チャプター1

チャプター1 普通選挙の世界的潮流と
第二次憲政擁護運動

普通選挙の世界的潮流

現在では主要国で普通選挙が広く実施されていますが、その実現までの経緯は、国によって千差万別でした。この節では、日本の男子普通選挙実現までの過程を見ていく前に、諸外国における普通選挙実現までの歴史的経緯について、主要な国に絞って概観したいと思います。

なお、冒頭でも述べた通り、本展では様々な普通選挙像を描くという趣旨から、加藤高明内閣による1925(大正14)年衆議院議員選挙法改正案以前の普通選挙に関する運動や法案については、歴史資料上の用語という観点から普通選挙や普選、普通選挙法という言葉を用います。本来であれば女性参政権が与えられなかったことから男子普通選挙と記載すべきところではありますが、同理由に鑑み、あらかじめご了承ください。

「枢密院会議筆記に含まれる各国の選挙事情に関する「参考資料」」
資料1―1「枢密院会議筆記に含まれる各国の選挙事情に関する「参考資料」」 参考資料/各国選挙事情 一冊 (archives.go.jp)

まず第1に、「民主主義の学校」といわれるイギリスです。中世にその淵源をもつイギリス議会は、1832年の第1次選挙法改正により、選挙区の整備が進められ、一定の財産をもつ者に選挙権が付与されました。その後、第2次改正(1867年)、第3次改正(1884年)を経て、財産要件は低減されました。そして、1918年の第4次改正により、21歳以上の男性と30歳以上の女性に選挙権が与えられることとなりました。この段階で、前述の財産要件は撤廃されました。1928年には第5次改正が実施され、年齢要件における男女差の均等化、すなわち、21歳以上の男女双方への選挙権付与が実現し、ここに普通選挙制度が確立されました。

第2に、アメリカです。制限選挙の場合、選挙権を制限する要件とされるものは、「性別」や「財産」であるのが一般的ですが、アメリカではこれらの他に、「人種」による制限がありました。アメリカ選挙制度の歴史は、奴隷解放後のアフリカ系市民への選挙権付与をめぐる過程だったともいえます。その画期となったのが、合衆国憲法修正15条が成立した1870年でした。この修正は、人種等や、過去に奴隷であったことを理由とする選挙権の制限を禁じ、併せて、選挙権に関する人種差別を防止する立法権限を、連邦議会に与えることとなりました。その結果、アフリカ系市民の選挙権は確保されました。ところが、アフリカ系市民の選挙権を制限しようという、形を変えた試みがその後も執拗に続けられます。有権者登録の際に読み書きテストを実施したのが一例です。アフリカ系市民の識字率は一般的に低い水準にあったとされるため、これにより事実上、選挙権が制限されてしまったのです。それ以降、第二次世界大戦後の1950年代から、アフリカ系市民の選挙権を保障するための施策が講じられ、1975年にはこの読み書きテストも廃止されました。なお、アメリカで女性の選挙権が認められたのは、1920年に成立した修正憲法19条によってでした。

続いて、ドイツの選挙制度です。ドイツ帝国(プロイセンを中心とする連邦国家、1871~1918年)では、25歳以上のすべての男性に選挙権を与える男子普通選挙制度が実施されていました。その後、第一次世界大戦における敗北の直前の1918年、ドイツ革命が勃発し、ドイツはヴァイマル共和国へと移行します。新体制移行後、新たな憲法制定を担うための憲法制定国民議会議員の選挙では、女性の選挙権を認めた普通選挙が実施されました。また、国民議会での審議の結果、1919年に成立したヴァイマル憲法は、満20歳以上の男女に選挙権を認める完全な普通選挙制を導入しました。同憲法が民主的な内容であったと今でもいわれるゆえんです。しかし、その民主的な選挙制度により台頭したのが、ヒトラー率いるナチス党でした。皮肉にも、選挙という民主的プロセスにより「合法的」に政権を掌握したヒトラーが、1933年に全権委任法を成立させたことで、ヴァイマル体制は崩壊しました。

最後にフランスです。1789年に始まる革命の結果、共和制に移行したフランスでしたが、1791年制定の憲法では、一定の納税要件を課す制限選挙が規定されました。その後、1848年の二月革命の結果、いわゆる第二共和制が成立し、21歳以上の男性を対象に選挙権を認める男子普通選挙制が採用されました。他方で、フランスで女性が選挙権を獲得するのは、第二次世界大戦最中の1944年4月(選挙の実施は1945年10月)まで待たねばなりませんでした。

