海水浴の誕生 ~余暇は湘南の海で~

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海水浴はいつから?

現在の湘南地域は、海水浴場やサーフポイントが散在するレジャースポットとして人気を集めています。特に海水浴は夏のレジャーとして広く楽しまれています。しかし、四方を海に囲まれた島国・日本において、海水浴が一般化したのは実はそれほど古い昔ではないということをご存じでしょうか。

ここでは、アジ歴の資料で海水浴の歴史をのぞいてみましょう。

海水浴の始まり

  • (1) 『海水浴法概説』

    (1) 『海水浴法概説』

かつて、人々にとって海は生活の場でした。漁師や海女(あま)などは、生活のために海に入ります。また、これと同時に、海はとても神聖な場でもありました。神仏に祈りを捧げるため、海でけがれを払う行為(みそぎ、垢離〔こり〕)を特に潮垢離(しおごり)と言います。現在でもお祭りの際に海に入ることがあります。このような時代には、夏になると人々が海水浴を楽しむ、という光景は一般的なものではありませんでした。

では、いつ頃から海水浴が始まったのでしょう。通説では、幕末の頃に西洋医学を学んだ医師達によって広められたのが最初であると言われています。しかし、この海水浴というのは遊泳を楽しむのではなく、支柱を立ててそれにつかまり、海水に身体を浸すことで病気を治療しようとする医療行為でした。オランダの医師、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)に学んだ長与専斎や松本順(良順)らによって、明治初期以降、海水浴場が次々に開設されました。 (1) は松本が著した海水浴のすすめです。明治政府において、長与専斎は内務省衛生局の初代局長、松本順は初代陸軍軍医総監となっています。

一方、安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結以降に来日した欧米人を中心とする外国人達は、蒸し暑い日本の夏を快適に過ごすため休暇には海浜地域を訪れ、ごく早い時期から海水浴を行っていたと言われています。関東に設置された外国人居留地(横浜、築地)で暮らしていた外国人達が好んだ海水浴場としては、現在の横浜市金沢区、富岡の地が知られています。富岡で海水浴を楽しんだ外国人の中には、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン(James Curtis Hepburn)も含まれています。

鉄道の開通

  • (2) 各国公使より内地旅行の件に付外務卿に贈る書簡(翻訳)

    (2) 各国公使より内地旅行の件に付外務卿に贈る書簡(翻訳)

  • (3) 「東海道鉄道横浜ヨリ国府津マデ建築落成ニツキ運輸ノ業ヲ開ク」―明治20(1887)年―

    (3) 「東海道鉄道横浜ヨリ国府津マデ建築落成ニツキ運輸ノ業ヲ開ク」―明治20(1887)年―

当時外国人達は、居留地から一定距離の範囲内でしか自由に旅行できないという規定(外国人遊歩規定)にしばられていました。日本に居住していた欧米各国の公使らは自由に旅行ができないことを不便に思い、なんとか遊歩規定の範囲を広げてほしいと外務卿寺島宗則に歎願を行っています。 (2) はこの歎願を翻訳したものです。富岡は遊歩規定範囲に入っており、交通の便からも休暇を過ごすのには好都合でした。なぜなら明治5年(1872年)には新橋-横浜間で東海道鉄道が開通していたためです。横浜居留地の外国人だけではなく、築地居留地に住む外国人も鉄道を利用することで比較的容易に海浜部まで移動できたのです。横浜からは人力車や小舟をチャーターして富岡へ向かいました。横浜から先への移動手段が限られていたこともあり、富岡以外の海水浴場としても横浜周辺の東京湾沿岸部が賑わいをみせました。次第に政財界人や華族などの上流階層に属す日本人も避暑に訪れるようになり、長期滞在のための別荘がたくさん建設されました。

明治20年(1887年)、大きな変化が起こります。東海道鉄道が横浜からさらに先、国府津まで営業距離を延長して開通しました。 (3) は、「鉄道の父」と称される鉄道局長の井上勝が、線路の落成と営業開始を内閣総理大臣の伊藤博文に報告した文書です。翌年には横須賀鉄道が大船-横須賀間で開業しました。こうした交通環境の変化は、海水浴客にも影響します。

大磯海水浴場の発展

  • (4) 松本軍医総監海水浴願の件

    (4) 松本軍医総監海水浴願の件

  • (5) 松本軍医監入浴願の件

    (5) 松本軍医監入浴願の件

  • (6) 『明治事物起原』

    (6) 『明治事物起原』

かつて居留地の外国人や上流階層の日本人の人気を集めた富岡海水浴場に代わり、由比ヶ浜、鵠沼や大磯といった東海道鉄道沿線、つまり相模湾沿岸の海水浴場(いずれも明治17年〔1884年〕以降に開設)の人気が高まり、特に大磯は大勢の人でにぎわうようになります。なぜなら、大磯海水浴場は大磯停車場から歩いていける距離にあり、富岡海水浴場のように鉄道の駅から人力車や小舟で移動する必要がなかったからです。鉄道の開通によって海水浴場へのアクセスが容易になると、一部の上流階級の人々だけではなく、さまざまな社会階層の人々が海浜部での余暇を楽しむようになりました。また、海水に浸かって病気を癒すという目的から、遊泳を楽しむという目的へと「海水浴」の性格も次第に変化していきました。

なお、大磯海水浴場を開いたのは松本順です。松本はこの地が医療行為としての海水浴に適しているとの考えから海水浴場を開きました。松本自身も病気(リュウマチ)療養のため、しばしば海水浴に行きたいとの希望を軍部に提出しています。 (4)(5) はその届出で、同様の内容の届出が何通も確認できます。

起源としては富岡海水浴場の方が古いのですが、鉄道開通を契機に富岡の人気が相対的に低くなっていきます。替わって大磯が注目を集めるようになり、「海水浴場発祥の地」として人々に認識されるようになりました。明治時代の編集者・石井研堂が明治41年(1908年)に著した『明治事物起原』「海水浴場の始」にも大磯の地名とともにしっかり松本の名が記されています (6)。東海道線沿線の風物を描いた鉄道唱歌でも「海水浴に名を得たる大磯みえて波すずし」とあります。

レジャースポット・湘南へ

明治35年(1902年)には、江ノ島電気鉄道が藤沢-片瀬間の営業を開始します。明治43年(1910年)には小町までの全線が開通し、海水浴客に加えて江ノ島参詣を目的とする人々にとっても移動が楽になりました。鉄道によって江ノ島、藤沢、鎌倉とが連結され、周遊ルートが完成すると、東京から日帰り、または一泊二日程度でじゅうぶんに楽しむことができる手軽な行楽地として人気を博していくことになります。

明治時代に東海道鉄道の延長によって結ばれた相模湾沿岸の地域、いわゆる「湘南エリア」は、現在では夏場の海水浴に限らず、戦後に広まった新しいスポーツであるサーフィンを楽しむ人々でもにぎわっています。

<参考文献>
  • 『湘南の誕生』(藤沢市教育委員会、2005年)
  • 大矢悠三子「鉄道の開通と「湘南」イメージの形成」(お茶の水女子大学教育・研究成果コレクションhttp://hdl.handle.net/10083/725