チャプター5

チャプター5 海外邦字新聞に見る
日本の「普選」

日本人移民と邦字新聞

普通選挙の実現に関心を持っていたのは、日本国内の民衆だけではありませんでした。明治時代以降、多くの日本人がアメリカをはじめとする海外各地に移住しており、このような日本人は「同胞」と呼ばれていました。これらの日系移民の多くは、移住先の国への適応を目指しつつ、日本文化を継承し、日本の情勢にも引き続き関心を持ち続けていました。このような関心が反映されたものが、邦字新聞における報道です。日本人が海外に移住して以来、アメリカのカリフォルニア州、ハワイ州、ブラジルなど、多くの日本人が移住した地域では日系移民向けの日本語新聞(海外邦字新聞)が発行されていました。アジア歴史資料センターでは、スタンフォード大学フーヴァー研究所との提携により、同研究所が所蔵している邦字新聞を検索・閲覧することができます。本章では、日本の普通選挙に向けた運動の意義を理解するための手がかりとして、普通選挙に向けた運動がこれらの邦字新聞においてどのように報道されていたかをご紹介したいと思います。

『日米新聞』による普通選挙運動

まずご紹介するのは、サンフランシスコを拠点に発行されていた『日米新聞』です。同新聞は実業家の安孫子久太郎(1865-1936)の手により、既存の『桑港日本新聞』と『北米日報』を合併する形で1899年に創刊され、以後1941年末の廃刊に至るまで、サンフランシスコにおいて最大規模の日本語新聞として日系移民の人々に親しまれていました。安孫子久太郎の妻・余奈子は女子英学塾(後の津田塾大学)の創始者として知られる津田梅子の実妹で、関東大震災の際は女子英学塾の再建に貢献したといわれています。

「普通選挙 輿論勃興は当然」
資料5―1「普通選挙 輿論勃興は当然」 『日米新聞』1919年2月8日社説

1919年の初めから日本で普通選挙運動が活発化するようになると、『日米新聞』は積極的に普通選挙導入を訴えるようになります。1919年2月8日の社説では、「既成政党の代議士は金を散じ、情実の糸を手繰り行けば、先づ当選の望みあり、政治家としての地位は安心なれど若し普通選挙となれば、到底買収に堪へず、情実の煩に堪へず、転じて言論文章を以て一般国民に訴へ、人物本位に戦はざる可からざるに至り、現在の代議士及び之と拮抗したる候補者夫れ等総ての約三分の二は全然落伍する事とならん。」と述べ、現状の選挙制度における有権者の買収などの悪弊が普通選挙の導入により改善され、人物の資質に応じて議員が選ばれるようになると主張しました。

「普通選挙 先づ実施せよ」
資料5―2「普通選挙 先づ実施せよ」 『日米新聞』1920年2月29日社説

1920年初めの帝国議会では、憲政会などの野党が普通選挙法案を提出したことに対し、普通選挙の時期尚早を訴える原敬内閣が同法案の賛否を問うとして衆議院を解散しました。この選挙に与党政友会が勝利したことにより、普通選挙運動は一度鎮静化してしまいます。このような原敬内閣と政友会による普通選挙尚早論に対し、『日米新聞』は厳しい批判を向けていきます。1920年2月29日の社説では、「今議会に於ける普通選挙法案通過は冷静に観察し到底見込なきものと悲観せざるを得ざりしも、吾人は何故政友会が今尚国民を愚にし、我独り政治を解せるが如く振舞つて、国民一般の参政権を否認せんとするや此れを了解し得ざるものなり。」と述べ、野党による普通選挙法案に政友会が反対したことを厳しく非難しました。

「普選問題 議会に民衆化」
資料5―3「普選問題 議会の民衆化」 『日米新聞』1920年3月3日社説

衆議院が解散され、総選挙を控えた1920年3月3日の社説では、「政友会に最も有利なる選挙制を以て執行する今回の総選挙は、政友会の勝利を予測するもの多く、仮りに予測の如き結果を来すとも、之を以て国民は普選を要求せずとは断じて言ひ難く、僅かに国民の四分の一が同じ権利の均霑に同意せざりしと言ひ得るに過ぎず。」と述べ、総選挙での政友会の勝利を以て普通選挙尚早論が国民に支持されたとみなそうとする政友会の論理を強く牽制しました。

「普通選挙法案と民衆運動 政府の抑圧政策 巡査一万人召集」
資料5―4「普通選挙法案と民衆運動 政府の抑圧政策 巡査一万人召集」 『日米新聞』1923年2月24日社説

