日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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明治38年(1905年)5月27日 日本海海戦(1)

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期間
明治38年(1905年)5月27~28日
場所 対馬海峡
概要 ヨーロッパからやって来たロシア艦隊は、明治38年(1905年)5月27~28日にかけて、対馬周辺で日本海軍と戦って敗北しました。
 
 
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戦闘チャート

日本海海戦(1)
明治38年(1905年)
10月15日 バルチック艦隊(第2太平洋艦隊)がリバウ軍港を出港。(関連資料1
4月14日 バルチック艦隊、仏印(現・ベトナム)カムラン湾に到着。(関連資料2
5月14日 第3太平洋艦隊と合流したバルチック艦隊がカムラン湾を出港。(関連資料9
5月27日
4:45
対馬海峡を航行中のバルチック艦隊が日本軍に発見される。(関連資料9
5月27日
13:39
出撃した連合艦隊主力がバルチック艦隊を発見。
関連資料3
5月27日
14:08
バルチック艦隊が連合艦隊に対し、一斉に砲撃を開始。(関連資料3
5月27日
14:10
連合艦隊が砲撃を開始。(関連資料4) 
5月27日
15:00頃
日本軍の砲弾でロジェストヴェンスキー長官が負傷。
関連資料7
5月27日
夜間
日本軍の駆逐艦と水雷艇がバルチック艦隊の残存艦を攻撃。(関連資料5) 
5月28日 バルチック艦隊が日本軍に降伏。(関連資料6
 
【 参考文献 】 「極秘 明治37.8年海戦史」、「明治三十七、八年日露戦史」
 
 
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解説

日本海海戦(1)
ロシア軍人から見た「日本海海戦」
 ヨーロッパ側からやってきたロシア艦隊は、明治38年(1905年)5月27~28日にかけて、待ち構えていた日本海軍と対馬海峡で戦って撃破されました。この戦いは今日「日本海海戦」(Battle of Tsushima:対馬沖海戦)と呼ばれています。ここでは日露戦争中の「日本海海戦」(1905年)にまつわる海軍編纂の資料『極秘 明治三十七八年海戦史』、当事者の日記、「坐上戦術」の記録等のうち、ロシア軍に関係する資料を主として紹介します。
 なお以下で海戦の日付が複数付されているのは、当時のロシアがユリウス暦(露暦)を、日本がグレゴリウス暦(西暦)を使っていたせいで、同じ日でもその日付が異なっていた事を反映しています。ユリウス暦に13日分を加えると、グレゴリウス暦の日付になります。
▲ロシア海軍バルチック艦隊司令長官
 ロジェストヴェンスキー中将
  (財団法人三笠保存会所蔵)
 日露戦争当時のロシア帝国は、日本軍の進攻に対して満州(現中国東北地区)を確保すべく、ヨーロッパ側から軍隊を転用してアジア方面に送り込んでいました。陸軍の兵隊は、シベリア鉄道を経由して次々に送られます。さらにヨーロッパ側にいるロシア艦隊もまた、明治37年(1904年)の10月、バルト海のリバウ港(現ラトヴィア領リエパヤ)を出航してアジアに向かいます。これが「第二太平洋艦隊」こと日本側通称「バルチック艦隊」(バルト海艦隊)です。
 けれども、1905年1月にはロシアの旅順要塞が降伏し、2~3月の奉天会戦でもロシア軍は退却を強いられ、陸上の戦況はロシアにとって有利とはいえません。加えて、もともと極東の旅順とウラジオストックに配備されていたロシアの第一太平洋艦隊もまた日本陸海軍によって撃破されてしまいます。こうした事態はすでに戦前の「坐上戦術」を通じて考慮されていましたが、実戦でのロシア軍は形勢を挽回する機会をなかなか見いだせずにいました(関連資料1)。
 

 ですがまだロシアには、日本陸軍を打倒する最後の手段が残されています。それはヨーロッパ側の艦隊を極東に転用して日本の船や港を砲撃し、日本本土から朝鮮・満州にいる日本兵に送られる物資の流れを断つことです。この物資の流れが失われれば、日本の陸軍は大陸で孤立してしまうでしょう。ここにロシア軍逆転勝利の可能性があったのです。それゆえロシア艦隊はアフリカを回り、途中で旅順要塞陥落の報を聞きながら、インドの南を通り、東南アジアを抜け、後続する「第三太平洋艦隊」と合流し、地球半周の末に極東にたどり着きます(関連資料2関連資料3)。