以上のように、諸外国の普通選挙をめぐる潮流を見てきました。以降では、日本の男子普通選挙実現に至るまでの過程をアジ歴公開資料をもとに展示・解説していきます。

第2次護憲運動までの日本における普選運動

初の衆議院議員総選挙に向けて1889(明治22)年に制定された衆議院議員選挙法では、直接国税15円以上を納めるという納税要件が課されていました。この納税資格要件は度々改められ、1919年には3円以上まで軽減されます。それでも納税資格が要件として残された点には、一定の財産を持たない人には政治的な判断ができないという思想が根強かったことが挙げられます。当時の普通選挙に対する反論には、「恒産なくして恒心なし」(定まった財産や職業が無い人には道徳心が無い)という『孟子』の言葉が用いられていました。

「芝公園の普選大懇談会で演説する尾崎行雄」(尾崎行雄記念財団提供)
写真1「芝公園の普選大懇談会で演説する尾崎行雄」(尾崎行雄記念財団提供)
「普選大懇談会後に原敬首相邸で警官隊と衝突する群衆」(『歴史写真』大正9年7月号、国立国会図書館デジタルコレクション)
写真2「普選大懇談会後に原敬首相邸で警官隊と衝突する群衆」(『歴史写真』大正9年7月号、国立国会図書館デジタルコレクション)

これに対して、普通選挙制度の導入は明治期から議題に上がっており、度々議会に提案されています。第一次世界大戦後になると、普通選挙を求める声は次第に大きくなり、大正デモクラシーと呼ばれる時代の中で普選運動と呼称され、社会運動の様相を呈していくようになりました。
 そして、1919年の第42議会では、普通選挙を時期尚早とする原敬政友会内閣と、普通選挙の早期実施を求める野党の憲政会が対立し、普通選挙の実施可否を問う形で解散総選挙が行われました。この選挙で原内閣が「普選脅威論」を展開して勝利をおさめたことで、普選運動は一時的に縮小していきます。

1923年8月24日、加藤友三郎首相が急死したことを受け、山本権兵衛に組閣の大命が下りました。山本は普通選挙法案の議会提出に意欲を見せます。しかし、組閣中の9月1日に関東大震災が発生し、山本内閣は災害対応にかかり切りになっていきます。そして12月27日、初の通常議会である第48回帝国議会を迎えました。

虎ノ門事件と清浦内閣の成立

「山本権兵衛首相の辞表」1
「山本権兵衛首相の辞表」2
資料1―2「山本権兵衛首相の辞表」 依願免本官 内閣総理大臣 伯爵山本権兵衛 (archives.go.jp)

1923(大正12)年12月27日、第48回帝国議会開院式へ行啓のため皇居を出た摂政宮(せっしょうのみや、のちの昭和天皇)の御料車が虎ノ門にて銃撃される事件が起こります。同乗していた入江為守東宮侍従長が軽傷を負ったのみで摂政宮に怪我はなく開院式に台臨しました。第二次山本内閣はこの事件の責任を取り、総辞職に至ります。

資料1―2は虎ノ門事件の責任を取って総辞職した際の山本権兵衛首相の辞表です。辞表の冒頭には「今回ノ事変ニ当リ臣権兵衛恐懼ニ伏シテ辞表ヲ上リシ処天恩厚大辱クモ優旨ヲ下シ給フ」とあり、辞表を提出したものの慰留されたことがわかります。

「任内閣総理大臣 枢密院議長 子爵清浦奎吾」
資料1―3「任内閣総理大臣 枢密院議長 子爵清浦奎吾」 任内閣総理大臣 枢密院議長 子爵清浦奎吾 (archives.go.jp)

当時、後継首相の奏薦は元老西園寺公望によって担われていました。西園寺は近い将来の衆議院議員総選挙の実施を念頭に選挙管理内閣として清浦奎吾に首班を預けました。資料1―3は清浦奎吾が内閣総理大臣に親任されたことを示す『公文別録』の記載です。清浦奎吾は肥後国(現在の熊本県)出身で、山県有朋系官僚として有名な人物です。司法相や農商相、枢密顧問官や枢密院議長などを歴任し、首相候補として名前が挙がったこともありました。

「憲政擁護懇親会における護憲三派党首(右から加藤高明、高橋是清、犬養毅)」(江戸東京博物館提供)
写真3「憲政擁護懇親会における護憲三派党首(右から加藤高明、高橋是清、犬養毅)」(江戸東京博物館提供)

清浦は組閣の大命降下を受け1924年1月7日に組閣します。その際、政党員から閣僚を取らなかったため、「特権内閣」であると批判されることになりました。1月18日、立憲政友会・憲政会・革新俱楽部のいわゆる護憲三派は「憲政の本義に則り、政党内閣の成立を期す」との申し合わせを行い、第二次憲政擁護運動が始まりました。この運動に対して、政友会の一部が清浦内閣との協調路線を取ることを主張して脱会し、政友本党が組織されます。

