2.アジア諸国との関係再構築
独立を回復した日本は、経済復興を進めるとともに、アジア諸国との友好関係の再構築に取り組んでいきました。
サンフランシスコ平和条約を締結しなかった国とは、個別に平和条約を締結しました。昭和27(1952)年にはインドとの平和条約である日印平和条約(「日本国とインドとの間の平和条約及び関係文書」)、中華民国との平和条約である日華平和条約(「日本国と中華民国との間の平和条約」)を締結しました。ビルマ(現ミャンマー)とは、昭和29(1954)年に、賠償・経済協力協定と併せて、平和条約(「日本とビルマ連邦との間の平和条約」)を締結しました。インドネシアとは、昭和31(1956)年に、賠償・経済協力協定と併せて、平和条約(「日本国とインドネシア共和国との間の平和条約」)を締結しました。
韓国とは、昭和40(1965)年12月に日韓基本条約(「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」)が発効し、日韓両国の国交が正常化しました。中華人民共和国とは、経済面での交流の積み重ねを経て、昭和47(1972)年に日中共同声明(「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」)が署名され、国交が正常化することとなります。
賠償・経済協力についてみると、サンフランシスコ平和条約に基づいて賠償協定・経済協力協定を締結したのが、ビルマ(昭和29(1954)年発効)、フィリピン(昭和31(1956)年発効)、インドネシア(昭和33(1958)年発効)、ベトナム(南ベトナム)(昭和35(1960)年発効)の4か国でした。
一方、賠償請求権を放棄したラオス・カンボジアや、サンフランシスコ平和条約上の賠償請求権と関わりのない国に対しては、無償の経済協力等を行いました。タイとは軍費調達時の借越残高問題(特別円問題)処理に関する協定、日本統治下にあった韓国とは、国交正常化にあたって有償・無償の経済協力協定が締結されました。
サンフランシスコ平和条約の調印時にイギリス領マラヤ連邦だったマレーシアとシンガポールには、経済協力協定の形で役務・生産物供与を行いました。北ベトナムとは昭和48(1973)年に外交関係を樹立。昭和50(1975)年に北ベトナム、昭和51(1976)年に統一ベトナム(ベトナム社会主義共和国)に対する無償経済協力が取極められました。
| 年 | 月 | 項目 |
|---|---|---|
| 昭和26(1951)年 | 9 | サンフランシスコ平和条約調印(昭和27年4月発効) |
| 昭和27(1952)年 | 4 | 日華平和条約調印(同年8月発効) |
| 6 | 日印平和条約調印(同年8月発効) | |
| 昭和28(1953)年 | 7 | 朝鮮戦争休戦協定の締結 |
| 昭和29(1954)年 | 11 | ビルマとの平和条約、賠償及び経済協力協定調印(昭和30年4月発効) |
| 昭和31(1956)年 | 5 | フィリピンとの賠償協定調印(同年7月発効) |
| 昭和33(1958)年 | 1 | インドネシアとの平和条約、賠償協定調印(同年4月発効) |
| 10 | ラオスとの経済及び技術協力協定調印(昭和34年1月発効) | |
| 昭和34(1959)年 | 3 | カンボジアとの経済及び技術協力協定調印(同年7月発効) |
| 5 | 南ベトナムとの賠償協定、借款協定調印(昭和35年1月発効) | |
| 昭和37(1962)年 | 1 | タイとの特別円処理に関する新協定調印(同年5月発効) |
| 11 | 日中長期総合貿易に関する覚書(LT覚書)調印 | |
| 昭和40(1965)年 | 6 | 日韓基本条約および請求権・経済協力協定等調印(同年12月発効) |
| 昭和42(1967)年 | 9 | マレーシアとの協定調印(昭和43年5月発効) |
| 9 | シンガポールとの協定調印(昭和43年5月発効) | |
| 昭和44(1969)年 | 4 | 米国とのミクロネシア協定調印(同年7月発効) |
| 昭和47(1972)年 | 2 | モンゴルとの外交関係設定に関する交換公文調印 |
| 9 | 日中共同声明調印(日中国交正常化) | |
| 昭和48(1973)年 | 9 | 北ベトナムとの外交関係設立に関する交換書簡調印 |
| 昭和50(1975)年 | 10 | 北ベトナムとの経済協力に関する交換書簡調印 |
| 昭和51(1976)年 | 9 | べトナム社会主義共和国との経済協力に関する交換書簡調印 |
| 昭和52(1977)年 | 3 | モンゴルとの経済協力協定調印(同年8月発効) |