 1905年5月27日(露暦5月14日)、朝鮮半島の南に面する対馬海峡を通過しようとしたロシア艦隊は、待ち構えていた日本艦隊との戦闘に突入します(関連資料4関連資料5)。その日の午後、旗艦「スヴォーロフ」は日本軍の砲弾を受けて炎上し、艦隊の司令官ロジェストヴェンスキー提督は負傷して、艦隊は散り散りになってしまいました。ロシア艦隊は続く夜襲によってさらに打撃をこうむり、翌28日(露暦15日)にはロジェストヴェンスキー提督を始めとして多くの将兵が捕虜となって惨敗しました(関連資料6関連資料7)。この戦いの結果、ロシア国内の士気はさらに低下して反政府的空気が高まります(関連資料8関連資料9)。他方で日露戦争後、日本海海戦は日本の勝利の象徴として喧伝され神話化され、現在に至っています(関連資料10)。

 この海戦の直後、革命家のウラジミール・レーニンは「壊滅」と題し、ロシア軍の連敗はロシアの専制体制(ツァーリズム)の崩壊の引き金になると評価しました。

 「朝鮮海峡における海戦は、全世界の政治新聞の注意を引きつけた。ツァーリ政府は、最初、自分の忠良な臣民から苦い真実をかくそうと試みたが、すぐにこのような試みをしてもむだであることを納得した

▲ロシア第二太平洋艦隊
フェルケルザム支隊
(防衛省防衛研究所提供)
▲リバウ軍港のロシア第三太平洋艦隊
(防衛省防衛研究所提供)
▲日本海海戦後に日本軍に捕獲された
ロシア戦艦「アリヨール」の舷側
(防衛省防衛研究所提供)
▲降伏旗を掲げる
ロシア戦艦「ニコライ1世」(右)
(防衛省防衛研究所提供)

 「戦争は、専制のあらゆる腫物をあばき、その腐敗をあますところなく明るみにだし、それが人民から完全に遊離していることをしめし、カエサル的支配の唯一の支柱を撃破した。戦争は、恐ろしい審判となった。人民は、すでにこの強盗政府にたいする自分の判決をくだしている。革命はこの判決を執行するだろう

 「壊滅」が綴られた12年後の第一次世界大戦中、1917年の「10月革命」を通じて、レーニンは新生ソビエト政権の指導者となります。

 
 
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関連資料

日本海海戦(1)
関連資料1 1900年にロシア海軍大学校で行われた「日露戦争」の「坐上戦術」(ウォーゲーム)の経過
関連資料2 日本海海戦に参加したロシア軍艦「シソイ・ウェリーキー」乗組員の日記を邦訳したもの
関連資料3 日本海海戦に加わったロシア軍人の回想録を邦訳したもの
関連資料4 『明治三十七八年海戦史』のうち、1905年5月27日の艦隊戦について記述した箇所
関連資料5 日本海海戦の舞台を地図にして示した文書
関連資料6 外国の新聞、または英字新聞等に掲載された海戦についてのコメントを邦訳したもの
関連資料7 日露戦争の海戦に関する写真集
関連資料8 日本海海戦を含めた日露戦争中、日本軍に捕獲されたロシア軍艦のその後を伝える資料 >
関連資料9 ロシア軍人「クラドー大佐」が発表した書籍『日露戦争に於ける海戦』を邦訳したもの
関連資料10 大正15年(1927年)、日露戦争当時の軍艦「三笠」を保存するにあたっての記念式に関する公文書

関連資料(詳細)

関連資料1
レファレンスコード : C05110201500
件名 : 第1 1900年に於る露国大学校戦術科学生の絶東戦役に関する坐上戦術

■資料解説

 この資料は『極秘 明治三十七八年海戦史』に収録されており、明治33年(1900年)、日露戦争を想定した「坐上戦術」(今日の専門用語でいうウォーゲーム又は図上演習)がロシアの「ニコライ」海軍大学校で行われた時の記録です。今でこそ遊戯としても知られるウォーゲームは、かつて「坐上戦術」「図上演習」と呼ばれ軍隊で行われていました。資料冒頭に、翻訳元のロシア語文書は明治38年(1905年)1月に旅順要塞が降伏した際、日本海軍の黒井悌次郎大佐によって押収されて大本営に転送された、と記されています(2画像目)。

