東京オリンピック、1940年 ~幻のオリンピックへ~

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2つの「東京オリンピック」―1964年と1940年

昭和39年(1964年)10月10日、東京で第18回夏季オリンピックが開幕しました。このオリンピックは、東京を中心に新幹線や高速道路などの急速な開発を呼び、戦後日本のめざましい復興・発展を世界にアピールする絶好の機会となりました。また、日本はもちろんのこと、アジアで初めてのオリンピック開催という意味も持っていました。

しかし、実はこれをさかのぼること24年、昭和15年(1940年)の9月にも東京―当時は東京都ではなく東京市です―でのオリンピックの開催計画があったことをご存知でしょうか。これは結果的に実現しなかったため「幻の東京オリンピック」と呼ばれますが、しかし、招致活動、開催地決定、そして会場建設といった準備は実際に進められたので、当時の人々にとって、これは間違いなく現実のものでした。

アジ歴の資料を見ながら、この1940年の東京オリンピックが現実のものから幻へと変わってしまうまでの経緯をたどってみましょう。

オリンピック招致活動

  • (1) 東京市長から外務大臣への電報

    (1) 東京市長から外務大臣への電報

東京でのオリンピック開催を目指す動きが始まったのは、昭和4年(1929年)の国際陸上競技連盟会長エドストレームの来日がきっかけでした。昭和6年(1931年)には、東京市議会でオリンピック招致活動の開始が正式に決定されます。開催予定年は昭和15年(1940年)、この年は日本では紀元2600年―『日本書紀』に書かれた神武天皇の即位から2600年目という意味です―にもあたり、これを記念する一大行事としてオリンピックが位置付けられたのです。

昭和7年(1932年)に、東京市長は外務大臣に対して、この年の夏に行われるロサンゼルス・オリンピックに際して、各国の有力者が集まる機会を利用して、大使や領事から東京へのオリンピック招致を国際的に働きかけてほしいと要請しました。 (1) は、この時の文書の一部です。ここでは、東京オリンピック開催の狙いとして、1940年が紀元2600年にあたり、その記念として絶好の機会であること、「国民体育」の上で大きく役立つこと、世界の人々に日本に対する理解と関心を深めてもらうことが挙げられています。

昭和7年のロサンゼルスでのIOC(国際オリンピック委員会)総会において、日本は正式に開催地への立候補を表明しました。昭和10年(1935年)のIOC総会では、1940年のオリンピック開催地候補は、東京、イタリアのローマ、フィンランドのヘルシンキの3つにしぼられましたが、その後、日本による働きかけによりローマが辞退し、結局、昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックの際のIOC総会で、1940年の第12回オリンピックの開催地が東京に決定されました。

開催準備

  • (2) 第12回オリンピック東京大会組織委員会『会報』第1号

    (2) 第12回オリンピック東京大会組織委員会『会報』第1号

  • (3) 「準備は進む 東京オリンピック大会」

    (3) 「準備は進む 東京オリンピック大会」

  • (4) 「準備は進む 東京オリンピック大会」

    (4) 「準備は進む 東京オリンピック大会」

東京でのオリンピック開催が決まると、本格的な準備が開始されます。(2)は、昭和12年(1937年)4月15日に発行された、「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の『会報』第1号の1ページ目です。この冒頭に「第十二回オリンピック東京大会組織委員会ハ昭和十五年東京市ニ於テ開催セラルル第十二回オリンピック東京大会ニ関スル一切ノ計画ヲ決定ス」と記されているように、開催準備は、昭和11年(1936年)12月に東京市長や大日本体育会長、各省庁次官などを中心に組織されたこの委員会のもとで進められました。東京市内ではさまざまな整備工事が行われ、宿泊施設も次々と建設され、もちろん、会場の建設も開始されました。

(3) (4) は、昭和13年(1938年)4月6日付の『写真週報』の「準備は進む 東京オリンピック」と題された記事です。記事の本文や掲げられた写真に添えられた文章には会場計画などの準備状況について書かれています。既に記念品が多数販売されていることも紹介されています。主競技場には、明治神宮外苑競技場を作り変えて使用する案や、駒沢に新たに建設する案などがあり、この時点では検討中だったようです。他にも、駒沢にプールを建設する計画、芝浦の埋め立て地に自転車競技場を建設する計画など、さまざまなものがあったことがわかります。