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アジア歴史資料センターのデジタル・アーカイブでは、各国との平和条約・賠償協定の交渉・実施過程の文書や、条約の原本について、以下の資料群などの中に見ることができます。但し、当センターのデジタル・アーカイブ上では未だ公開されていない資料も多くあります。なお、今後、資料の原本の所蔵館からのデジタル画像の提供が行われれば、順次当センターのデジタル・アーカイブ上でも公開されることになります。
外務省外交史料館>戦後外交記録>B’門 条約、協定、国際会議、国際機関>3類 賠償
外務省外交史料館>戦後外交記録>外務省外交史料館>戦後条約書>二国間条約>アジア
以下、アジア歴史資料センターのデジタル・アーカイブ上で既に公開されている資料の一部をご紹介します。
◆中華民国との平和条約と国内向け説明資料
【資料9】件名「(題名なし)/(1)日華平和条約(条約文)」B21010300200(4~7画像目)
【資料10】件名「(題名なし)/(2)「日華条約」擬問擬答(三十三年二月十一日作成)/1.(題名なし)/(分割1)」B21010323300(46~48画像目)
サンフランシスコ講和会議に招かれなかった中華民国とは、昭和27(1952)年に平和条約を締結し、戦争状態を終結させました。【資料9】は日華平和条約の条約文です。
【資料10】は、条約の国会審議関係の資料に綴じられている、吉田茂総理大臣の答弁の記録(2月19日、衆議院予算委員会)。国民政府を中国全体の政府と認めて交渉するということではなく、「台湾国民政府を現に領有する、現に主権といいますか、統治を行っているその区域における政権と認めてこれと条約関係に入る」ものと説明しています。
また、吉田茂総理大臣は6月26日の参議院外務委員会では、中国全体との関係再開の希望を述べています。
◆中華人民共和国との貿易促進
【資料11】件名「衆議院決議 日中貿易促進決議」A21100497800(2~3画像目)
【資料12】件名「本邦対中共貿易関係 第2巻 分割5」B24010235700(2、23、24画像目)
中華人民共和国とは、東西の「冷戦」が続く中、昭和47(1972)年の国交正常化までには時間を要することになりましたが、経済面での交流は進められていきました。当時、米国主導のCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)による日中貿易の制限がありましたが、昭和27(1952)年には訪中した日本の国会議員団が第一次日中民間貿易協定を締結。昭和28(1953)年7月末には衆・参両院で日中貿易促進が決議されて、貿易制限の緩和等が議員側から望まれました。【資料11】は、内閣に送られた衆議院の決議文です(参議院決議はRef.A21100497900)。
この後、同年10月には第二次、昭和30(1955)年5月には第三次の日中民間貿易協定が締結されて、日中間の貿易が進展していくこととなります。【資料12】は、後の昭和39(1964)年に外務省が作成した調書「中共経済と日中貿易」で、この時期の経緯が書かれた箇所です。昭和27(1952)年に1500万ドルだった貿易額は、昭和31(1956)年には1億5000万ドルにまで拡大したことが記されています。
◆朝鮮戦争の休戦と日本の外交施策
【資料13】件名「6.朝鮮休戦の日本への影響/(題名なし)」B20010148900(26~28画像目)
日本の敗戦後、アメリカとソ連に分割占領された朝鮮半島では、昭和23(1948)年に大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立し、昭和25(1950)年6月には朝鮮戦争が始まりましたが、昭和28(1953)年7月27日に休戦協定が結ばれました。【資料13】は、休戦にともなう日本の外交施策案が書かれた文書です(8月3日付)。
国連・アメリカ・ソ連・中華人民共和国・北朝鮮・台湾・韓国・東南アジア諸国それぞれに対する外交施策案がまとめられています。
◆インドネシアとの賠償交渉の経緯をまとめた調書
【資料14】件名「6 調書「日本・インドネシア賠償交渉の経緯」(昭和30年3月)アジア局第三課」B24091076600(2、6、7画像目)
サンフランシスコ平和条約にもとづく賠償交渉は、昭和26(1951)年12月、来日したインドネシア使節団との間で、他国に先駆けて開始されました。【資料14】は、昭和30(1955)年時点でインドネシア賠償交渉の経緯をまとめた調書の表紙と冒頭部分。当初はかなりの見解の相違がありましたが、昭和33(1958)年には妥結に至りました。