 資料は、1900年の冬に「「ニコライ」海軍大学校の海軍戦術科教程を履む学生に対し坐上戦術の問題として同年の春に於る現況に就き「露日戦争」を課することとなり」、ロシアが日本と戦うという設定の演習が実施された事に言及しています(原文カナ、3画像目)。この時の参加者リストを見ると、現実の日露戦争で本当に日本軍と戦う人々(後に日本側通称「バルチック艦隊」を率いるロジェストヴェンスキー提督など)が演習に加わっていた事がわかります(5~6画像目)。

◆ 演習全体の流れ(すべて1900年として設定されています、6~14、23~90画像目を参照)
  ・2月中:朝鮮における利権をめぐってロシア・日本が対立する
  ・3月1日:ロシア・日本の両国は戦争準備を行う(ヨーロッパ側にいるロシア海軍がアジアに向かう)
  ・3月3日:旅順のロシア海軍は出港してウラジオストックとモルッカ諸島に向かう
  ・3月11日:日本軍の歩兵一個旅団・砲兵一個旅団が朝鮮の釜山に上陸する
  ・3月12日:ロシア公使は東京を退去し、日本はロシアに宣戦布告(ゲーム上の日露戦争の開始)
  ・3月15日:日本軍の一個旅団が朝鮮の平壌に上陸する
  ・3月26日:日本海軍は大連湾を砲撃してロシア軍艦を沈める
  ・4月2~4日:紅海においてロシア・日本の海軍が交戦する
  ・4月10日:日本陸軍は大連湾に上陸する
  ・4月13日:日本陸軍は旅順に対して総攻撃を行う(失敗)
  ・4月18日:日本陸軍は旅順に対して再度総攻撃を行う(失敗)
  ・4月19日:日本海軍は対馬沖でロシア海軍を夜襲する
  ・5月1日:ロシア海軍(アジア側とヨーロッパ側が合流した連合艦隊)は大連湾に停泊する
  ・5月2~3日:日本海軍は大連湾のロシア海軍を夜襲して「戦艦セワストーポリ」を沈める
  ・5月4日:日本海軍の主力は大連湾に到着する。日本陸軍の一部は奉天に向かって前進している
  (この時点でゲーム中止が宣言される)

◆ ロシア軍人の日本軍評(原文カナ、11画像目)
  この資料中には、演習の「審判官」(今日でいうアンパイア又は審判)が下した講評の一つとして次のような記載があります。

 「学生中陸軍代表者か立案するか如き日本陸軍の兵数に関しては過大に推算するをなしなから其の戦闘の能力を視るに極て低き程度を以てするの不謹慎なる見界は審判官の賛成する能はさる所なり」
(現代語訳:大学校の学生から選ばれた陸軍代表者が立案したような、日本陸軍の兵力数に関しては過大に推測計算しながらも、その戦闘能力をきわめて低く見積もった不謹慎な見解は、審判官としては賛成できないものである)

 「己れの敵を侮るへからす日本人の如き特異の性情を有する者を敵としては特に然りとす須く自己勢力を適当に発展することに努め又対敵の発展にも注意して監視すること必要なり」
(現代語訳:自らの敵を侮ってはならない。日本人のような特殊な性質を有する者を敵とする場合には特にそうだ。速やかに自軍の戦力を状況に応じて発展させるよう努力し、また相手の戦力の発展も監視することが必要である)

◆ ロシア軍人が想定した日本軍の作戦方針(原文カナ旧字、25~26画像目)
  なお演習中では、日本軍の戦争目的を「一に韓国を占領して之を自己の掌中に置き露国をして韓国の領域に一指を染めしめす韓国に於ては全然日本の主権を認めしめんとするに在り」と設定した上で、その軍事作戦を以下のように想定しています。

 「日本軍の最急務とする所は成る可く早く韓国に其の陸兵を揚け爰に堅固なる防御陣地を築き計熟するを待て浦塩斯徳を陥いるか或は旅順口と関東平野一帯の地を回復し以て清国国民に対し其の威風を示し之を其の一味に引入れて対露同盟を締結し露清国境の有らゆる諸点より侵入して大打撃を加ふるに在り是一に日本陸軍の任務に属す」
(現代語訳:日本軍が最も急務とすることは、なるべく早く韓国に陸上部隊を上陸させ、そこに堅固な防御陣地を築くことだ。それからふさわしい時期にウラジオストックを攻略するか、あるいは旅順の港から満州の平野一帯を占領して清の国民に対し日本軍の権威を示し、彼らを日本の味方に引き入れるのがいい。そうして清との間にロシアを敵とする同盟を締結し、ロシアと清とが国境を接するそのあらゆる地点より侵入してロシアに大打撃を与えることだ。これ全てが日本陸軍の任務である)

