日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)8月28日 遼陽会戦

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期間
明治37年(1904年)8月26日~9月4日
場所 中国遼寧省南部遼陽近郊
概要 日本軍主力とロシア軍主力は、遼陽附近で会戦を行い、日本軍はロシア軍を遼陽から撤退させましたが、当初目指したロシア軍の包囲殲滅には失敗しました。
 
 
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関連資料

遼陽会戦
レファレンスコード 関連資料1 8月31日付のイギリスのタイムズ紙が報道した記事の翻訳
レファレンスコード 関連資料2 大本営の陸軍幕僚が調査したロシア軍の状況の報告書
レファレンスコード 関連資料3 遼陽会戦において戦死した橘少佐を進級させることを要請した文書
レファレンスコード 関連資料4 9月2日付のイギリスのタイムズ紙が報道した記事の翻訳
レファレンスコード 関連資料5 遼陽会戦前後において死傷した第一軍の士官の名簿
レファレンスコード 関連資料6 遼陽会戦における第二軍の戦闘報告

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : A03023691200
件名 : タイムスの日露戦争批評(百二)露軍追ひ込まる、遼陽決戦の開始、軍事上秘密の必要

■資料解説

 

 遼陽会戦について、8月31日付イギリスのタイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳です。

 

 「遼陽決戦の開始」と題された記事において、

 「其勝敗如何に拘わらず日本は此一戦を以て決勝戦と為さんと欲するものなるは我等之を確信して可なりとす」

と述べられており、当時においても遼陽会戦が極めて重要な意義を持っていると認識されていたことがわかります。

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関連資料2
レファレンスコード : C09050706300
件名 : 大海情陸号(3)

■資料解説

 

 ロシア軍の状況について、大本営の陸軍部幕僚が遼陽会戦直後に調査したものを基に大本営海軍部幕僚が作成した報告書です。

 

 本報告書はまず遼陽会戦前後のロシア軍の状況について述べたあとに(1~7画像目)、遼陽会戦に参加したロシア軍の詳細な部隊表、兵力などについて記しています(17画像目)。

 

 また、37画像目には、開戦から遼陽会戦までのロシア軍、日本軍双方の損害・死傷者数などの表があります。

 

 さらに、78~79画像目においては、遼陽会戦におけるロシア軍の詳細な配置図が見られます。

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関連資料3
レファレンスコード : C09122045600
件名 : 10月15日 陸軍大臣へ 歩兵少佐橘周太進級の件に付照会(大迫少将より電報) 同官より回答 第2軍参謀長へ右回答通知

■資料解説

 

 首山堡をめぐる戦いで戦死した橘少佐を進級させることを要請した文章です。

 

 その文章の中で、

 「歩兵少佐橘周太の功績は所謂抜群中の抜群なる者に付き仮令時日の遅延せるも軍司令官より詳細なる状況を具し稟申せらるる件は今日に於ても充分進級せしめ得るの余地ありや至急返待つ」

と書かれており、遼陽会戦において活躍した橘少佐をぜひとも進級させるべきであることが述べられています(5画像目)。

 

 他方、3画像目においては、戦闘終了直後はその進級の必要性が認められておらず、今日の申請に対してもそれを確約することはできない旨が述べられており、「軍神橘少佐」の姿は後になってから作られていったものであることが窺えます。

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関連資料4
レファレンスコード : A03023691400
件名 : タイムスの日露戦争批評(百四)日本第一軍の渡河

■資料解説

 

 第一軍の渡河について、9月2日付イギリスのタイムズ(タイムス)紙が報道した記事の翻訳です。

 

 その記事の中で、第一軍の渡河によりロシア軍が包囲の危機に陥っているとして、

 「茲に遂に第二のセダン(普仏戦争仏軍全滅の地)を演出せしむるに至りたりとすべき機会更に多きが如し」

と述べており、遼陽会戦をセダンの戦いに比していることがわかります。ここからも明らかなように、このタイムズ(タイムス)の記事は日本寄りの立場で書かれていますが、実際にはセダンの戦いとは異なって、日本軍はロシア軍を包囲殲滅することはできませんでした。

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関連資料5
レファレンスコード : C06041191500
件名 : 8月24日より9月5日に至る死傷者概数、名簿

■資料解説

 

 遼陽会戦前後において死傷した、第一軍の士官(尉官・佐官)の名簿です。

 

 この間だけで計115名の士官が死傷したことがわかり、日本軍の損害の大きさの一端が窺えます。日本軍は今後戦いを行う際に重要な役割を果たすべき士官の不足に悩まされていくことになります。

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関連資料6
レファレンスコード : C09050769600
件名 : 第2軍戦報(3)

■資料解説

 

 遼陽会戦についての、第二軍の戦闘報告です。

 

 34~47画像目が遼陽会戦の戦闘報告となっており、第二軍の戦闘の詳細について述べられています。第二軍が主に担当した首山堡をめぐる攻防においてだけでも約7千もの損害があったことがわかります(42画像目)。

 

 また、遼陽会戦の状況について、

 「全般に就て今回敵の防戦は実に死守的にして決して退却の意図なかりしことを推知し得可し」

と述べており(47画像目)、ロシア軍の抵抗が激烈であり、その突然の退却が日本軍にとって意外なものであったことがわかります。

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参考文献   軍事史学会編集『日露戦争(二)―戦いの諸相と遺産―』錦正社、2005年
参謀本部編『明治三十七八年日露戦史』第三巻、東京楷行社、1912年
谷壽夫『《明治百年史叢書》第3巻 機密日露戦史』原書房、1966年
デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、妹尾作太男、三谷庸雄共訳『日露戦争全史』時事通信社、1978年
山田朗『世界史の中の日露戦争』吉川弘文館、2009年
I・I・ロストーノフ編、及川朝雄訳、大江志乃夫監修『ソ連から見た日露戦争』原書房、2009年
第1次旅順総攻撃に戻ります 沙河会戦に進みます
 
 
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