解説コラム

岩倉使節団をより深く理解するための解説や、岩倉使節団に関する様々なトピックを、コラム形式でご紹介します。

岩倉使節団による条約改正交渉とその過程で残した遺産

 岩倉使節団は、1871年12月23日(以下、陽暦で表す)に横浜から最初の歴訪国である米国に向けて出発しました。この使節団の使命は、大別すると3つに分けられます。①条約締結国を歴訪した際、各国の元首に天皇の国書を奉呈し、聘問の礼をとること、②条約改正協議期限間近のため、その延期も含めて改正打診の予備交渉を行うこと、③欧米諸国の制度・産業・文化の調査・研究を行うこと、の三つです(Ref.A04017147400)。
 その中でも最重要課題として位置づけていたのが、②の条約改正予備交渉でした。その目的は、欧米諸国と対等な関係を築き、国際社会の中で日本の存在感を示すためでした。

 1872年2月29日、岩倉使節団はワシントンに到着し、3月4日にホワイトハウスを訪れました(Ref. A04017148600)。そこで米国大統領グラントに謁見し、国書を奉呈しました。この式典で大使の岩倉具視は演説を行い、欧米諸国の文明を学び、友好な外交関係を築き上げることを宣言しました(Ref.A04017149200)。

【写真1】フィッシュ国務長官との会談記録 「単行書・大使書類原本条約談判書」(Ref.A04017148800、8画像目)

 3月11日、第1回日米会談が米国国務省で開催されました(Ref.A04017148800)。ここで早速、日本側は条約改正期限の延長を要請し、今後の改正交渉の相談も含めて米国側と交渉しました。さらに、日本側にも条約調印の権限があることを強調しました。
 しかし、米国国務省長官フィッシュは、日本側が全権委任状を取得していなかったため、条約について協議はできても、調印はできないと主張しました。
 この発言について日本側にとっては想定外でした。この日の会談の本題は、条約改正期限の延期要請と日本側に新条約調印の権限が付与されているかどうかであり、両国間で質疑応答が繰り返されました。しかし、この日の会談では米国側の回答は得られないまま閉幕しました。

 第1回会談終了後、森有礼と伊藤博文は、条約の予備交渉から本格的な改正交渉に転換することを提言しました。全権委任状の必要性を熱烈に訴える森と伊藤の言動は、使節団の目的を大幅に変更し、彼らの米国滞在を延長させる要因となりました。

【写真2】伊藤・大久保に与えられた全権委任状
「公文附属の図・国書御委任状・第四号 米利堅合衆国大統領グラント閣下」(国立公文書館所蔵、請求番号:附A00302104

 3月13日、岩倉は改正交渉に移行するかどうか、木戸大久保・伊藤副使を集め協議しました。その結果、使節団は本格的な改正交渉に着手することに決定しました。こうして3月20日には、その準備として、伊藤・大久保は全権委任状を取得するため一時的に日本に帰国しました。
 伊藤・大久保は帰国する直前、これまでの会談の経過を考慮して岩倉・木戸と要点を議論しました。その結論として、領事裁判権と関税自主権については、いくつかの条件を満たせば、今後の交渉次第で達成できる可能性があるとの意見が出されました。
 しかし実際は、会談を重ねるにつれて、日米両国間の溝は深まる一方であり、その意見対立は解消されないまま交渉決裂を予期する兆候がみえました(Ref.A04017148800)。

 それから約4ヶ月が経った7月22日、伊藤・大久保が全権委任状を取得してワシントンに到着しました。彼らが到着する直前、岩倉と木戸の間で条約調印のための欧州合同会議の開催が計画され、それを米国側が拒否すれば、改正交渉を中止する方針を決定しました。到着してすぐの伊藤・大久保も含めて協議した結果、彼らは日本側の条約草案を貫徹できない状況を聞かされ、既に決定した方針にやむなく承認しました。
 その後、岩倉らは同日に開かれた第11回会談に参加しましたが、日本側の提案を米国側に拒否されたため、改正交渉は合意に達することなく決裂しました。
 結局、日米両国は妥協点を見出すことができず、調印にも至りませんでした。そのため、11回にもわたる米国との交渉は失敗に終わり、以後、他国との改正交渉の実質的進展もほとんどありませんでした。

