チャプター4

チャプター4 東アジアの議会開設運動
―中華民国の試み

中華民国の選挙

みなさんが「選挙」という言葉を聞いたとき、日本の国政選挙や地方選挙、あるいはアメリカ大統領選挙などを思い浮かべる方はいても、中国の選挙を想起する方は少ないのではないでしょうか。実は、中華民国が大陸を統治していた1912年から1949年までの間に、中国では、計3回の国会選挙が行われていたのです。本章では、1912年から1925年までを対象に、アジ歴で公開している関連資料を紹介しながら、中華民国初期の議会開設運動と選挙をめぐる経緯を解説します。

清朝末期の試み

1840年のアヘン戦争以降、列強は中国(清朝)への進出を加速し、中国は分割の危機に直面しました。こうした対外的危機感をもとに、清朝は、種々の改革に乗り出します。例えば、1905年9月には、官吏登用制度として1000年以上にわたり定着していた科挙を廃止しました。資料4―1は、科挙を廃止する上諭が発せられたことを現地日本公使が報告したものです。また、1908年8月に清朝は憲法大綱を公布します。これは、日本の大日本帝国憲法を模倣したとされています。

そして、翌1909年10月には、各省に諮議局という諮問機関が開設されます。これは正式な議会ではありませんでしたが、議員は選挙で選出されました。その選出は一定の職歴、学歴、財産等をもつ25歳以上の男性にのみ選挙権が与えられる制限選挙であり、全人口に占める有権者の割合は0.42%でした。以降、各省の諮議局は連合して、清朝に早期の国会開設を複数回にわたり請願します。

1910年10月には中央の諮問機関である資政院が設立されます。同院議員の半数は、前述の各省諮議局から選ばれた民選議員であったため、彼らはここでも国会の開設を清朝に要求します。これを受けて、清朝は、当初1916年を予定していた国会開設を1913年に前倒ししました。

中華民国の成立と議会の開設

こうして立憲主義的国家体制構築への歩みを始めた清朝でしたが、その試みは頓挫することとなります。1911年10月の武昌蜂起をきっかけとして、革命が勃発したのです(いわゆる辛亥革命)。その後、各省代表から構成される各省都督府代表連合会により、12月に「中華民国臨時政府組織大綱」(組織大綱)が議決され、翌1912年1月に臨時大総統に孫文が就任、南京における中華民国の成立に至ります。この直前の1911年12月末には、革命政府の中心たる孫文や宋教仁、汪兆銘(精衛)等が上海に会合し、新たな政府の形態をめぐって議論を交わしていました。孫文はもともと当面の間は、軍政府による独裁が望ましいと考えていたとされますが、革命直後の情勢は、この孫文構想を許容する状況になく、内閣制か大統領制かの二者択一を迫られた孫文は、次善の策として大統領制を選択しました。しかし、これは暫定的な措置にとどまるものであったため、以後、中華民国の統治機構の整備に向けた取組が本格的に開始されます。

1912年1月には、組織大綱にもとづき、臨時参議院が成立します。これは各省が派遣した代議員から構成され、国会選挙が実施されるまでの暫定議会と位置づけられました。革命政府の合法性を担保するために、選挙の実施が予定されたのです。そして、3月には、「中華民国臨時約法」(臨時約法)が公布されます。

「中華民国臨時約法公布に関する現地領事からの報告書」
資料4―2「中華民国臨時約法公布に関する現地領事からの報告書」 8 明治45年3月11日から明治45年3月15日 (archives.go.jp)

資料4―2は、この臨時約法が成立したこと及び条文の内容を、日本の南京領事が東京の外務本省に報告したものです。臨時約法には、選挙の実施及び国会(衆議院・参議院)の開設と、その国会により大総統府をチェックするプロセス、すなわち議院内閣制が規定され、大総統の権限は議会により大きく拘束されることとなりました。清朝末期に生まれた立憲制への希求は、こうして中華民国にも引き継がれていたのです。

