資料所収の「明治37.8年 戦闘詳報近衛歩兵第3連隊第3大隊」(C06041216900)は、第1軍近衛師団所属の近衛歩兵第3連隊第3大隊の戦闘詳報第1~29号(1904年4月30日~1905年3月31日)で構成されています。

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関連資料5
レファレンスコード : C06041193700
件名 : 10月13日 支隊本隊行動報告 李大人屯に到着宿営

■資料解説

 

 C06041193400~C06041193900は、秋山支隊(秋山好古が率いる部隊)の10月10日から15日までの行動報告です。秋山支隊は、沙河会戦において、日本軍左翼の第2軍に所属していました。10月13日の行動報告には、前進してきたロシア軍の騎兵約5~6百名にたいして、騎砲兵で放列を敷き、射撃によって潰走させたことが記されています。

 

 なお、本資料所収の「明治37年10月11日~10月15日 第二軍戦闘報告綴」(C06041192000)は、第2軍所属の第6師団・歩兵第24旅団・秋山支隊・野戦砲兵第13連隊が、1904年10月11日から30日にかけて発信した戦闘報告等で構成されています。秋山支隊については、10月16・17・20・30日の動向を示す資料も所収されています(C06041194000~C06041194300)。

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関連資料6
レファレンスコード : C09050705600
件名 : 陸軍沙河戦闘報告 日露戦争における満州軍総司令部報告綴(1)

■資料解説

 

 24~25画像目は、在烟台の満州軍総司令官大山巌が、10月12日付で参謀総長に宛てた電報の写しです。同日、日本軍中央の第4軍が、三塊石山を確保したことが記されています。

 

 なお、本資料所収の「陸軍沙河戦闘報告 日露戦争における満州軍総司令部報告綴」(C09050705400)は、1904年10月9日から1905年3月16日にかけて、満州軍総司令部が大本営に宛てた電報(写し)等で構成されています。

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関連資料7
レファレンスコード : C09050705800
件名 : 陸軍沙河戦闘報告 日露戦争における満州軍総司令部報告綴(3)

■資料解説

 

 26~33画像目は、在烟台の満州軍総司令官大山巌が、10月22日付で大本営に宛てた電報の写しです。26~29画像目には、15日に万宝山を占領した第4軍山田支隊が、16日の退却にあたり、ロシア軍の攻撃を受けて大きな損害を出したことが記されています。

 

 なお、本資料所収の「陸軍沙河戦闘報告 日露戦争における満州軍総司令部報告綴」(C09050705400)は、1904年10月9日から1905年3月16日にかけて、満州軍総司令部が大本営に宛てた電報(写し)等で構成されています。

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関連資料8
レファレンスコード : A03023696500
件名 : タイムスの日露戦争批評(百五十五)沙河の会戦(補遺)(四)露国の失敗

■資料解説

 

 タイムズ(タイムス)による沙河会戦の批評では、ロシア軍が、本渓湖等を確保できなかった理由とその作戦上の意味について説明されています。

 

 なお、本資料所収の「各種情報資料・タイムス日露戦争批評」(A03023680800)には、時事新報に掲載された、タイムズ(タイムス)紙(イギリス)の日露戦争に関する記事を和訳したものが所収されています。沙河会戦の批評は、152~160まで9回にわたって掲載されました(A03023696200 ~A03023697000)。

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参考文献   海野福寿『日清・日露戦争』、集英社、1992年
大江志乃夫『世界史としての日露戦争』、立風書房、2001年
軍事史学会編『日露戦争(一)』、錦正社、2004年
谷壽夫『機密日露戦史』、原書房、1966年
山田朗『世界史の中の日露戦争』、吉川弘文館、2009年
遼陽会戦に戻ります 第2次旅順総攻撃に進みます
 
 
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