 しかし、岩倉使節団が派遣された意義は非常に大きいと思われます。なぜなら、使節団が海外で得た見聞や経験は、後継の外相やその交渉手段に多大な影響を与えたからです。

【写真3】鹿鳴館
『東京景色写真版』 (国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:404-3、44コマ目)

 その影響を受けた人物のひとりとして、寺島宗則外相の後を引き継いだ井上馨外相が挙げられます。彼は諸外国の人々を歓迎する目的で、1883年に「鹿鳴館」という西洋風の建物を建設し、改正交渉と並行して「欧化政策」を推進しました。「鹿鳴館」では、外国人と公私共々交流の機会を増やし、親睦を深めることで実質的な外交活動を展開しました。
 それと同時に、この「欧化政策」には、日本が既に近代国家であることを内外に広く浸透させることで、改正交渉を円滑に進めるねらいもありました。伊藤と同じ西洋化に積極的であった井上でしたが、彼は使節団に同行していません。しかし、こうした構想を創出できたのは、前任の寺島外相同様に使節団の影響を受けていたからだといえます。

 このように岩倉使節団の派遣は、日本が近代国家に変貌するまでの基礎をつくりあげ、明治末期に達成された領事裁判権撤廃や関税自主権回復といった不平等条約の改正に寄与したと考えるのが妥当でしょう。

<青木 聡志(調査員)>

【参考文献】
大久保利謙『岩倉使節団の研究』(宗高書房、1976年)
石井孝『明治初期の国際関係』(吉川弘文館、1977年)
宮永孝「米国における岩倉使節団 岩倉大使の条約改正交渉」(『社會勞働研究(法政大学)』第38巻第2号、1992年)
田中彰『岩倉使節団の歴史的研究』(岩波書店、2002年)
李啓彰「井上馨による「裏舞台」の創出―鹿鳴館の建設過程からの考察―」(『社会システム研究(立命館大学)』第22号、2011年)
奥田和彦「岩倉使節団の文化的帰結」(『国際交流研究 国際交流学部紀要(フェリス女学院大学)』(19)、2017年)

各国政体視察と憲法・議会の整備

   準備中


岩倉使節団と鉱山開発

   準備中


近代技術の発展を担った工部大学校

   準備中


司法省視察と法典編纂

 明治初期の日本政府では、不平等条約の改正のため、近代的な法制度を確立することが大きな課題と見なされていました。これを受けて、岩倉使節団においても法制度の研究のための人員が司法省から多く派遣されました。まず、司法省理事官の佐々木高行、その随行の岡内重俊、中野健明、平賀義質、長野文炳という計5名が岩倉に同行し、さらに、岩倉が出発した後から欧州に渡航した後発の使節団員として、河野敏鎌、鶴田皓岸良兼養井上毅益田克徳沼間守一名村泰蔵、川路利良の計8名が合流しました。これらの司法省からの使節団の経験は、日本の司法制度の確立においてどれほどの寄与を果たしたのでしょうか。

【写真1】司法卿江藤新平欧州各国派遣の辞令 1872年4月30日太政官発江藤新平宛 (佐賀県立図書館所蔵「江藤家資料」請求記号:江939-029、資料名「〔辞令〕)

 元来、後から合流した司法省からの後発使節団は、司法卿江藤新平の渡欧に随行するためのものでした。江藤は1872(明治5)年4月に司法卿に任命される以前から制度取調専務として民法典の編纂や司法省の設置に取り組んでおり、欧州、とりわけフランスの法制度を実地にて調査研究するため、司法卿就任からまもなく渡欧の辞令を受けました。しかし、当時は明法寮(後の司法省法学校)や各府県の裁判所といった司法のための組織が次々と創立されて間もない時期であり、江藤はこれらの組織の基礎固めをすることで手一杯でした。三条実美からの慰留を受けて江藤はやむなく渡欧を断念し、その代わりとして河野など8名の司法省視察団がフランスに向かうことになったのです。

