チャプター3

チャプター3 有権者とは何か
―枢密院会議録から

枢密院とは

1925(大正14)年3月に成立したいわゆる普通選挙法(衆議院議員選挙法の全面改正)は、内閣や帝国議会でのみ審議が行われたわけではありません。むしろ成立において重要な局面にあったのは、枢密院での審議でした。写真1は、枢密院の正面写真です。現在は、皇宮警察本部庁舎として利用されています。まず、簡単に枢密院とはどのような組織なのかを解説します。

「枢密院の正面写真」(洪洋社編輯部編『枢密院建築画帖』洪洋社、1922年(国立国会図書館デジタルコレクション))
写真1「枢密院の正面写真」(洪洋社編輯部編『枢密院建築画帖』洪洋社、1922年(国立国会図書館デジタルコレクション))

枢密院は、1888年に創設されました。翌年公布された大日本帝国憲法(明治憲法)の第56条では、枢密院について「天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議」する機関として、位置づけられていました。諮詢事項は、皇室に関する事項や憲法に関する法律・勅令、条約の承認などでした。また、枢密院本会議では、天皇が臨席して審議を行っています。写真2では、日本国憲法の審議について、昭和天皇が臨席している様子がわかります。

「枢密院本会議における日本国憲法審議の様子」
写真2「枢密院本会議における日本国憲法審議の様子」 帝国議会を通過して枢密院に御諮詢を奏請した案 (archives.go.jp)

明治憲法の第35条には「衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス」とあり、衆議院議員選挙法の改正には枢密院での審議のうえ、承認が必要でした。特に、枢密院においては衆議院議員選挙法の欠格事項について、長い時間をかけて審議されることとなります。

審査委員会での審議

では、枢密院において、衆議院議員選挙法の改正はどのように審議されたのでしょうか。審議過程は大きく2つの時期にわけることができます。

「独立の生計について議論する枢密院審査委員会」(該当箇所は4コマ)
資料3-1「独立の生計について議論する枢密院審査委員会」(該当箇所は4コマ) 「衆議院議員選挙法中改正法律案帝国議会ヘ提出ノ件(一月二十四日)」(archives.go.jp)

1つ目の時期は、清浦奎吾内閣時の枢密院審議です。1924(大正13)年1月7日に成立した同内閣は、同月19日に衆議院議員選挙法の改正を枢密院に諮詢します。枢密顧問官から審査委員を務めたのは、金子堅太郎(審査委員長)、安広伴一郞、岡部長職、富井政章、平山成信、有松英義、山県伊三郎、山川健次郎、目賀田種太郎でした。
 資料3-1は、その審査委員会の議事録です。特に、岡部や山川から「独立ノ生計ノ標準及意義」についての質問や、有松から「独立ノ生計ヲ営マサル者ハ如何ナル者カ」と欠格事項についての質問が多く出たことがわかります。こうして枢密院での議論が始まったとき、清浦内閣は衆議院を解散しました。解散に伴い、枢密院での審議は停滞します。

2つ目は第二次憲政擁護運動によって加藤高明内閣(護憲三派内閣)が成立した後の枢密院への諮詢です。1924年6月11日、普通選挙制の導入を掲げた加藤内閣は、同年12月に衆議院議員選挙法改正法律案を枢密院へ諮詢し、委員会が開催されます。審査委員は、前回から半数が変わりました。前回委員会から引き続いて委員となったのは、金子・富井・有松・山川・平山の5名です。新たに加わった委員は、倉富勇三郎・黒田長成・平沼騏一郎・江木千之です。引き続き、金子堅太郎が審査委員長を務めました。この審査委員会は計24回開催されますが、審議内容の多くを占めたのが誰に選挙権を与えるのかという問題でした。
 それぞれの審査委員が選挙権について意見を述べた第4回・第5回の議論では、納税資格撤廃について多くの委員が賛成を表明しています。富井政章・倉富勇三郎の発言を見てみましょう(資料3-2)。
 富井は「納税資格撤廃ニハ不安アルモ賛成スルノ外ナシ」と述べ、消極的に賛成を表明しています。また、倉富は「納税資格撤廃ニ対シテハ其ノ弊害ノ矯正ヲ希望シツツ之ヲ是認スルノ外ナシ」と述べ、「弊害ノ矯正ヲ希望」しながらも、納税資格撤廃を是認する意向を示しています。多くの委員が納税資格撤廃について、賛成しながらも条件を付けるように提案していました。

