日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)4月30日 南山の戦い

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期間
明治37年(1904年)5月25日~26日
場所 遼東半島西部
概要 日本第二軍は、明治37年(1904年)5月上旬に遼東半島の西岸に上陸し、5月25日には金州・南山に布陣するロシア軍を攻撃しました。
 
 
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戦闘チャート

南山の戦い
明治37年(1904年)
5月5日 第2軍が遼東半島に上陸を開始する。(関連資料1
5月15日 第2軍、金州城・南山方面へ前進を開始。(関連資料2
5月25日
5:30
金州城および南山への砲撃を開始。(関連資料3
5月26日
5:20頃
金州城の城門爆破に成功した日本軍が金州城を占領。
関連資料4
5月26日
9:00頃
歩兵部隊による南山陣地への突撃攻撃が行われる。
関連資料5
5月26日
19:00頃
南山のロシア軍が退却を始める。
5月26日
19:30頃
第2軍が南山陣地を占領。(関連資料6
 
【 参考文献 】 「極秘 明治37.8年海戦史」、「明治三十七、八年日露戦史」
 
 
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解説

南山の戦い
塹壕戦の予兆、満州に現れる

 緒戦における日本軍の作戦構想は、満州(現中国東北地区)を占領するロシア軍を南から追い詰めて叩くというものでした。具体的には朝鮮半島から大部隊(日本第一軍)を北上させてロシア軍の拠点である遼陽に迫ると同時に、別の部隊(日本第二軍など、関連資料1)を派遣して遼東半島のもっとも狭い地点「金州・南山」を占領、ロシア軍の旅順要塞を孤立させます。 その後に北進し、遼陽付近でロシア軍を挟み撃ちにする目論見です。

 5月5日、遼東半島西側に上陸を始めた日本第二軍は、5月25日に金州城を占領します(関連資料2関連資料3)。しかしその翌26日早朝から行われた南山攻撃では、幅5kmほどの狭い丘に立てこもるロシア軍の塹壕陣地を攻めあぐね、兵力では上回っていたにもかかわらず(35,755人vs約20,000人)、南山陣地が陥落したのは夕刻になっての事でした(関連資料4)。

 日本軍は、約4,000人の死傷者を出した末にようやく金州城と南山、さらに大連を占領し(5月30日)、こうして旅順要塞とロシア本国との連絡線は切断され、日本軍の作戦は予定通り進行します(関連資料5)。この戦いの後、日本第二軍は北上して旅順救援のために南下してきたロシア軍を撃破し(得利寺の戦い、6月14日~15日)、遼陽へ向かいます。

 なるほど南山は陥落しました。しかし強力な陣地に立てこもる防御側に対し、単に数の差に頼って攻撃する戦法は甚大な死傷者を生じかねない、という教訓は見過ごされました。日本軍は旅順要塞を攻撃する際、もう一度この教訓を学ばなければなりません。南山の戦いは、やがて第一次世界大戦(1914~19年)で明らかとなる新しい戦争スタイルこと「塹壕戦」の姿を、その十年前に先取りして示していたと言えるでしょう(関連資料6)。

▲「揚武」
奥保鞏大将率いる第2軍の遼東半島上陸
(財団法人三笠保存会所蔵)
▲五盆営子東方のふもとにある仮繃帯所
(防衛省防衛研究所所蔵)
 
 
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関連資料

南山の戦い
関連資料1 日本第二軍司令部の人名リスト
関連資料2 日本第二軍の上陸地の算定から内陸への進撃までの計画の概説
関連資料3 「第2軍作戦計画第2」の付属文書
関連資料4 奥保鞏大将の名義による「第二軍戦闘報告書」をまとめたもの
関連資料5 イギリスの5月30日付タイムズ紙が報道した記事の翻訳
関連資料6 総力戦研究所が編集した、第一次世界大戦(1914~19年)に関する資料

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C06040977600
件名 : 第二軍司令部将校同相当職員表

■資料解説

 明治37年(1904年)3月5日現在の日本「第二軍司令部」に勤務する参謀将校・副官・満州軍政委員・憲兵将校などの人名をリストにした公文書です。

 同職員表(1画像目)には、後に陸軍大臣となる「山梨半造」(当時歩兵少佐)、後の参謀総長「鈴木荘六」(当時騎兵少佐)・「金谷範三」(当時歩兵大尉)、また文学者として名高い「森林太郎」(ペンネームは「森鴎外」、当時は第二軍軍医部軍医監)といった人々が、奥保鞏司令官(当時大将・男爵)の元で勤務していた事が記載されています。

 本文書はまた、当時の軍司令部の編制が「軍司令官」のもと、「参謀部」「副官部」「管理部」「砲兵部」「工兵部」「経理部」「金櫃部」「糧餉部」「軍医部」などに分かれていた事を明らかにしています。

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関連資料2
レファレンスコード : C09050770000
件名 : 第2軍作戦計画第2

■資料解説

 

 明治37年(1904年)4月13日付の「第二軍作戦計画 第二」では、「本作戦を左の要領に従ひ計画す」(1画像目)として、上陸地の算定から内陸への進撃までの計画が概説されています。

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関連資料3
レファレンスコード : C09050770100
件名 : 第2軍作戦計画第2附表

■資料解説

 先程の「第2軍作戦計画第2」の付属文書です。同文書中の「第二軍船舶輸送順序予定表」「第二軍第一回輸送部隊順序及日次予定表」(3~7画像目)には、第二軍を構成する「第一師団」「第三師団」「第四師団」等の人員・馬匹の数量と、その上陸スケジュールが明記されています。