 「日本海軍の第一任務は戦役の初期に於て韓国に陸兵の揚陸を掩護すると本国との交通を維持するに在り之か為めには其の当初に於る優勢を利用し露国艦隊か自国港湾に隠るるに於ては之を封鎖し出つるに於ては殲滅するにあり」
(現代語訳:日本海軍の第一の任務は、戦争が始まってすぐに韓国に陸上部隊が上陸するのを援護すると同時に、陸上部隊と日本本国との交通線を維持することである。そのためには当初の戦力の優勢を利用し、ロシア艦隊が自らの港湾に隠れる場合は港を封鎖し、出てくる場合には殲滅しなければならない)

◆ ロシア軍人が考えた対日海軍戦略(原文カナ旧字、12~13画像目)
  演習終了後、ロシア側はいくつかの対日海軍戦略を立案しています。
  (1)全海軍力を日本海に集結してウラジオストック以南の沿岸に対する日本軍の上陸を阻止する
  (2)全海軍力を旅順に集めて「黄海」(現東シナ海)の沿岸での日本軍の上陸を阻止する
  (3)全海軍力を朝鮮南部か「朝鮮海峡」(対馬海峡)に集めて日本軍の輸送を妨害する

 しかし資料ではどれも一長一短あるとした上でこうコメントされています。

 「露西亜側に於ては如何の決心を執るも其の望まるへき真の結果は欧州より到達する増援艦隊の合同したる後に於て初て収めらるへきものと覚悟せさるへからさるなり」
(現代語訳:ロシア側は、どんな決断をするにせよ、その希望する真の結果である勝利はヨーロッパより到着する増援の艦隊がアジアにいる艦隊と合流した後にはじめて得られる、と覚悟しなければならない)

 このコメントが為されてから4年後の1904年、演習に参加したロシア軍人は本物の日本軍を目の当たりにする事になります。

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関連資料2
レファレンスコード : C05110202300
件名 : 第9 露国太平洋第2艦隊東航史

■資料解説

 この資料は、元々は日本海海戦に参加したロシア軍艦「シソイ・ウェリーキー」に乗り組んでいた将校の日記だったのですが、戦闘後に日本軍の手に渡って邦訳され、『極秘 明治三十七八年海戦史』に収録されたものです(経緯については2画像目を参照)。

 日記の記述は1904年10月13日付で始まります。そして新たに編成された「第二太平洋艦隊」(日本側通称「バルチック艦隊」)がヨーロッパから船出する直前(3画像目)から、10月21~22日に「水雷艇」と見間違えて実はイギリスの漁船を砲撃した「ドッガーバンク事件」の状況を語った後(11~13画像目)、本隊と別れて地中海に入り、11月8日にはクレタ島の「スダ湾」に寄港したところで中断しています(19~21画像目)。

 ところで日記には、10月26日にアジアの戦況に関するロシアの公報(ロシア陸軍が日本軍と交戦中であるとの報)を聞いた「シソイ・ウェリーキー」乗組員の反応が、次のように記されています(原文カナ旧字、14画像目)。

 「此の電報は幾分か艦員の元気を鼓舞して航海の苦を慰むるに足り延て各人をして今や機運の回復に向ひ現戦役も露国の幸福に終局を見るへく其の結果海軍拡張の行はるると身を君国に捧けし海軍軍人の軍事上の智識を与ふるとの時機必す到来すへしと信せしめたり」
(現代語訳:この電報は、いくぶんか乗組員の士気を鼓舞して航海の苦労を和らげるのに役立った。そうして各乗員にこう信じさせたのだった、いまや戦況は挽回され現在の戦争もロシアにとって幸福な結末で終わるであろう、その結果海軍拡張が行われるだろう、自分の身を皇帝や国家に捧げる海軍軍人として軍事知識を役立てられる時機が必ず到来するだろう、と)

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関連資料3
レファレンスコード : C05110202400
件名 : 第10 対馬沖海戦露国海軍中佐ウラジーミル、セメヨーノフ述