◆ビルマとの条約・協定の調印書原本
【資料15】件名「日本国とビルマ連邦との間の平和条約/調印書」B21010398800(1、5画像目)
【資料16】件名「日本国とビルマ連邦との間の賠償及び経済協力協定/調印書」B21010401200(1、4画像目)
【資料15】【資料16】は、昭和29(1954)年に締結された、ビルマとの平和条約および賠償・経済協力協定の原本。日本文はこちらの資料(B24010090300)で読むことができます。賠償協定の交渉はアジアの各国と並行して進められていきましたが、ビルマが最初の妥結となりました。
◆ラオスの賠償請求権放棄の意向を伝える極秘電信
【資料17】件名「(4) ラオス」B24010108800(7~8画像目)
外務省と在外公館との文書のやり取りは、急ぎの場合は電信で行われます。【資料17】は、ラオスの首相と会談した在タイ渋沢大使から、高碕外務大臣代理へ送られた電信の写し。首相が日本に対する賠償請求権を放棄するとともに、経済援助を期待すると述べたことが伝えられています。極秘・至急扱いの通信となっています。
◆賠償協定に対するフィリピン紙の論調の報告
【資料18】件名「日本・フィリピン賠償交渉関係一件 新聞論調 第6巻」B24091104700(76画像目)
【資料18】は、日本・フィリピン間の賠償協定に関するフィリピン上院の審議について、フィリピン各紙の報道振りを伝える電信の写し。マニラの日本政府在外事務局から、外務本省に送られたものです。7月12日朝刊の記事が、その日の昼過ぎには外務省に届いており、外務大臣・次官以下各所に配られたようです。
◆南ベトナムとの協定調印式の写真・批准書交換式の次第
【資料19】件名「5.交渉経緯 1958年(昭和33年)1月以降~続(交渉妥結と賠償協定等の締結) 分割2」B24010136900(65、87画像目)
【資料19】は、南ベトナムとの賠償協定・借款協定調印式(昭和34(1959)年5月)の写真。日本からの出席者は藤山外相でした。右の資料は、批准書交換式(昭和35(1960)年1月12日)の式次第です。このような式の段取りに関する書類も残っています。
賠償協定の調印書は(B21010420200)、借款協定の調印書は(B21010422200)をご覧ください。
◆日韓国交正常化への道のり
【資料20】件名「1.一九四九年四月の日韓貿易金融協定及び会談議事録(英文)(一九四九.三.一〇~三.二二)」B19010203100(2~3画像目)
【資料21】件名「日本・韓国間外交 日韓国交正常化交渉史関係 「交渉史資料」 第2巻」B25090829300(2~3画像目)
韓国との間には、日本が占領下にあった昭和24(1949)年1月、東京に駐日韓国代表部が設置され、同年3月には連合国総司令部と韓国の間で通商会談が行われた結果、3月22日「占領下日本と韓国との貿易協定」「占領下日本と韓国との金融協定」が決定され、4月23日調印されました(『日本外交史』第28巻)。【資料20】は、3月22日の会談議事録(英文)で、条文が含まれています。日韓の経済関係復活には、両国の占領負担を抱える米国の強い働きかけもあったと言われます(『戦後日韓関係史』)。
サンフランシスコ平和条約が調印されると、その翌月から日韓国交正常化に向けた交渉が始まり、昭和40(1965)年、日韓基本条約および請求権・経済協力協定等の調印に至りました。その後、外務省では昭和42(1967)年から日韓交渉史の編纂が目指され、昭和43(1968)年に日韓国交正常化交渉史編纂委員会が発足して編纂が行われました。【資料21】はその過程で作られた年表の一つです(同委員会編纂資料として、ほかにもう一件(Ref:B25090829000)がアジ歴で公開されています)。同委員会による「総説」や、日韓国交正常化交渉に関する外交記録などは、現状ではアジ歴では公開されていません。
◆中華人民共和国との「LT貿易」覚書
【資料22】件名「(3)覚書」B24010241800(2画像目)
日中貿易は一時中断した時期もありましたが、1960年代に入って再開し、日中貿易拡大を志向する池田勇人内閣の支持のもと、昭和37(1962)年11月には「日中総合貿易に関する覚書」が調印されました【資料22】。この覚書に基づく貿易は、調印した廖承志(中国の政治家、後の中日友好協会会長)と高碕達之助(衆議院議員、元通産大臣)の頭文字をとって「LT貿易」と呼ばれます。政府に近い立場の人間が署名したことや、相互に連絡事務所を設置したことなどから、「準政府間貿易」とも形容されており、日中の経済交流進展の上であらたな一歩となりました。