【写真2】三条実美公より江藤司法卿に贈りし洋行中止に関する書面 1872年5月11日三条実美発江藤新平宛(佐賀県立図書館所蔵「江藤家資料」請求記号:江013-251、資料名「〔三條〕実美書簡」)

 司法省視察団は欧州やフランスの法制度を研究するだけでなく、欧州の法学者をお雇い外国人として招聘することも大きな目的にしていました。江藤は司法卿となる前の1870(明治3)年から「民法会議」を設置し、そこでは箕作麟祥にフランス民法典の翻訳を依頼し、その翻訳をそのまま草案として民法典を作成しようとしていました。しかし、当時はフランス語の辞書もフランス語を教える教師も存在せず、かつ江藤は訳の正確さよりも早く訳を完成させることを優先したため、箕作は翻訳に大きな困難を感じていました。箕作はフランス法を学ぶための外遊を江藤に嘆願しましたが、江藤は翻訳を急いでいたため、箕作を欧州に派遣して調査させるよりは欧州から法律家を招聘して箕作の質問に答えさせ、かつ学生を募ってその法律家に教授させるのがよいだろうと提案しました。この提案を受けて、司法省視察団及び当時駐仏公使であった鮫島尚信は、お雇い外国人の人選に向けて動き出すことになりました。

 この結果お雇い外国人として来日したのが、フランスの法学者ボアソナードです。1825年に生まれたボアソナードは、1852年にパリ大学にて法学博士となった後、グルノーブル大学を経て1867年にパリ大学のアグレジェ(正教授に次ぐ教授)となっていました。鮫島公使から依頼を受けたボアソナードは司法省視察団のうち鶴田、岸良、井上、名村、川路、さらに文部省から渡欧した今村和郎に対して講義を行った後、江藤の意を受けた鮫島から日本への招聘の依頼を受けました。招聘に向けた交渉は難航しましたが、1873(明治6)年6月、遂にボアソナードは日本政府との御雇条約(契約)を結び、同年11月、名村に伴われて日本の地に降り立ちました。

【写真3】ボアソナード肖像(提供:法政大学史委員会)

 皮肉なことに、法学者の招聘を提案した江藤は、ボアソナードが来日する直前に1873年の征韓論政変により政権を追われてしまいました。しかし、ボアソナードは来日後22年にも及ぶ長い間にわたり日本にとどまり、日本における法典編纂に多大なる功績を残しました。例えば、箕作の翻訳をもとにした民法草案が廃棄された後、ボアソナードは新たな民法典を起草し、それはいわゆる旧民法として公布されるに至りました(民法典論争を経て施行延期・廃止)。また、ボアソナードは刑法及び治罪法(後の刑事訴訟法)の草案も起草し、それが公布・実施されるに至った他、拷問の廃止においても彼は多大な影響を与えました。この他、台湾出兵後の交渉における大久保利通への随行、井上馨外相の条約改正案への反対意見など、その活躍の場は法典編纂以外にも多岐に亘りました。これだけでなく、パリでボアソナードの講義を受けた視察団員からは、明治憲法や教育勅語の起草に当たった井上、大審院長を務めた岸良や名村のように、日本の司法制度の中心を担う人材が多く生まれました。旧民法の後に現行民法の起草を担った梅謙次郎も、司法省法学校でボアソナードに習った学生の一人です。岩倉使節団における司法省使節団が日本の司法制度確立のために遺した足跡は、実に大きなものだったと言えるでしょう。

<番定 賢治(調査員)>

【参考文献】
梅溪昇『お雇い外国人の研究(上・下巻)』(青史出版、2010年)
大久保泰甫『ボワソナアド』(岩波新書、1977年)
川口由彦『日本近代法制史』(新世社、1998年)
毛利敏彦『江藤新平(増補版)』(中公新書、1997年)

田中不二麿の欧米教育視察と教育の近代化

 明治維新により近代化政策を始めた明治政府は、教育でも従来の藩校や寺子屋に代わる近代的な教育システムの導入を進めました。廃藩置県が行われた1871年には文部省が設置され、教育に関わる行政を担当することになりました。設置まもない文部省によって制定されたのが、最初の近代的な教育基本法制である「学制」(1872年発布)です。

