日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治37年(1904年)3月27日 第2次旅順口閉塞作戦

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期間
明治37年(1904年)3月27日
場所 遼東半島最西部、旅順港(口)
概要 旅順港に立てこもったロシア艦隊を壊滅できない日本海軍連合艦隊は、港の入口を封じてしまう「旅順港口閉塞作戦」を決定しました。
 
 
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関連資料

第2次旅順口閉塞作戦
関連資料1 第1号 明治37年2月5日現在日露両艦隊所在図(付 勢力比較図)
関連資料2 第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第8章 旅順口第6次攻撃及ひ第2次閉塞
関連資料3 海戦史第6部巻之13(上)特別運送船(1)
関連資料4 第3編 特別船舶の艤装/第13章 運送船の艤装
関連資料5 第2次閉塞に関する報告(1)
関連資料5 第2次閉塞に関する報告(1)

関連資料5 戦時日誌第2艦隊(3)(4)
関連資料5 (第13章)第3次閉塞後に於ける艦隊の動作並びに封鎖宣言

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C05110037400
件名 : 第1号 明治37年2月5日現在日露両艦隊所在図(付 勢力比較図)

■資料解説

 

 開戦直前の日露両艦隊数(戦艦巡洋艦砲艦、駆逐艦、假装艦、水雷艇)の比較表です。艦隊の艦艇数では日本ががなり優勢であったことがわかります。(2~5画像目)

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関連資料2
レファレンスコード : C05110041300
件名 : 第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第8章 旅順口第6次攻撃及ひ第2回閉塞

■資料解説

 第2次旅順閉塞作戦の決定過程の資料です。

 

 連合艦隊は2月25日、5隻の特別運送船で一度旅順口の閉塞を決行しましたが、依然ロシア側は旅順港口の出入りを自由を確保していました。 連合艦隊司令長官東郷平八郎は再び、港口を閉塞するため、閉塞用として「排水量二千屯内外、速力十海里以上」の特別運送船4隻の準備を命じ、これら運送船を爆破、沈没させて1年間は引揚できぬよう「船艙ニハ石及ヒ『セメント』」と大量の爆破装置が掲載されることとなりました(1~2画像目)。
 また東郷は閉塞隊員募集にあたり、「唯士官以上は其の請願の極て切なると、前回の経験に因り行動に利する」ため、指揮官だけは第1次閉塞作戦の参加者を任用しましたが、下士兵については「同一人員を用ふるに忍ひす」、再任は却下しました。しかし、二等兵曹林紋平のみ「決心牢として抜く可らさるものある」ため、隊員に再編入された様子が伺えます(3~5画像目)。

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関連資料3
レファレンスコード : C09050738100
件名 : 海戦史第6部巻之13(上)特別運送船(1)

■資料解説

 第2次閉塞作戦に供出された特別運送船の性能及び作戦遂行における機関士の手順に関する資料です。

 福井丸は明治15年英国で製造されました。機関長は海軍大機関士の栗田富太郎機関士で、この船には「軍神」といわれることになる、海軍少佐広瀬武夫が乗り組んでいました。作戦にあたっての機関部員の作戦手順が書かれています(21~23画像目)。

 

 米山丸は明治16年英国で製造されました。機関長には、「第一回閉塞隊ニ参加シタル経験ニ鑑ミ」海軍少機関士杉政人が選ばれています(25~34画像目)。

 弥彦丸は明治21年スコットランド(蘇格蘭)で建造されました。弥彦丸もまた、第1次旅順口閉塞作戦の武陽丸機関長であった海軍中機関士大石親徳のもとで「第一回閉塞ノ実験ニ鑑ミ」て艤装されましたが、大石親徳は作戦準備中の負傷により交代し、機関士には海軍大機関士小川英雄が任命されました(36~37画像目)。

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関連資料4
レファレンスコード :C05110137000
件名 : 第3編 特設船舶の艤装/第13章 運送船の艤装

■資料解説

 

 第2次閉塞作戦に向けて艤装された福井丸(23画像目)と千代丸(24画像目)ならびに米山丸(25画像目)の全体の見取り図が紹介されています。

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関連資料5
レファレンスコード :C09050273800
件名 :第2次閉塞に関する報告(1)

