1.戦争の検証と講和
ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印した日本は、連合国軍の占領下に置かれました。宣言には「一切の戦争犯罪人」の「厳重なる処罰」についても記載されていました。占領下の東京では極東国際軍事裁判が開かれ、アジアの各地でも戦犯裁判が行われました。
一方、戦争の検証は、日本政府内でも試みられていました。内閣に設置された「戦争調査会」はその一つです。また、外務省では、「日本外交の過誤」という報告書がまとめられました。
昭和26(1951)年9月、サンフランシスコ平和条約(「日本国との平和条約」)が署名され、翌昭和27(1952)年4月に発効し、日本は主権を回復しました。戦争の終了、戦犯裁判、賠償、占領の終了などに関する記載が盛り込まれ、戦後処理を進める上での大きな一歩となりました。
◆極東国際軍事裁判の記録
【資料1】件名「A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)」A08071311400(2、6、118画像目)
【資料2】件名「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.166)」A08071308200(2、12画像目)
【資料3】件名「A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.171)」A08071309200(2、290、310、347画像目)
昭和21(1946)年1月、マッカーサーによって極東国際軍事裁判所が設置され、「平和に対する罪」(A級戦犯)、「通例の戦争犯罪」(B級戦犯)、「人道に反する罪」(C級戦犯)の裁判を管轄しました。【資料1】は、A級戦犯裁判の判決速記録の表紙・目次と末尾箇所。目次からもわかるように、判決文の朗読は、土日をはさんで実質7日間に及びました。末尾には、多数意見による判決に対してインド代表判事(パル(パール)判事)が反対、フランス代表判事(ベルナール判事)およびオランダ代表判事(ローリング(レーリンク)判事)が一部に反対して、それぞれ理由書を提出したこと、フィリピン代表判事(ハラニーリャ(ハラニーヤ)判事)が多数意見に同意して別個の意見を提出したことなどが述べられています。
【資料2】はパル判事の判決書の表紙と冒頭部分で、全部で5冊あります。【資料3】は、レーリンク判事の意見(2画像目~)、裁判長の別個意見(290画像目~)、ベルナール判事の反対判決(310画像目~)、ハラニーリャ代表判事の同意意見(347画像目~)のそれぞれ表紙部分。
◆中国・東南アジアにおける戦犯裁判抑留者たち
【資料4】件名「戦犯関係による残留者表」C14061078900(2~3画像目を結合)
【資料4】は、昭和21(1946)年9月時点での、戦犯関係の国外残留者数をまとめた表です。中国大陸や東南アジアなどの各地に、容疑者・証人・世話人などあわせて13,500名が残留していたことが記されています。復員連絡局法務調査部作成。
※なお、国立公文書館(本館)には、前掲のA級戦犯裁判記録(【資料1~3】)をはじめ、デジタル公開されていないA級戦犯弁護関係資料、BC級戦犯裁判関係資料などが、資料群「戦争犯罪裁判関係資料」として所蔵されています。その概要や利用・検索方法は国立公文書館リサーチ・ガイド002をご覧ください。
◆戦争調査会とその調査項目
【資料5】件名「調査項目(案)」A20040001500(1~4画像目)
昭和20(1945)年11月、幣原喜重郎内閣において、戦争の原因と実相を調査する「大東亜戦争調査会」(のち戦争調査会)が設置されました。
①政治外交、②軍事、③財政経済、④思想文化、⑤科学技術の5部会が設置され、部会長には斎藤隆夫(衆議院議員)、飯村穣(元憲兵司令官、元総力戦研究所所長)、山室宗文(元三菱信託会長)、馬場恒吾(読売新聞社社長)、八木秀次(大阪帝大総長)が着任しました。総裁は幣原首相が自ら務めました。