【写真1】文部省理事官として派遣された田中不二麿の肖像写真(提供:国立歴史民俗博物館)

 このような国内の体制整備と並行して、教育の近代化のために欧米諸国の教育事情についての情報収集や視察が必要になりました。その一環として、岩倉使節団に文部省から理事官(調査担当者)を派遣することになったのですが、このとき理事官に選ばれたのが、当時文部大丞であった田中不二麿(1845~1909)です。
 尾張藩(現在の愛知県)出身の田中は、幕末に藩校明倫堂の助教並や藩主の側近として活動し、王政復古の後には参与として新政府に加わりました。教育行政との関わりは、1869年に新政府の大学校御用掛となったことに始まります。1871年に文部大丞となった直後、岩倉使節団に理事官として参加し、欧米の教育事情を調査することになりました。当時27歳、各省理事官のなかで最年少でした。

 1871年1月15日(明治4年12月6日)、使節団本隊とともにアメリカ・サンフランシスコに到着した田中理事官と随行員の一行は、サンフランシスコを手始めに各地の学校など教育施設の視察を始めました。アメリカとフランスでの視察には、使節団本隊のなかで文部政策を担当していた木戸孝允も一部同行しています。1872年3月8日に到着したワシントンでは、1864年に密出国しアメリカにいた新島襄を通訳として採用しました。新島の採用を斡旋したのは、当時の駐米少弁務使で、のちに文部大臣となる森有礼でした。この後新島は、各地で集めた資料の翻訳や、のちに「文部省理事功程」にまとめられる理事官報告書の原案作りなどに尽力します。なお、一行のうち近藤鎮三今村和郎はワシントン到着直後に田中たちと別れ、近藤はドイツへ、今村はフランスへ向かいました。
 アメリカでの視察を終えた一行は、明治5年5月11日に使節団本隊に先行してイギリスに渡り、その後ヨーロッパ各地を視察しました。最終的に、文部省理事官一行はアメリカに約4ヶ月 イギリスに約2ヶ月 ドイツ(プロイセン)に約4ヶ月滞在したほか、フランス、スイス、ロシア、オランダ、デンマークを訪れました。視察を終えた文部省理事官一行は1873年2月ヨーロッパを発ち、3月24日に帰国しました。

【写真2】1873(明治6)年12月に出版された『理事功程』第1巻の内扉部分。「文部省」の文字の上に文部省印が押されている。(国立公文書館所蔵、請求番号:190-0026)

 帰国後、文部省は田中理事官一行の調査報告書である「文部省理事功程」を『理事功程』の題で刊行しました(1873年~1875年)。理事功程を一般に刊行したのは、左院視察団の安川繁成を除けば文部省だけでした。このことから、田中たちが調査成果を広く日本国内に知らせようと考えていたことがわかります。田中自身は1873年に文部少輔、翌年には文部大輔となり、文部行政の中心的存在となっていきました。1876年から約1年間にわたり再び渡米し、現地の教育についてより深く調査をおこないました。その成果を踏まえ、学制に代わる新たな教育基本法令として制定されたのが「教育令」です。そこでは、田中の二度にわたる在外経験が強く反映しており、中央集権で画一的な学制に対して、地域の実情に即した自治的かつ漸進的な教育方針により、国民全体の近代化と教育レベルの向上をめざす内容でした。

【写真3】文部省から天皇に上呈された教育令は、元老院での条文修正を経て1879(明治12)年9月に裁可された。(国立公文書館所蔵、請求番号:公02544100

 具体的には、①学校と図書館や博物館、幼稚園など学校外の機関との連携、②基本的に男女同一科目による教育、③道徳教育を重んじ、学校の日常生活のなかで子どもに道徳を身につけさせる教育、④体罰を禁止する欧米の教育規則の導入、⑤小学校教育を重視し、社会全体を近代化し、人々に国民として意識を根付かせる、といった内容が盛り込まれました。法令成立のプロセスでは、専門家育成のための中高等教育を重視する伊藤博文らの反論を抑えるにあたり、『理事功程』をはじめ海外から収集・蓄積した教育事情調査の資料が活用されました。

