先住民族の近現代史 ~日露の狭間で翻弄された人々~

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千島樺太交換条約

  • (1) 千島樺太交換条約附録

    (1) 千島樺太交換条約附録

アイヌは、主に北海道から東北地域、そして千島列島や樺太(サハリン)にかけての地域の先住民族です。彼らの近現代史とはいかなるものであったのか、アジ歴の資料でたどってみましょう。

明治政府は、明治8年(1875年)にロシアとサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)を結びました。この条約によって、ウルップ島以北の18の島を日本が領土とし、雑居地とされていた樺太をロシアが領有することが決まりました。これにともなって、ロシアと日本との間の条約によって引かれた国境線を境界として、樺太南部と千島列島に住むアイヌの帰属と移住が、彼ら自身のあずかり知らぬところで一方的に決定されました。(1) は、この条約の附録の一部です。この第4条では、次のように規定されています。 「樺太島及クリル【千島】島に在る土人は現に住する所の地に永住し且其儘現領主の臣民たるの権なし故に若し其自己の政府の臣民足らんことを欲すれば其居住の地を去り其領主に属する土地に赴くべし。又其儘在来し地に永住を願はば其の籍を改むべし。各政府は土人去就決心の為め此条約附録を右土人に達する日より三カ年の猶予を与へ置くべし。…」

すなわち、樺太・千島の先住民族は、3年の間にロシアまたは日本のいずれかの国籍を選び、現住地と選んだ国籍が異なる場合には、その地を立ち去ることが求められたのです。しかし、たとえば、ロシアとの結び付きが強かった北千島に住んでいたアイヌが、ロシア国籍を選ぶとすると、現在住んでいる土地を離れなければならないことになります。逆に日本国籍を選ぶとすると、故郷を捨てずに済むものの、これまでの生活を根本的に変えなければならないことになります。つまり、いずれの選択肢も大きな犠牲をともなうものであったのです。

北海道旧土人保護法

  • (2) 旭川市旧土人保護地処分法

    (2) 旭川市旧土人保護地処分法

アイヌは明治4年(1871年)に和人式の姓名を付けることを強要され、耳輪、入れ墨などの独自の習俗も禁止されるようになります。そして、広大な北海道の土地が明治新政府によって、次々と奪われていきます。もともとアイヌのものであったこの土地は、政府による「保護」の名の下で、再度アイヌに「下付」(上の者から下の者に与えること)されます。そのことを決めたのが、明治32年(1899年)に制定された「北海道旧土人保護法」です。(レファレンスコード:A03020372200、件名:「御署名原本・明治三十二年・法律第二十七号・北海道旧土人保護法」)

ただし、この分配にはさまざまな条件が付けられていました。すなわち、

  1. (1)農業に従事すること
  2. (2)15年以内に未開墾の場合は没収
  3. (3)相続以外の譲渡や諸物件の設定の禁止
という条件です。さらに、和人に対して既に10年以上も前に、大規模な耕作適地の払い下げが行われていたので、アイヌに分配された土地は、その残りの部分でしかなく、湿地や山間の傾斜地なども含まれた条件の悪い土地ばかりでした。旭川では、このような土地の分配さえも長い間実施されませんでした。同地のアイヌの粘り強い闘いの結果として、「北海道旧土人保護法」の制定から35年が経過した昭和9年(1934年)に、「旭川市旧土人保護地処分法」という新たな法律が制定されて (2)、ようやく旭川のアイヌは土地を手にすることができたのです。

また、この法律ではアイヌに対する教育に関しても規定されていて、アイヌ学校が北海道のあちこちで開校していきました。それに伴いアイヌの就学率や識字率は上昇していきましたが、そこでの教育内容は、アイヌ語を禁止し、生活文化を否定し、もっぱら日本語と修身教育をするというものでした。すなわち、それはアイヌの「劣等性」を克服するという名目で、アイヌを和人に同化していこうとする皇民化教育であったと言えます。

差別と同化

  • (3) アイヌ隊編成の陳情書

    (3) アイヌ隊編成の陳情書

一方で、アイヌに対して過酷な差別が行われていた時期に、一部のアイヌが差別を克服するために、自らを和人と並ぶ皇国の臣民と位置付けようとする動きもありました。国家に対する兵役という義務を積極的に担おうとしたことも、その一つの表れです。日露戦争を間近に控えた明治35年(1902年)に、医師を通じて陸軍大臣にアイヌ隊編成を求める陳情書を提出したアイヌもいました。(3)はその冒頭部分ですが、ここでは、「野蛮の心身を顧みず、大臣閣下に対し甚だ恐惶の至り候得共、聊か報国のためと存じの儘陳情仕候」と書かれており、自らを卑下しつつ、国家のために奉仕することを願い出て、国家への忠誠心を表明することを通じて国民の一員として自らを位置付けようとする姿勢がうかがえます。日露戦争時には、63人のアイヌが出征しました。ただし、前述のように、この出征も差別撤廃のための手段として選択されたという背景があったことに注意をする必要があります。

「アイヌ文化振興法」

  • (4) 北海道旧土人保護法中改正

    (4) 北海道旧土人保護法中改正

「北海道旧土人保護法」と「旭川市旧土人保護地処分法」は、5回にわたって改正されて存続しました。 (4) は、その最初の改正の時の法律の条文です。平成9年(1997年)になってようやく、政府が「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(通称「アイヌ文化振興法」)を施行したことにより、この2つの法律は廃止されることとなりました。しかし、この新しい法律もまた、アイヌの文化の振興や普及をうたっているだけで、北海道ウタリ協会が求めてきた、先住権を基礎とした「アイヌ新法」の内容とは大きくかけ離れたもので、この法律の評価については、アイヌ民族を含めた日本国民の間で今日でも意見の相違が見られます。

<参考文献>
  • 榎森進『アイヌの歴史』三省堂、1987年
  • 榎森進編『アイヌの歴史と文化』I・II、創童社、2003年
  • 榎森進『アイヌ民族の歴史』草風館、2007年
  • 小笠原信之『アイヌ差別問題読本』緑風出版、2004年