選挙権についての意見交換を終えると、第6回以降は逐条審議に入ります。再び選挙権の問題を議論することとなるのは、第17回委員会から第19回委員会でした(資料3-3)。第17回委員会の冒頭で江木は、「一家ヲ構フル者ニ復投票権ヲ与フヘシ」との意見を開陳し、これに平山は賛成します。さらに、山川は「教育上ノ要件ヲ選挙資格ニ加フヘシ」と選挙資格に義務教育要件をいれようとします。こうした意見はいずれも少数意見として退けられます。ただし、「一定ノ住居ヲ有セサル者」という文言が選挙権の制限に加えられることとなりました。さらに、制限の条件について、平山から「独立ノ生計ヲ営マサル者」を加えた方がよいという意見が提出されます。平山が提案した文言は、賛成したものが少数であり、否決されます。一方、江木が提案した「自活ノ途ヲ得サル者」は可否同数のため委員長の採決により可決されます。ここまで見たように、貧困者に対する制限が議論の中心でした。ところが、選挙資格の欠格事項は貧困者のみの議論に限ったわけではありませんでした。
 Chapter2でも解説したように、衆議院議員選挙法には「華族ノ戸主ノ選挙権及被選挙権ヲ有セサルコト」という条文がありました。この条文は改正案では削除されています。すなわち、改正案は華族の戸主にも選挙権を認めるものでした。この件をめぐって、平山は復活を提起し、委員の採決は同数だったため、復活に賛同を示す金子委員長の裁定により可決となりました。

枢密院の審議は、有権者の議論ばかりではありませんでした。有権者を誰とするかといった議論とともに、注目すべきは治安維持法制定に向けた発言が確認できる点です。ここでもう一度、第4回委員会の審議内容を見てみましょう。検事総長を歴任した平沼騏一郎は「此ノ際普通選挙ヲ行フ為ニハ一面国民ヲ善導スル為ノ対策トシテ教育ノ改善ト思想ノ取締ヲ為スヲ以テ必要条件トス」と述べました。この平沼の発言は、上奏文に加筆されることとなりました。

枢密院審議の結末

「選挙権欠格者に関する枢密院審査報告」(該当箇所は3コマ)
資料3-5「選挙権欠格者に関する枢密院審査報告」(該当箇所は3コマ) 「衆議院議員選挙法改正法律案帝国議会ヘ提出ノ件」(archives.go.jp)

12月末から始まった枢密院の委員会は、1925(大正14)年2月12日に22回目を迎えました。第22回委員会は、枢密院側の修正案がまとまり、「修正案ヲ内閣ニ交渉スルコトニ関シ協議ヲ為ス」ことになりました。
 枢密院が修正案を決定したその日、加藤内閣は臨時閣議を開催しました。その結果、「自活ノ途ヲ有セサル者」を欠格者とすることに反対する方針が決定され、枢密院と内閣の方針が異なることとなりました。そこで政府は、枢密院議長浜尾新と副議長一木喜徳郎との間で調整を図り、妥協案を作成します。問題となった箇所は、「公私ノ救恤ヲ受クル者」と改めることにし、政府は枢密院の審議に臨みました。審議では、平山・有松・山川の三人が反対しただけで、委員の多数をもって了承され、枢密院本会議が開かれることになります。
 資料3-5は、委員会で議論した結果をまとめた審査報告になります。資料にある通り、「公私ノ救恤ヲ受クル者」及び「一定ノ住居ヲ有セサル者」を追加することが記されています。

「枢密院本会議の様子」(該当箇所は47コマ)
資料3-6「枢密院本会議の様子」(該当箇所は47コマ) 「衆議院議員選挙法改正法律案帝国議会ヘ提出ノ件」(archives.go.jp)

1925年2月20日、枢密院にて摂政宮臨席のもと、本会議が開かれます。会議は、金子堅太郎委員長の詳細な審査報告から始まりました。審査委員を務めた有松からは再度「自活ノ途ヲ有セサル者」へ修正するように主張するなど、審査報告に対して反対意見を述べました。さらに、反対意見を述べたのは久保田譲でした。久保田は、本法案改正に向けての沿革などを述べ、浜尾議長から「沿革ニ関スルコトハ吾々ノ熟知セルコトナルヲ以テ時間ノ都合モアリ簡単ニ述ヘラレタシ」と発言を簡潔にまとめることを促されるも、久保田の発言は止まりませんでした。明確に反対を示した久保田でしたが、多くの委員から寄せられた意見は改正に対して賛同を示していました。最終的に、有松・久保田・山川が反対したのみで、賛成多数で承認されました。 以後、会期末が迫った帝国議会に上程され、Chapter2で記されている通りの過程を経て、法案が成立することとなります。

ここまで見たように、枢密院の審議では有権者を誰とするのかという問題について、長く話し合われました。また、衆議院議員選挙法の改正と同時期に治安維持法が制定されましたが、その契機を枢密院の審議から見ることができます。枢密院については会議筆記や委員会録など会議の様子がわかる資料が多く残されています。紹介できなかった議論もあるので、資料画像下のリンクから議論の様子をご覧ください。

前川友太(アジア歴史資料センター調査員)

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