一度鎮静化した普通選挙運動は、1921年の末から再び徐々に活性化していきます。一方で、衆議院に提出された普通選挙法案の可決は議会多数派の政友会に阻まれ、普通選挙運動のデモに対する官憲の取り締まりも強化されていきます。このような中、1923年2月24日の『日米新聞』社説は、野党の普通選挙法案上程に対し警察官一万人が警備に動員されるとの報を受けて、「普選の要求は正当なる要求であり、苟くも公安を害さざる範囲に於ける運動ならば、毫も之を抑圧すべきものでなく寧ろ国民の政治的覚醒を祝すべき筈のものである。然るに予め雲霞の如き洋剣隊をならべ立て議事堂附近に非常線を張て人馬の往来を禁じ、集会でも開けば直ぐ解散を命じ、時には白刃を揮て群衆を追払ふといふやうなことは、到底日本でなければ見られない図である。」と述べ、運動に対する官憲の取り締まりを厳しく批判していきました。

「普選と今回の総選挙 日本政界の現状」
資料5―5「普選と今回の総選挙 日本政界の現状」 『日米新聞』1924年2月20日社説

1924年1月に内閣が清浦奎吾内閣に代わり、同内閣への協力をめぐり政友会が分裂、同月に清浦内閣が議会を解散すると、第二次憲政擁護運動が起こるとともに普通選挙運動も勢いを強めていきます。1924年2月20日の『日米新聞』社説は、政友会・憲政会・国民党による護憲三派が成立したことを受け、「憲政擁護運動も極めてよい。憲政は飽くまで擁護し、発達せしむべきに於て何人も異論のあるべき筈が無い。けれども憲政進歩の基礎たる普通選挙を阻止したものが憲政擁護を叫ぶのは寧ろ滑稽ではあるまいか。更に又憲政会なり、革新倶楽部なり、普選の為めに年来努力し来りたるは国民の感謝を以て記憶する処に相違無いが、普選の実現を例令暫時でも犠牲にして別の憲政擁護運動をしてゐる事も本末を顚倒した嫌ひありといふべきである。」と述べ、護憲三派の中で政友会が男子普通選挙への賛意をあいまいにしていることを批判しました。

「社会的大変動 普選後の日本」
資料5―6「社会的大変動 普選後の日本」 『日米新聞』1925年1月5日社説

同年5月の選挙で護憲三派が勝利し、加藤高明内閣が成立すると、いよいよ男子普通選挙制の導入が現実化していきます。1925年1月5日の『日米新聞』社説は、「今まで地主や金持ちや貴族のみの壟断していた政治立法上の発言権を貧乏人や労働者や腰弁にも与へると云ふのだから普選実施後の日本に今吾れ々々が想像出来ぬほどの変化は来るに相違が無い。軍閥と金権と政権が結合して、恰も前世紀層の怪物が偉大なる武器を背負つて其の武器の為めに営養の大部分を吸収されたと同じ様な不自然な状態を現して居る日本の状態は忽ち変化して来るであらう。」と述べ、男子普通選挙制導入後の政治の変化を期待する見解を示しました。

「遂に成立せる普選法 貴族院改革と政界の新機運」
資料5―7「遂に成立せる普選法 貴族院改革と政界の新機運」 『日米新聞』1925年4月1日社説

1925年3月末、ようやく衆議院議員選挙法改正案が両院で可決され成立します。これを受けて『日米新聞』は1925年4月1日の社説で、「普通選挙実施によつて議会の内容が著しく改善せられ、議員の素質が格段に精選されるとは予想出来ない。何となれば一般国民の政治的智識や訓練が十分でなく、判断が妥当を欠くこともあり得るからして、必ずしも人格識見の高邁なる人々ばかりが選出されると考へられないからである。けれども従来の選挙のやうに情実と因縁との投票も、将た買収も、選挙干渉も自然少く行はるるやうになり、言論文書の威力が比較的重きをなすは疑ふの余地なく、一般国民と共通の意志と感情と而して利害とを持つた者が多く選出せられる事になるから此の意味に於て議会の民衆化することも疑ふの余地が無い。」と述べ、男子普通選挙制の導入を積極的に評価しました。

『日米新聞』の普通選挙推進論を貫いていたものは、政治の実権が一部の官僚や軍閥、資産家に独占されているという認識と、普通選挙の実現によりその独占が抑制され、一般国民の意志が政治に反映されやすくなるという期待でした。『日米新聞』の認識は、まさに大正デモクラシーの政治思想の典型を示すものだったということができるでしょう。

『新世界』による普通選挙批判

『日米新聞』に続いてご紹介するのは、同じくサンフランシスコを拠点に発行されていた『新世界』です。同新聞は1894年にサンフランシスコの日本人キリスト教青年会(YMCA)によって創刊され、1903年からは山梨県出身の二宮屏巌(1875-1932)を主筆に迎えました。以後『新世界日日新聞』『新世界朝日新聞』と名を変えつつも、『日米新聞』と並んでサンフランシスコを代表する日本語新聞として多くの人々に読まれてきました。主筆の二宮は、桑港日本人会の会長を務めたこともあります。

