装いの文明開化 ~官僚から庶民まで~

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文明開化の雰囲気

  • (1) 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図

    (1) 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図

「文明開化」と言えば、何がイメージされるでしょうか。洋服、シルクハット、こうもり傘、靴、背広、煉瓦街、洋式建築、洋食、人力車、馬車、鉄道・・・。まさに、このような西洋の文物を取り入れようとした明治初期の時代の風潮のことを文明開化と言います。

文明開化は、東京と横浜や神戸などの開港地から始まりました。なかでも東京銀座には、ロンドンとパリをまねた煉瓦造りの洋館やガス灯が設置され、西欧風の町並みを背景に、洋装やザンギリ頭をした紳士が人力車や馬車に乗る姿が評判になりました。このような銀座通りの様子は、当時流行した錦絵に残されています (1)

官僚の制服の洋装化

  • (2) 勅奏判官並非役有位部附上下一般通常礼服

    (2) 勅奏判官並非役有位部附上下一般通常礼服

  • (3) 勅奏判官並非役有位部附上下一般通常礼服

    (3) 勅奏判官並非役有位部附上下一般通常礼服

  • (4) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

    (4) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

  • (5) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

    (5) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

  • (6) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

    (6) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

  • (7) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

    (7) 文官大礼服着用の節敬礼式被定

今では老若男女を問わず、ほとんどの人が洋服を着ます。むしろ和服を着ることの方が珍しく、七五三や成人式、結婚式のような晴れの日にしか、袖を通す機会もなくなってきたのではないでしょうか。では日本人は、いつ頃から和服を脱ぎ捨て、洋服を着るようになったのでしょうか。それは明治初期のことでしたが、まだ限られた人々のみが洋服を着はじめた、という状況に過ぎませんでした。

この装いの文明開化がどのように進んだか、アジ歴の資料で見てみましょう。

男性用の洋服は、すでに幕末には軍隊などで用いられていましたが、明治初期に官僚の制服が洋装になったことで、その後、民間にも徐々に普及していきます。最初に文官(官僚のうち軍事以外の行政事務を取り扱う者、文民の官僚の総称)の礼装である大礼服の体裁を定めたのが、明治5年制定、太政官布告第339号の「大礼服汎則」です。 (2) はこの中の一部で、勅任官・奏任官・判任官(文官の位)の大礼服について、帽子・上衣・下衣の服地や寸法、飾章の入れ方、ボタンの付け方まで詳細に示した表です。(3) は、勅任官の帽子などを図示したものです。他にも、上着やズボン、襟の模様など、その形式の規則が図によってかなり詳しく示されています。(レファレンスコード:A07090082600 単行書・大礼服制表並図・勅奏判官並非役有位部附上下一般通常礼服)

この大礼服は、新年の拝謁や宴会、紀元節、外国公使参朝の節など、非常に格式の高い場で着用されました。このため、大礼服着用時の敬礼の作法も定められていました。 (4)(5)(6)(7) は、文官が大礼服を着た時の敬礼の仕方を図示したものです。

官僚の服制は、幾度も改正されながら、第二次世界大戦後に廃止されるまで引き継がれました。

鹿鳴館の女性の装い

  • (8) 於鹿鳴館貴婦人慈善会之図

    (8) 於鹿鳴館貴婦人慈善会之図

一方、女性が初めて洋服を着たのは、男性に少し遅れて鹿鳴館の時代です。鹿鳴館は、明治16年、お雇い外国人のジョサイア・コンドルの設計により、東京日比谷の一角に建てられた洋風建築です。明治政府は、幕末から残っていた外国人の特権をなくそうとして、不平等条約の改正にとりかかりましたが、それにはまず日本が文明国であることを諸外国に納得させなければなりませんでした。そこで、日本にも社交界やダンスパーティーがあるということを見せようとして夜会や祝宴、貴婦人慈善会などが開かれました。きらびやかな西洋風のパーティー会場に着物姿は不自然なので、女性達はウエストをコルセットでしめつけ、フレアースカートをまとう西欧風のファッションを取り入れました。 (8) は鹿鳴館の貴婦人慈善会の様子を示す錦絵です。しかし、この鹿鳴館の服装は、数年間しか続きませんでした。実は女性達は慣れないコルセットに苦しんでいたようです。

このように、官僚や華族のような特別な人達を中心に、日本人も近代的な洋服を着始めた、というのが文明開化の時代のできごとです。

庶民の装い

  • (10) 己巳年中各港輸入物品数価の高

    (10) 己巳年中各港輸入物品数価の高

  • (11) 己巳年中各港輸入物品数価の高

    (11) 己巳年中各港輸入物品数価の高

  • (9) 己巳年中各港輸入物品数価の高

    (9) 己巳年中各港輸入物品数価の高

洋服は当時はとても高価なぜいたく品だったので、これに手の届かない庶民はそれまで通りに和服を着ていました。ちなみに、「和服」という言葉は、「洋服」が日本に入ってきた時に、これに対する言葉として作られたものです。裕福な町人は、高価な絹織物や毛織物などを服地にした和服を着ましたが、農民は主に綿織物を服地とした簡素な和服を着ていました。しかし、この庶民の和服も、その服地となる織物は幕末維新期にダイナミックに変化していました。開港後、西欧製品の参入によって、モスリンや金巾のような輸入織物が和装ファッションに浸透して、庶民にも多様な用途において用いられるようになっていました。 (9)(10)(11) は、明治2年度(旧暦)に日本の各港で輸入された物品を示した表です。ここからは、いろいろな織物が輸入されていたことがわかります。(9)は綿織物類、(10)は麻織物類、(11)は毛織物の輸入数量をそれぞれ示しています。

「裸体」の取り締まり

  • (12) 違式詿違条例

    (12) 違式詿違条例

  • (13) 違式詿違条例

    (13) 違式詿違条例

当時の人々は、このような和服をどのように着ていたのでしょうか。現代人にとって、和服はとても窮屈なイメージがありますが、実は昔の人達も同じだったようです。日本人は、和服を軽くひっかけるようにして着ていました。すると、当然、着物がはだけてしまいます。このような姿について、ペリーに随行した宣教師のサミュエル・ウェルズ・ウィリアムは、「婦人達は胸を隠そうとはしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なぼろで隠しただけで出歩き・・・」というように半ば蔑むように語っています。このような「裸体」の風俗は、日本人にとっては極めて普通のことでしたが、初めてこれを目にした西洋人達はとても驚きました。このような「文明」の視線に対し、日本を野蛮と思われるのを嫌った明治政府は、「裸体」の風俗を取り締まるようになります。明治元年、横浜を皮切りに、続いて明治4年に東京でも裸体禁止令が出され、その後、全国に普及していきました。その流れの中で、裸体や混浴を禁止する「違式詿違条例」が明治5年に東京で出され、その後、各地で風俗の取締りが行われるようになりました。 (12)(13) は、明治5年に東京府で出された違式詿違条例です。 (12) は混浴の禁止、(13)は裸体を禁止する条例を示しています。このように、庶民にとっての文明開化は、風俗の取り締りへの対応という経験でもありました。

<参考文献>
  • 今西一『近代日本の差別と性文化-文明開化と民衆世界』、雄山閣出版、1998年
  • 田村均『ファッションの社会経済史-在来織物業の技術革新と流行市場』、日本経済評論社、2004年
  • 牧原憲夫「文明開化論」『岩波講座日本通史第16巻 近代1』、岩波書店、1994年
  • 毎日新聞社会部『明治百年-日本文化のあゆみ』、筑摩書房、1965年