「1924年2月12日に行われた地方長官会議における清浦内閣総理大臣訓示」
資料1―4「1924年2月12日に行われた地方長官会議における清浦内閣総理大臣訓示」 清浦内閣総理大臣訓示(大正13年2月12日) (archives.go.jp)

しかしながら、実際には清浦首相は普通選挙法案を議会に提出することを言明し、枢密院に諮詢するなど普通選挙実現に向けて政策立案を行っており、近年の研究でも清浦内閣と護憲三派内閣の間の政策面での相違は僅少であったことが指摘されています。資料1―4は1924年2月12日に行われた地方長官会議での清浦首相の訓示です。この訓示で清浦は「特権階級内閣ナリト揚言スルカ如キコトハ何等ノ理拠ナキ」ものであると護憲三派を批判し、また「衆議院議員選挙権ヲ拡張シテ更ニ民意暢達ノ途ヲ開」くため「選挙法ノ改正」を議会に提出準備中であること等を明らかにしています。

衆議院解散と第15回衆議院議員総選挙

「第48回帝国議会衆議院解散の詔書」
資料1―5「第48回帝国議会衆議院解散の詔書」 御署名原本・大正十三年・詔書一月三十一日・衆議院解散 (archives.go.jp)

1923(大正12)年12月27日より始まった第48回帝国議会は、開院式に行啓のため御所を出た摂政宮が銃撃され、会期早々に第二次山本内閣が総辞職するという波乱の幕開けとなります。帝国議会では慣例となっていた年末年始の休会が明けて1924年1月に入ると、22日に清浦首相の施政方針演説が予定されていました。しかし、摂政宮の御成婚祝賀期間中の政争を回避するとの理由から、更に休会が重ねられます。

休会明けの1924年1月31日、衆議院本会議では内閣不信任決議案の提出が予定されていたため、大荒れの会議となることが予想されていました。加えて、再会前日の1月30日には護憲三派列車転覆未遂事件が発生したため混乱に拍車がかかります。この事件は大阪で行われた憲政擁護関西大会の帰途、加藤高明・高橋是清・犬養毅・尾崎行雄ら護憲運動の中心人物26名を乗せた列車を脱線させようと、線路上に障害物が置かれたという事件です。幸い機関車が乗り上げて脱線したのみで列車は無事でしたが、これが政治的な陰謀なのではないかとの批判が起こりました。

31日の本会議では、開会直後に革新俱楽部の浜田国松がこの列車転覆未遂事件に関する緊急質問を行います。浜田の質問に対して小松謙次郎鉄道大臣が答弁に立ちますが、その際に議場に暴漢が乱入、議長席を占拠して万歳三唱するという事件が起こり、本会議は休憩に入りました。こうした事態に清浦内閣は衆議院を解散、第15回総選挙に臨むことになります。資料1―5は同日に衆議院の解散を命じた天皇の詔書です。

第15回衆議院議員総選挙は、5月10日に実施されます。護憲三派は男子普通選挙の早期実現を1つの大きなスローガンとして勝利を収めました。

「原敬内閣で大蔵大臣に任じられた「男爵」高橋是清(公文別録)」
資料1―6「原敬内閣で大蔵大臣に任じられた「男爵」高橋是清(公文別録)」 任大蔵大臣 男爵高橋是清 (archives.go.jp)
「加藤高明内閣で農商務大臣に任じられた「平民」高橋是清(公文別録)」
資料1―7「加藤高明内閣で農商務大臣に任じられた「平民」高橋是清(公文別録)」 任農商務大臣 高橋是清 (archives.go.jp)
「是清スナップ写真」(江戸東京博物館提供
写真4「是清スナップ写真」(江戸東京博物館提供)

護憲三派の一派、立憲政友会の総裁である高橋是清は第15回総選挙の直前まで、その功績から爵位を与えられた華族でした。当時の選挙法では華族に衆議院議員の被選挙権が与えられていません。そこで高橋は立憲政友会総裁として、爵位を息子に譲って平民となりこの第15回総選挙に挑みます。また、高橋は1921年に暗殺された元首相原敬の選挙区である岩手県第一区から出馬・当選し、政友会の正統な後継者としてのアピールにも成功しました。

資料1―7は、第15回総選挙後に組閣した加藤高明内閣の閣僚名簿です。農商務大臣高橋是清の部分に着目してください。肩書として従三位勲一等と記されるのみで、爵位が記載されていません。資料1―6は1918年に成立した原敬内閣の閣僚名簿ですが、そこでは「男爵」高橋是清として記載されています。これらから、高橋是清は「平民」として農商務大臣に親任されたことがわかります。こうした高橋の行動は、大正デモクラシーと評価されるような当時の風潮に対して、自身の理解をアピールする戦術であったといえるでしょう。

金子貴純(アジア歴史資料センター研究員)
髙島笙(アジア歴史資料センター研究員)

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