 この「第二軍第一回輸送部隊順序及日次予定表」によると、第二軍の主力部隊が上陸を完了するには「第一、二日」(歩兵2個旅団等の14,366人が上陸予定)~「第十一日」(第一師団野戦病院等の2,039人が上陸予定)までを要する事になっています。

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関連資料4
レファレンスコード : C09050769500
件名 : 第2軍戦報(2)

■資料解説

 奥保鞏大将の名義による「第二軍戦闘報告書」をまとめたものです。明治37年(1904年)5月15日の「金州城を攻略せしむ」所(1画像目)に始まって、6月14~16日の「得利寺付近における戦闘」(16~48画像目)、7月6~9日の蓋平占領の経緯(49~53画像目)などの戦況が収録されています。

 報告書の内容を参照すると、南山の戦いに関する日本側第一線の評価が浮かび上がってきます(1~15画像目、原文カナ)。それによれば、5月26日の「午前五時丗分」(5時30分)に開始され「午後七時過き」にロシア軍陣地を占領した南山の戦闘は、

 「我軍死傷将校以下約三千五百名」
 「此日劇戦十四時間に亘り頗る苦戦せるにも係らす戦機一転勝を制するを得たる」
 「敵兵に一大打撃を与へ旅順口に在る敵の抵抗力に影響を及ぼし日本軍の武勇如何を彼に示せしは将来の作戦上稗益鮮少ならざるべし只多大の死傷者を生せしめたるは頗る遺憾に堪えざる所なり」

であったとして、決して一方的な戦況ではなかった事が窺えます。また「南山戦に於ける彼我兵力」のデータも同報告書に添付されています(15画像目)。

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関連資料5
レファレンスコード : A03023686300
件名 : タイムスの日露戦争批評(五十三)金州の戦(下)

■資料解説

 明治37年(1904年)5月26日に行われた南山の戦いについて、イギリスの5月30日付タイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳です。

 タイムズ(タイムス)紙はまず戦況全般を紹介した後、

 「我等は日本の海軍が此場合に於ても亦其鴨緑江および其他の場合に於けるが如く卓越なる共同の功を挙げ互に惜む所なく有力に相助勢したるを特筆し以て之を賞賛する」
 「陸海両軍同時に斯くの如き高度に進歩したるものは我等之を陸海戦史に求むるに更に其例を見る能はず」

と述べて、日露戦争で現れた戦術上の革新に注目しています(2画像目)。

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関連資料6
レファレンスコード : A03032257400
件名 : 第1次欧州大戦関係統計資料

■資料解説

 昭和16年(1940年)に総力戦研究所が編集した、第一次世界大戦(1914~19年)に関する資料です。実際には「本資料は一九三四年「コムアカデミー」世界経済政策研究所「モスクワ」国立出版所発行 数字より観たる欧州大戦」の摘録」(2画像目、原文カナ)ですが、その中の「第十表 欧州大戦主要交戦国兵力並ニ損傷表」には、第一次大戦の参戦国が投入した人的資源とその死傷者の数が記載されています(28画像目)。

イギリス: 死者90万人、廃疾者48万人、捕虜36万人
フランス: 死者138万人、廃疾者112万人、捕虜52万人
イタリア: 死者46万人、廃疾者57万人、捕虜52万人
アメリカ: 死者5万人、廃疾者23万人、捕虜0.7万人
ロシア: 死者170万人、廃疾者266万人、捕虜250万人
ドイツ: 死者160万人、廃疾者105万人、捕虜96万人
オーストリア: 死者80万人、廃疾者130万人、捕虜181万人

 なお日露戦争における日本軍・ロシア軍の損害は以下の通りです(「にちろせんそう 日露戦争」『国史大辞典』1990年、横手慎二『日露戦争史-20世紀最初の大国間戦争』中公新書、2005年、『[新版]ロシアを知る事典』、2004年を参照)。

日本: 死者8.4万人、負傷者14.3万人、捕虜0.2万人
ロシア: 死者5万人、負傷者15万人、捕虜7万人

 戦争の性質を分析した思想家クラウゼヴィッツ曰く、「戦争とは、敵をしてわれらの意志に屈服せしめるための暴力行為のことである」そして戦争の暴力性は「その国の文明度によって決まるのではなく、両国の敵対的利害関係の重要さおよびその利害関係の継続期間によって決まるのである」(清水多吉訳『戦争論』「第一部第一章」、2001年、35、38頁)。20世紀の国際政治における利害関係の重要さがどれほどの人的被害を引き起こしたのかを、ここで取り上げた資料の数値は物語っています。

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参考文献   Jonathan Bailey, "Military history and the pathology of lessons learned: the Russo-Japanese War,"Williamson Murray & Richard Hart Sinnreich(eds.), The Past as Prologue: The Importance of History to the Military Profession ,Cambridge University Press, 2006.
クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳『戦争論』(上)、中央公論新社、2001年
軍事史学会編集『日露戦争(一)―国際的文脈―』、錦正社、2004年
平塚柾緒『新装版 図説 日露戦争』、河出書房新社、2004年
横手慎二『日露戦争史-20世紀最初の大国間戦争』、中公新書、2005年
国史大辞典編集委員会『国史大辞典』、吉川弘文館、1990年
川端香男里、佐藤経明ほか編集 『[新版]ロシアを知る事典』、平凡社、2004年
鴨緑江の戦いに戻ります 得利寺の戦いに進みます
 
 
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