 このように日本の教育の近代化に力を尽した田中不二麿でしたが、教育令が「自由放任教育を進めるものだ」との誤解により保守派の批判を受けたことから、1880年に司法卿に転任し、それ以降教育行政に復帰することはありませんでした。その後教育令は1880年と1885年に改正されましたが、教育の基本法令としての位置を保っていました。1885年、かつて岩倉使節団をアメリカで迎えた森有礼が文部大臣に就任して以降、教育法制は大きく転換します。86年に教育の基本法令が教育令から一連の学校令に転換し、森が暗殺された翌年の1890年には井上毅たちが起草した教育勅語が天皇の名で国民に示され、田中不二麿以来の教育政策は大きく転換することになるのです。

<中野 良(研究員)>

【参考文献】
小林哲也「解説」『理事功程 復刻版』(臨川書店、1973年)
小林哲也「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』20、1974年)
文部省編『学制百年史』(帝国地方行政学会、1981年)
文部省編『学制百二十年史』(ぎょうせい、1992年)
森川輝紀『増補版 教育勅語への道 教育の政治史』(三元社、2011年)
湯川文彦『立法と事務の明治維新 ―官民共治の構想と展開―』(東京大学出版会、2017年)

留学生たちのその後と近代日本

 政治史や経済史から教育史、思想史まで岩倉使節団の構成員を抜きにして戦前の歴史を語るのは難しいでしょう。さらに岩倉具視木戸孝允大久保利通伊藤博文のような現役の有力政治家・官僚のみならず満6歳の少女(津田梅)まで含む青少年たちが留学生として渡ったことでその影響力は長く持続しました。
 岩倉使節団に同行した留学生は43名とされますが、そのほか大使・理事の随従者のなかにも渡航先で留学した者がいます。留学生には公家や旧藩主(知藩事)、その子弟も多く、従者という形で渡航した留学生には牧野伸顕や山県伊三郎ら有力者の縁者たちが含まれた一方で、開拓使派遣の女子留学生たちのように幕臣や会津藩士の子弟なども参加していました。
 このなかで大臣まで昇ったのは牧野伸顕、金子堅太郎、平田東助、山県伊三郎です。全権副使大久保利通の次男である牧野伸顕はアメリカに2年半ほど留学し、その後外務省に出仕、法制官僚や地方官、文部次官などを歴任して文部大臣、農商務大臣、外務大臣に至り、パリ講和会議においては全権次席大使として事実上代表団を指揮しました。戦間期においても宮内大臣、内大臣として昭和天皇の信任厚く、戦後も天皇及び宮中の相談相手として、吉田茂首相の岳父として重きを成しました。
 大日本帝国憲法の起草に携わり農商務大臣や司法大臣を歴任した金子堅太郎は勉学を続けハーヴァード大学で法学を学び、同窓生であるセオドア・ローズヴェルト大統領を始めとした人脈を生かして日米友好に生涯尽力し続けました。
 彼らの一貫した親英米派振りに岩倉使節団に同行した留学経験の影響を認めることは容易ですし、またその影響が戦後にも及ぶことに驚かされます。

【写真1】平田が訳した部分の『国法汎論』( 国立国会図書館デジタルコレクション、請求記号:34-50、4コマ目)

 アメリカ留学組の多さが目立つ一方で山県伊三郎や平田東助が学んだのはドイツでした。山県有朋の養子である伊三郎は内務官僚として昇進した後に逓信大臣や朝鮮総督府政務総監となりました。平田東助は政治学や経済学、法学を学びハイデルベルグ大学から日本人で初めて博士号を得ましたが、特筆すべきはベルリン大学のグナイストやハイデルベルグ大学のブルンチュリらから国法学・国家有機体説の教えを受けたことです。帰国後に平田はブルンチュリ『国家論』の意訳本を出版し、加藤弘之の訳が途中で中断していた同じくブルンチュリ『国法汎論』の続きを翻訳しています(【写真1】参照)。ドイツ国法学や国家有機体説を明治政府が選び取っていく過程で平田は法制官僚として頭角を現します。平田は米沢藩出身でありながら山県(有朋)系官僚の重鎮として法制局長官、農商務大臣、内務大臣、さらには内大臣を務めました。彼らは明治政府がドイツモデルを採用するなかでその留学経験が立身出世に寄与した例でしょう。