アジア歴史資料センターでは、同会事務局が残した16冊の資料(国立公文書館所蔵)をデジタル公開しています(資料群「戦争調査会事務局」)。【資料5】は、同会事務局が残した資料のうち、昭和21(1946)年8月に内定していた調査項目のリストです。調査項目は「日本人の世界観及び国民性の概観」に始まり、最後には「戦争調査の結果に基づく平和日本建設の構想」が掲げられました。また、事務局によって、各省庁保有資料の実態把握や、関係者への聴取、各地の軍需工場・研究所等の資料調査などが進められていました。
しかし、対日理事会(連合国の対日占領監理機関)で戦争調査会の存在に疑問が呈されたこともあり、昭和21(1946)年9月、GHQの意向のもとに廃止されることとなりました。
(参考:幣原喜重郎(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より))
◆「日本外交の過誤」
【資料6】件名「15 「日本外交の過誤」及びその所見」B25090785300(32~33画像目)
吉田茂総理大臣は、対日講和の進展に備え、満州事変から終戦までの期間の日本外交を検討し、戦争阻止や早期終結のために外務省がとるべきだった態度を考察するよう、外務省に指示しました。【資料6】は、その結果まとめられた調書「日本外交の過誤」の表紙・目次と冒頭部分です。「今日の結果からすれば、この期間における日本の対外策は、大局的にいつて、作為または不作為による過誤の連続であつたということにならざるをえない」と記されています。
ちなみに、3月段階の草案(7画像目~)には各所に吉田茂総理大臣による書き込みが見られ、表紙には「本稿の趣旨にて省員へ講演を試み批評せしむへし」などと書かれているのが読みとれます(参考:『外交史料館報』第34号口絵)。
(参考:吉田茂(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より))
◆占領期の中間賠償
【資料7】件名「(10)賠償問題経過一覧図」B19010377400(2画像目)」
賠償問題について、連合国側は、日本の工場設備等の現物を中国など被害各国に移転する計画を立て、昭和22(1947)年から実施されました。平和条約による最終的な賠償ではないため中間賠償と呼ばれました。【資料7】は、昭和24(1949)年1月段階で賠償局調査課が作成した、中間賠償の経緯を表にまとめたものです。
この中間賠償は、占領政策の転換によって日本の経済的自立が重視されるようになるなか、昭和24(1949)年5月中止が決定され、昭和25(1950)年5月に最後の輸送船が出帆しました。
この間、工作機械、旧軍工廠研究所の科学技術機器類、火力発電設備などが賠償として搬出されました。資料により数値に違いがありますが、約4~5万台の機械が搬出されたとの記録があります(大蔵省財政史室編『昭和財政史』)。
◆サンフランシスコ平和条約
【資料8】件名「日本国との平和条約及び関係文書公布の件(事後報告)(外務省)」A17112577900(2~4画像目)
昭和26(1951)年9月、アメリカのサンフランシスコで講和会議が開かれました。日本を含む52カ国が参加し、49か国が平和条約に署名、翌年4月に発効しました。
講和会議には、アジアからはフィリピン、インドネシア、ラオス、カンボジア、ベトナム、パキスタン、セイロン(現スリランカ)が参加し、条約に署名しました(インドネシアは批准しませんでした)。インドとビルマは不参加で、中華人民共和国と中華民国は招請されませんでした。
【資料8】は、同日の内閣次官会議の資料に収められた条文の冒頭部分です。
この条約では、戦争状態の終了と日本の主権の承認(1条)、朝鮮の独立承認や台湾・澎湖諸島・千島列島・南樺太・南洋諸島の権利・権限・請求権の放棄(2条)、南西諸島(琉球諸島など)・南方諸島(小笠原諸島など)等の扱い(3条)、極東国際軍事裁判並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾(11条)、賠償に関する条項(14条)などが定められました。
会議を主導したアメリカ・イギリスは、日本の早期の経済的自立を求めて賠償を求めない方針でしたが、他の国々から反対意見があがり、賠償に関する条項が加わりました。
公布の際の御署名原本(国立公文書館所蔵)





