「普選問題 日本全国を通じて 大示威運動」
資料5―8「辞と意義 日本国民の要求 デモクラシー実状」 『新世界』1920年3月22日社説

普通選挙運動に対して積極的に支持を表明した『日米新聞』とは異なり、『新世界』では普通選挙運動を報じる記事や社説は少なく、その記事の多くは運動に対して批判的な態度をとっていました。例えば、衆議院総選挙での政友会の勝利により普通選挙運動が鎮静化しつつあった1920年3月22日、『新世界』の社説は「デモクラシーを叫ぶ国民は、政治上、経済上、教育、衛生、生活上に、機会均等主義を叫ぶのだらう、政府の鉄道を敷設された為に、何万人の住民が、職業を失つても顧られない地方もある、一方に私立の大会社を立てられた為に、一県水害頻年の県もある、立派な病院は県費で立てられたが、貧民は入院する事も出来ぬとは何だ、中学校は自分らも租税を出して居るが子供は入学を許されないと同様だ、デモクラシーを唱ふる国民は、辞よりは寧ろ実際の意味を解釈し、選挙問題のみでなく、モツト実生活問題を了解せねばならぬ。」と述べ、選挙権の平等よりも経済格差や都市と地方の格差を是正することを重視すべきだとの見方を示しました。

「是でも普選を叫ぶ 驚いた日本の政治思想 投票用紙を使へぬ人間が多数」
資料5―9「普選問題 日本全国を通じて 大示威運動」 『新世界』1922年2月24日社説

1922年に入り、野党が普通選挙法案を議会に提出し、普通選挙運動が再び活性化すると、同年2月24日の『新世界』社説は「今議会に於て、此問題が此紛擾を起すならんとは、何人も期待せる所にて、敢て驚くには足らざる事なるも、吾人は只日本国民思想の動揺に関して全般より憂慮する者なり。単に之を普選問題より言へば、日本国民の政治的智識が、果して之を要求する迄に発達し居れるや否やは尚疑問なり、過去数年間に起り来れる、デモクラチツクに関する議論や、労働問題に対する運動や、国民は尚真に自覚をなせるに非ずして、多くは扇動的議論に付和雷同する者多きは争ふ可からざる事実なるが如し。」と述べ、普通選挙運動に代表されるデモクラシーを目指す運動が過激主義によりけしかけられているとし、同運動に対して批判を投げ掛けました。

「我日本の普選案 愈実現の時となる国情一変せん」
資料5―10「是でも普選を叫ぶ 驚いた日本の政治思想 投票用紙を使へぬ人間が多数」 『新世界』1924年4月30日

1924年に入ると、第二次護憲運動が起こり、普通選挙運動も本格化していきます。総選挙を控えた1924年4月30日の『新世界』の記事は、「日本では近来普選論が輿論になつて猫も杓子も普選を唱へねば人間でないやうになつてきた。而しながら実際を見ると如何に国民の政治教育が乏しいかを知る。」と述べ、1923年に行われた府県会選挙において有権者約426万人のうち棄権者が約64万人、無効投票者が約5万人もいたことを挙げることで普通選挙にふさわしい国民の政治教育が不足していることを主張しました。

「我日本の普選案 愈実現の時となる国情一変せん」
資料5―11「我日本の普選案 愈実現の時となる国情一変せん」 『新世界』1925年3月31日社説

衆議院議員選挙法改正案が両院で可決された直後、1925年3月31日の『新世界』社説は、「何となれば之に因つて我日本の国情と言ふものは総く一変する事となり、善く言へば国運大発展の一区画となり、下手をまごつくと、国民の思想国民の社会生活、国民の三千年執り来つた方針を誤たしむる事になるからである。我々は普選論者の言にも傾聴し、反対論者にも耳を藉さざるを得なんだのである。」と述べ、男子普通選挙制の導入に一定の評価を与えながらも、反対論者の意見も考慮しなければならないと戒めました。

普通選挙運動が起こった時代は、労働問題への関心が高まった時代でもあり、労働運動の過激化に対する警戒や反発も高まっていく時代でもありました。『新世界』の普通選挙運動批判は、確かに競合する『日米新聞』への対抗という意味合いも持っていましたが、普通選挙運動が過激主義につながることへの警戒という点で一貫性を持っていました。このような見方もまた、大正デモクラシーの政治思想の重要な一面を表すものだといえるでしょう。

番定賢治(アジア歴史資料センター調査員)

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