 政治史のみならず思想史における影響としても、中江兆民が同行する留学生に含まれていることは見逃せません。大久保利通に直談判して使節団に参加した中江はフランス留学から帰国後、いったんは官職に就いたとはいえその後在野から著述に勤しみ自由民権運動の理論的指導者となりました。岩倉使節団の遺産は在野にも及んだのです。

【写真2】團が開鑿を進めた三池鉱山万田坑。現在、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」の構成資産の一部。(提供:荒尾市)

 財界では後に三井財閥総帥、財界の指導者として君臨する團琢磨が岩倉使節団に同行して留学し、そのままマサチューセッツ工科大学(MIT)鉱山科で学びました。團は帰国後工部局の三池鉱山科に勤務し、その三池鉱山が三井に払い下げられたことが三井財閥におけるキャリアの第一歩となりました。その後も鉱山部門の責任者として成果を挙げて地位を高めていったのであり、團の累進の源泉は間違いなくアメリカで学んだ鉱山学でした(【写真2】参照)。
 教育における津田梅の貢献は言うまでもありません。ブリンマー大学で生物学を学んだ津田は女子英学塾(津田塾大学の前身)を創設して女子教育の普及に努めました。そのほかヴァッサー大学で音楽学を学び、文部省音楽取調掛や東京音楽学校で近代日本の音楽教育の礎を築いた永井(結婚後は瓜生)繁もいます。アメリカの神学校在学中に使節団に同行した新島襄(同志社大学創始者)や使節団に書記官として参加した渡邉洪基(帝国大学初代総長)も含めれば日本の近代教育やアカデミズムの草創に与えた影響は計り知れません。

 ただし、岩倉使節団に同行した留学生たちが皆栄達を遂げたわけではありません。たとえば副使山口尚芳の長男俊太郎は9年ものイギリス留学生活を送り、さらに帝国大学工科大学を卒業し、鉄道技術者、もしくは鉄道用務担当として九州鉄道や三井物産などを渡り歩きましたが、最終的には石油発動機の事業に乗り出すが失敗したと言われます。語学ができるだけ、海外経験が豊富なだけでトップ・エリートになれる時期は終わりつつありました。
 そうした留保を付したうえでも、岩倉使節団の留学生が近代日本にもたらしたものは大きかったと言えるでしょう。特に官界から財界、自由民権運動、教育にまで及ぼしたその影響の幅広さは特筆すべきものがあります。

<帶谷 俊輔(調査員)>

【参考文献】
茶谷誠一『人物叢書 牧野伸顕』(吉川弘文館、2013年)
並松信久「平田東助と社会政策の展開―制度設計の課題」(『京都産業大学論集』32、2015年)
生田澄江『舞踏への勧誘―日本最初の女子留学生永井繁子の生涯』(文芸社、2003年)

津田梅の帰国後の活動

 明治維新後、開拓使次官に就任した黒田清隆は、アメリカの西部開拓事業を視察中、女性の社会的地位が高いことを知り、女子教育の重要性を実感したといいます。そこで、北海道における女学校設立と人材育成のために女子留学生を募集し、山川捨松、津田梅、永井繁、上田悌及び吉益亮の5人が選ばれました。岩倉使節団には、この5人の少女たちも同行したのです。
 そのなかでも津田梅は最年少の満6歳(数え8歳)であり、ワシントン市にあるアーチャー・インスティチュートを卒業するまで、11年間の留学生活を送りました。帰国後は、津田塾大学の前身である女子英学塾を創立したことで知られています。梅がそこに至るまでに何をしてきたのか、帰国後の活動をみていきましょう。

【写真1】1883年、帰朝後に撮影された梅の写真。満18歳頃。(提供:津田塾大学津田梅子資料室、「帰朝後 18歳頃」)