■資料解説

  この資料は、元々は日本海海戦に参加したロシア海軍中佐「ウラジーミル、セメヨーノフ」の「対馬沖海戦」(日本海海戦)の後に記した回顧録ですが、それが邦訳の上で『極秘 明治三十七八年海戦史』に収録されたものです。著者は、そもそもバルチック艦隊」)に転属されて再び日本海軍と相まみえる事になりました。

 「セメヨーノフ」中佐の記述は、海戦前夜の5月26日(露暦5月13日)、ロシア艦隊が対馬海峡に入ろうとする場面から始まります。次いで来るべき戦いを予想した「ゾートフ大尉」の弁論(6~7画像目)を取り上げ、翌27日(露暦14日)の朝には艦隊が日本軍に発見され、いよいよ「午後一時二十分」に日本の戦艦・装甲巡洋艦と交戦する様子を伝えています(13~16画像目)。この時、接近してきた日本艦隊は突然、ロシア艦隊の目前で左に回頭しました。これを見たロシア側は次のような声を挙げ、感想を抱いたと記されています(原文カナ旧字、14画像目)。

  「見よ見よこりや何たらうか彼等は何をして居るのたらうか」
  「ああこりや馬鹿なことをして居る、それては嚮導艦(きょうとうかん)から順繰に打沈めてやれ」
  「余もまた心中『占めたり』と考へ明に東郷は何物かを不意に思付く所あり為めに此の如き奇激の決心を執りたるものと思惟せり」
  「甘く行けは仕合せなり…撃沈とまては行かすとも僅一隻たりとも戦列を離れしめなは…さあさてどーなるものか…」

 この「嚮導艦」とは艦隊の先頭にたって進む船(ここでは日本海軍の東郷平八郎長官が乗っている戦艦「三笠」)のことです。しかし日本海軍の砲弾が命中した旗艦「スウォーロフ」は火焔に包まれ(15画像目)、艦隊の指揮官だったロジェストヴェンスキー提督や著者のセメヨーノフ本人を含めた多数の人員が負傷しました。記述の末尾は、ついにロシアの戦艦「ボロヂノ」が沈没してゆく「夕の七時十分」(39画像目)の後、夜を迎えようとする場面で締めくくられています。

 なお最末尾の43画像目には「一九〇五年五月十四日(五月二十七日)の戦闘に於て露日主力の運動」と題して、日本海海戦における彼我の艦隊の動きを図にしたものが掲載されています。ここで日付が複数付されているのは、当時のロシアがユリウス暦(露暦)を、日本がグレゴリウス暦(西暦)を使っていたせいで、同じ日でもその日付が異なっていた事を反映しています。

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関連資料4
レファレンスコード :C05110084400
件名 : 第2編 日本海海戦/第1章 5月27日の戦闘(第1合戦)

■資料解説

  『明治三十七八年海戦史』のうち、明治38年(1905年)5月27日の日本海海戦に関する記述を収録した箇所です。日本艦隊がロシア艦隊を発見してから交戦し、夜に到るまでの顛末が示されています。

 この資料によると、ロシア艦隊と遭遇した日本艦隊の主力は「二時二分南西微南に変針し、先つ敵に対し反航通過するか如く装ひ、同五分に至り急に東北東に変針し、以て今や南微東に方り」、敵から8,000メートル離れた状態で「敵の先頭を斜に圧迫」したと記述されています(原文カナ旧字、6画像目)。その際の「陣形を推定するに大略左の如し」として55画像目に図が掲示されています。

 またこの資料によれば、戦いは最終的には「五月二十七日午後二時過より、同七時三十分頃に至る数回の劇戦に因り」、ロシア艦隊の司令長官であるロジェストヴェンスキー中将は重傷を負い、ロシアの「艦隊の主脳たる最新最鋭の戦艦は、空しく沖の島北方の海底に沈み、残存せる諸艦も亦大損害を被れるもの多く」なったため、実質的には27日の夕方7時ごろの時点で勝敗が決していたと示唆されています(原文カナ旧字、62画像目)。

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関連資料5
レファレンスコード :A03032148600
件名 :日露海戦記付録 日露海戦戦域明細大海図

■資料解説

 