■資料解説

 

 第2次閉塞作戦時の状況を報告した資料です。敵からの激しい集中砲火を浴びた様子が記述されています(4~8画像目)。また、連合艦隊側の損害がいかに大きかったかもうかがわれます(8~10画像目)。

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関連資料6
レファレンスコード :C09050273800
件名 :第2次閉塞に関する報告(1)

■資料解説

 

 福井丸の指揮官であった海軍少佐広瀬武夫が同船から退出を命令した際、部下の兵曹長杉野孫七(爆破装置点火係)が見当たらないために、集中砲火を浴びる船内に3度戻って捜索し、ついに砲撃を受けて戦死した様子を詳細に伝える資料です(38~39画像目)。

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関連資料7
レファレンスコード :C09020192700、C09020192800
件名 :戦時日誌第2艦隊(3)(4)

■資料解説

 第2次閉塞作戦に再び参加が決まった海軍少佐広瀬武夫は突進の6日前、3月21日に家族へ次のような遺書を残していました(『広瀬武夫全集』下巻、384頁)。

 「再び旅順口閉塞の挙あり。武夫は茲に福井丸を指揮して、武臣蹇々の微を到さんと欲す。所謂一再にして已まず、三四五六七回人間に生れて、国恩に酬いんとするの本意に叶ひ、踴躍の至に不堪候。今回も亦天佑を確信し、一層の成功を期し申候。

 七生報国 七たび生まれて国に報ぜん
一死心堅 一死 心堅し
再期成功 再び成功を期し
含笑上船 笑みを含みて船に上る

 時下、母上様、叔父上様始メ、各位ノ御自愛ヲ望ミ、一家親籍ノ倍々繁栄ヲ祈リ居申候也。再拝 武夫」

 ここにも、「崇高な義務心に満ち満ちた玲瓏玉のごとき快男児」(広瀬と親交があった帝国大学の政治学者小野塚喜平次博士の寸評、『広瀬武夫全集』下巻、489頁)といった「軍神広瀬」を彷彿させるイメージがよく表われています。

 広瀬武夫の出棺は手厚く行われました(戦時日誌第2艦隊(3)の50画像目と同じく(4)の1画像目)。
こうした広瀬にまつわる「英雄伝」は、戦意高揚の手段として新聞報道によって喧伝されました。かくして「軍神広瀬」という神話は、国民の熱狂的な愛国主義に支えられながら広く受け入れられていくことになったのです(千葉功「日露戦争の『神話』日露戦争とその後の日本社会」小風秀雄編『アジアの帝国国家』吉川弘文館、2004年)。

 ところで、イギリスの軍事史家マイケル・ハワードは、成熟した民主主義体制でさえも「愛国心や宗教的感情を鼓舞するため、もしくは王朝や政治体制への支持を引き起こす」事を目的とした「神話の形成(myth-making)」を行ってきたと述べ、それは「選別的英雄史観(selective and heroic view of the past)」であると批判しています(Michael Howard, "The Use and Abuse of Military History", 1962)。広瀬に関するエピソードも、そうした視点から見ると興味深いかもしれません。


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関連資料8
レファレンスコード :C09050800300
件名 :(第13章)第3次閉塞後に於ける艦隊の動作並に封鎖宣言

■資料解説

 

 2回にわたる閉塞作戦を遂行して再び損害を出した連合艦隊でしたが、5月4日に日本陸軍第2軍が大連港の張家店に近い塩大墺に上陸することが決まると、連合艦隊司令官の東郷平八郎は3度目の閉塞作戦で陸軍の作戦を援護することを決定します(1~3画像目)。

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参考文献   Michael Howard, "The use and abuse of military history",in M.Howard, The Causes of Wars and Other Essays , London,1983.
島田謹二ほか編『広瀬武夫』下巻、講談社、1983年
アルフレッド・セイヤー・マハン著、北村謙一訳『海上権力史論』原書房、1982年
第1次旅順口閉塞作戦に戻ります 第3次旅順口閉塞作戦に進みます
 
 
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