しかし、この『写真週報』が発行された頃には、実は、オリンピックの実現に向けた道のりには大きな影が差していました。国内外で、開催に反対する動きが起こっていたのです。

反対運動

  • (5) 駐ブリュッセル大使から外務大臣への電報

    (5) 駐ブリュッセル大使から外務大臣への電報

東京オリンピック開催に対する反対の動きが起こることとなった大きなきっかけは、昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件―日本軍と中国軍との間で起きた衝突事件―が勃発したことと、この翌年には日本と中国との間の戦争(日中戦争)が長期化する見通しが強まっていたことでした。

国内では、国際的な緊張が高まっている状況で、オリンピックなどを開催するべきかどうか、という疑問が出ていました。その一方で、国外からは、日本と中国との軍事的な衝突が問題視され、日本がオリンピックの開催地として適当かどうかが問われていました。特に、国際社会における日本批判は勢いを増し、IOC会長ラトゥール伯爵のもとには、東京オリンピック開催に反対する声が多数寄せられました。こうした事態を受け、日本に辞退を求めることを決めたラトゥール伯爵は、昭和13年(1938年)4月2日、自ら駐ブリュッセル大使の来栖三郎のもとを訪れました。 (5) は、来栖大使が本国の外務大臣に対してラトゥール伯爵の来訪を報告した電報の一部です。これによれば、ラトゥール伯爵は、東京オリンピックの招待状が発送される翌年1月までに日本が戦争をやめていなければ、イギリス、アメリカ、スウェーデンはもちろんのこと、他の国々からも参加拒否の動きが出てくるだろうと述べ、そのような事態を迎えるよりは、自ら辞退を申し出る方が日本にとっても良いだろう、と勧めてきたということです。

開催中止―「幻のオリンピック」へ

  • (6) 「オリンピック」中止に関する件

    (6) 「オリンピック」中止に関する件

  • (7) 「東京市オリンピック委員会」による声明書

    (7) 「東京市オリンピック委員会」による声明書

  • (8) 「東京市オリンピック委員会」による声明書

    (8) 「東京市オリンピック委員会」による声明書

結局、日本の国内でも国外でも、東京オリンピックを開催するべきではない、という考え方がさらに広まっていき、日本政府は、昭和13年(1938年)7月15日の閣議で、辞退を正式に決定しました。 (6) は、外務大臣からこの日のうちに出された、この閣議決定についての電報の起草文です。ここには、東京オリンピックの「開催取止ヲ適当ト認メ」(開催取り止めが良いと考え)たことを大会組織委員会に通達することにした、と書かれています。そして (7) は、この翌日の日付が入った「東京市オリンピック委員会」による「声明書」の起草文と思われる文書の1枚目、 (8) はその2枚目です。この冒頭には、前日に政府から東京市に対して、東京オリンピックの「開催ヲ取止ムルヲ適当ナリト認ムル旨ノ」(開催を取り止めるのが良いと考えた)通達があったと書かれていますが、この書き方を見ても、通達とは先に見た外務大臣の電報で言われていたものであると考えられます。この通達を受け、委員会としても国の考え方に従うことにした、という結論が示されるとともに、アジアに平和が訪れることを信じて次のオリンピックを東京に招致したい、という希望や、今回の計画に対して大きな支援があったことに対する感謝の言葉が述べられ、この「声明書」は締めくくられています。

こうして、昭和15年(1940年)の第12回オリンピック東京大会は、「幻の東京オリンピック」となりました。これにかわってヘルシンキでの第12回オリンピックの開催が決定されましたが、こちらも第二次世界大戦の勃発によって実現しませんでした。

なお、会場として計画されていたもののうち、芝浦の自転車競技場と埼玉県戸田橋村の漕艇場(ボートコース)は完成しました。また駒沢に主競技場を建設する計画は、24年後の1964年の東京オリンピックの際に実現されることとなりました。