 この資料は、日本海海戦を始めとする諸々の海戦の舞台となった海域を地図として示したものです。地図は現在の中国東北地区から沿海地域、朝鮮半島、ウラジオストック、日本列島に加えてサハリン島(樺太)まで網羅しています。

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関連資料6
レファレンスコード :C05110202800
件名 :外人の評論/第1章 英国人の評論

■資料解説

  この資料は『極秘 明治三十七八年海戦史』の一部で、日本海海戦を始めとする諸々の海戦に関して海外の新聞、英字新聞に掲載されたコメントを邦訳して記録しています。

 資料の末尾に示された邦訳記事では、日本海海戦におけるロシア側の敗因が図入りで分析され(221~229画像目)、かつこの海戦で使われた新戦術を分析するための「対抗演習(ウォーゲーム:引用者注)を施行し就中日本海海戦の戦術を復演し諸将校をして斯かる戦況に在りては如何なる出来事の起るへきやを実験」すべきだと提言されています(原文カナ旧字、229~230画像目)。

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関連資料7
レファレンスコード :C05110203200
件名 :明治37 8年海戦史付録写真帳

■資料解説

  この資料は『極秘 明治三十七八年海戦史』の一部で、日本海海戦を始めとする諸々の海戦や軍艦を撮影した写真を収録しています。

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関連資料8
レファレンスコード :A04010138000
件名 :明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件

■資料解説

 

 この資料は、ロシア軍人「クラドー大佐」が記した『日露戦争に於ける海戦』中にある、日本海海戦を取り上げた第三章の抜粋邦訳です。ここで取り上げた箇所は1905年5月、ロシア艦隊が中国沿岸を北上していよいよ対馬海峡に入り、日本海軍と交戦するまでの経緯を論じています。

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関連資料9
レファレンスコード :C09050752700
件名 :独訳.日露戦争に於ける海戦露国クラドー大佐原著(3)

■資料解説

 

 この資料はロシア軍人「クラドー大佐」が記した『日露戦争に於ける海戦』のうち、日本海海戦を取り上げた第三章を日本参謀本部が抜粋して邦訳したものです。ここで取り上げた箇所は1905年5月、ロシア艦隊が中国沿岸を北上していよいよ対馬海峡に入り、日本海軍と交戦するまでの経緯を論じています。

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関連資料10
レファレンスコード :C04015499100
件名 :三笠保存記念式施行の件(1)

■資料解説

 

 この資料は「我国民的記念物たる旧軍艦三笠」の保存工事に関する大正15年(1926年)の公文書です。9~41画像目にかけて、三笠の甲板を青写真にしておこした物が収録されています。
 日露戦争当時に日本海軍の旗艦だった三笠は、大正12年(1923年)に軍艦としての扱いを解かれ(除籍)、大正15年に神奈川県横須賀市での保存工事を終えて「保存記念式」が行われました。そうして第二次世界大戦後の今なお、記念艦三笠は横須賀市で一般公開されています(http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/)。

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参考文献   Jonathan Bailey, "Military history and the pathology of lessons learned: the Russo-Japanese War,"Williamson Murray & Richard Hart Sinnreich(eds.), The Past as Prologue: The Importance of History to the Military Profession , Cambridge University Press, 2006.
ソ同盟共産党中央委員会付属マルクス=エンゲルス=レーニン研究所編、マルクス=レーニン主義研究所訳『レーニン全集. 第8巻』、大月書店、1955年
稲子恒夫編著『ロシアの20世紀 ―年表・資料・分析―』東洋書店、2007年
軍事史学会編『日露戦争(一)―国際的文脈―』、錦正社、2004年
平塚柾緒『新装版 図説 日露戦争』、河出書房新社、2004年
記念艦「三笠」: http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/
原田敬一『国民軍の神話―兵士になるということ』、吉川弘文館、2001年。
原田敬一『シリーズ日本近現代史③ 日清・日露戦争』、岩波文庫、2007年。
蔵原大「20世紀のウォーゲーミング(図上演習の方法論)に関する歴史」、戦略研究学会編『年報戦略研究6 20世紀の戦争と平和』、芙蓉書房、2008年。
田中陽児、倉持俊一、和田春樹共編『世界歴史大系 ロシア史2―18~19世紀―』、山川出版社、1994年
半藤一利、戸高一成『日本海海戦かく勝てり』、PHP研究所、2004年
黄海海戦,蔚山沖海戦に戻ります 日本海海戦(2)に進みます
 
 
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