この約法の制定に中心的役割を演じたのが、宋教仁です。宋の持論は、西欧的な議会制民主主義を一気に導入することでした。中華民国が成立したとはいえ、清朝が完全に崩壊したわけではなく、また、孫文ら革命派には清朝を打倒する力はありませんでした。そのため、孫文は、袁世凱に臨時大総統の座を譲ることとなります。こうして孫文が政治的に苦闘していた裏面で、宋教仁は自らの構想の実現に邁進します。臨時約法の作成は、前述の臨時参議院と法制局で進められていたのですが、宋は法制局の局長として辣腕をふるっていたのです。他方、孫文はこのプロセスに関与することができなかったため、宋が議論を主導する形となりました。

宋の構想の背景には、袁世凱の独裁に対する懸念がありました。宋は、袁世凱による専制を牽制するために、議会の権限の強い議院内閣制の導入を必要と考えたのです。ただし、理由はそういった権力政治的観点のみではありません。選挙を通じて議会に反映される民意の尊重が、統治の正当性を担保するには必要であるとの気運が、芽生えていたのです。そして、臨時約法では、大総統と副総統は参議院により選出されるとする議院内閣制が採用されました。

「中華民国の衆議院議員選挙法」1
「中華民国の衆議院議員選挙法」2
資料4―3「中華民国の衆議院議員選挙法」 衆議院議員選挙法 (archives.go.jp)

臨時参議院は1912年5月、北京で開会し、選挙の実施に向けて、「国会組織法」、「衆議院議員選挙法」、「参議院議員選挙法」及び「省議会議員選挙法」といった関連法を次々に整備しました。資料4―3は、衆議院議員選挙法及び参議院議員選挙法の条文を日本の外務省がとりまとめた資料になります。
 選挙権は、21歳以上の成人男性で、かつ同一選挙区に2年以上居住している者で、一定の学歴(小学校卒業等)や財産・納税要件(500元以上の不動産所有、直接税を年間2元以上納付しているなど)をみたす者に与えられました。他方で、アヘン使用者や文字を書けない者、精神疾患のある者や破産者は、選挙権を喪失する旨が規定されました。
 選挙制度の整備が進められたことを受けて、政党の結成も促進されます。例えば、1905年に東京で孫文を中心に結成された中国同盟会は、1912年8月に他の複数の政治結社と合流して国民党を結成し、孫文が理事長に、宋教仁らが理事に就任します。

「中華民国国会議員選挙情勢に関する報告書」
資料4―4「中華民国国会議員選挙情勢に関する報告書」 2 支那国会議員選挙情勢ニ関スル件 2(archives.go.jp)

以上の制度設計を終えて、1913年2月、ついに中華民国で衆参両院選挙が行われ、国民党が第一党になりました。この選挙における全人口に占める有権者の割合は、約10%であったと推計されています。なお、1890年に日本で実施された最初の衆議院議員総選挙における同比率は1.1%でした。資料4―4は、当該選挙の情勢や結果を有吉明上海総領事がまとめたレポートの目次です。

袁世凱の台頭と挫折

「宋教仁狙撃を伝える報告書」
資料4―5「宋教仁狙撃を伝える報告書」 分割1 (archives.go.jp)

こうして順調に歩み出したかに見えた中華民国の議会ですが、その前途に早くも暗雲がたちこめます。第1回選挙終了からわずか1ヵ月ほど後の3月、宋教仁が袁世凱の放った刺客により暗殺されたのです。資料4―5は、宋の暗殺を伝える現地からの報告電です。

「袁世凱が大総統に選出されたことを伝える北京からの報告書」
資料4―6「袁世凱が大総統に選出されたことを伝える北京からの報告書」(防衛研究所戦史研究センター所蔵) (極秘)大正2年9月1日~大正2年10月31日 清国事変関係外務報告 第27綴(7)(archives.go.jp)

宋の暗殺という衝撃を経ながらも、1913年4月には選挙により選出された議員からなる国会(「第一次国会」)が召集されました。国会に向けられた国民の期待は、しかし、すぐに失望へと変わっていきます。欠席する議員が多発し議事がまともに進行しないなど、議会の秩序が乱れがちだったことなどが理由とされています。そして、10月に第一次国会で袁世凱が正式に大総統に選出されると、袁は同月、議院内閣制の廃止を目的とする臨時約法の修正案を提出します。
 袁はさらに、11月には国民党の解散と同党議員の議員資格を剥奪する決定を下します。生まれたばかりの中華民国の議会は、このように危機に瀕する状況に追い込まれました。しかし、実際には議会への失望から世論はむしろ袁の方を支持していたとされています。

そして翌1914年1月、袁世凱は第一次国会の解体を宣告します。2月には各省の議会も解体され、5月に大総統の権限を強化する新たな「中華民国約法」を公布、臨時約法は廃止されます。ここに立法府に対する行政府の優位が確立され、議院内閣制は崩壊に追い込まれました。袁世凱はさらに「修正大総統選挙法」を制定し、任期を10年にして重任も可能としました。翌1915年9月、袁は、大総統の諮問機関として設置された参政院に国民代表大会組織法を制定させ、翌10月に各省で国民代表選挙が実施されます。そして、同年11月、その国民代表の投票により皇帝に推戴された袁世凱は、翌月に推戴書を受理し、皇帝に即位しました。独裁的イメージの強い袁世凱ですら、形式的にせよ民意による推戴という形式をとる必要があったことには留意する必要があります。

「袁世凱逝去を伝える新聞記事」
資料4―7「袁世凱逝去を伝える新聞記事」 Nichibei Shinbun_19160607 (archives.go.jp)

しかし、袁世凱の天下も長くは続きませんでした。1916年6月、袁は急死し、黎元洪新総統の命令により臨時約法と第一次国会が復活します。資料4―7は、サンフランシスコで発行されていた邦字新聞ですが、袁の逝去を大きく報じています。

議会の廃止

ところが、国務総理の段祺瑞と旧国民党系議員との対立が深まり、黎元洪は再び第一次国会を停止させました。段祺瑞は、第一次国会とは異なる別の国会を召集することとし、1918年5月末から6月初めに衆参両院議員選挙が行われました。これが中華民国史上、2回目の国会選挙となります。この選挙は、前述の第1回と同様に学歴や納税要件等を充たす男性にのみ選挙権が付与される制限選挙で、有権者の割合は15%弱であったと推定されています。

この選挙の結果は、安徽派の首領段祺瑞の側近が率いる安福系が多数を占めました。しかし、この多数は買収などの不法行為により獲得されたものでした。具体的には、投票用紙の売買や暴力行為、投票箱の中身の操作などが行われたとされています。

この第二次国会にも、第一次国会と同様に国会に強い権限が与えられていました。多数を占めた安福系は、その派閥的利害から数の力にまかせてことあるごとに政府を掣肘した結果、議会に対する世論の信頼は失われていきました。この第二次国会は、1920年7月の安直戦争で段祺瑞が失脚し、消滅してしまいます。

他方で、停止されていた旧第一次国会は、別の形で命脈を保っていました。旧第一次国会における旧国民党系議員は、1917年8月に広東で軍政府を成立させ、孫文が大元帥に就任します。旧第一次国会は、紆余曲折を経て1922年8月に北京で復活しますが、「曹錕賄選」すなわち、買収された議員が曹錕を大総統に選出したことで、国会の信頼は地に落ちました。そして1925年4月、政権に返り咲いた段祺瑞により、国会は廃止されることになります。中華民国の歴史上、選挙で選ばれた議員からなる次の議会が出現したのは、満州事変や日中戦争といった激動の時代を経た後の1948年でした。

金子貴純(アジア歴史資料センター研究員)

SNSでシェアする

X(旧Twitter)アイコン Facebookアイコン LINEアイコン
スクロールアイコン

PAGE TOP