 梅が派遣された後、女子留学生の所管は開拓使から文部省に移り、そして1882年に梅が日本に帰国したときには、開拓使も廃止になっていました。官費留学で初等・中等教育を終えた梅は、日本の女子教育に尽くしたいと希望しましたが、文部省から仕事の紹介はありませんでした。
 当時の日本では、女性は若いうちに結婚して家の仕事をすることが多く、教育は不要という風潮があり、男子に比べ女子の教育制度は立ち遅れていました。そのため、梅が働けるような学校を見つけるのは困難だったのです。梅の方も、長年の海外生活ゆえに日本語が話せなくなっており、すぐに仕事ができる状態ではありませんでした。
 途方に暮れていた梅に手を差し伸べたのは、岩倉使節団の副使であった伊藤博文でした。梅を自宅に住まわせ、妻と娘のための英語の通訳や家庭教師を依頼したのです。周囲からは結婚を勧められたりもしましたが、梅は独身でいることを決め、日本語の勉強をしながら下積みを重ねました。

 念願の就職ができたのは、帰国から3年後の1885年のことでした。官立の華族女学校が開校し、梅は伊藤の推薦で教授補として採用されたのです。
 教育者として大きな一歩を踏み出した梅でしたが、この頃からいわゆる良妻賢母主義的な教育思想が顕在化していきます。華族女学校の教育方針でも、男子と女子の教育は別とされ、女子は家事をするときに有用な学科が推奨されました。このような状況のなか、梅は自分自身がもっと成長するためにも、高等教育機関で専門的な学問を修めたいと考えるようになりました。

【写真2】1889~1892年、ブリンマー大学在学中の梅の写真。満24~25歳頃。(提供:津田塾大学津田梅子資料室、「再度のアメリカ留学時代 ブリンマー大学 (Bryn Mawr College)」)

1889年、梅は華族女学校を休職し、高等教育を受けるべくアメリカへ再留学を果たしました。留学先はフィラデルフィア郊外にあるブリンマー大学であり、華族女学校と同じく1885年に創立されたばかりの女子大学です。そこで学部長をしていた7歳年上のM・ケアリ・トマスとの出会いが、梅の教育観に大きな影響を与えることになりました。
 アメリカでもこの時期、女性の家庭内における役割を重視する教育思想が根強くありました。トマスはそのような状況下で奮闘し、スイスまで渡ってチューリヒ大学で女性初の博士号を最優等で取得しました。さらにブリンマー大学の学部長に採用されると、女子教育に特有な家政学などに関する学科を排除、学術研究ができる環境を整備し、また大学院を設立するなどの改革を進めました。
 梅はこの大学で生物学を専攻し、研究論文を発表するほどの高い成果を上げ、また半年ほどオスウィゴー師範学校で教授法を学ぶなど、実りの多い3年間を過ごしました。そして女子高等教育発展のために邁進するトマスの姿は、梅の良き模範となったのです。

 帰国した梅は、日本の女性がその才能を十分に伸ばせるよう、高等教育を授ける学校を創る計画を胸に、再び華族女学校で教鞭を取ります。やがて日清戦争に伴う国内情勢の変化や、制度的裏付けの無いまま女学校が増加したことなどを受け、国もようやく女子教育の制度改革に乗り出しました。1899年「高等女学校令」及び「私立学校令」が公布され、女子中等教育の制度が確立、さらに高等教育への期待も高まりました。

【写真3】1901年、女子英学塾・最初の一番町校舎にて撮影された集合写真。(提供:津田塾大学津田梅子資料室、「〈一番町〉校舎にて」)

 翌年、梅は15年間勤めた華族女学校を辞職します。そして高等教育の制度化に先駆けて、英語教員を養成する専門の教育機関として、私立の女子英学塾の創立を表明しました。塾の経営はアメリカの女性たちの支援に依るところが多く、梅の呼びかけに応じた友人のアリス・ベーコンは、来日して教師となって塾を助けました。さらにブリンマー大学の学長に就任したトマスも参加して「フィラデルフィア委員会」が組織され、塾を財政面から支えたのです。
 1903年、「専門学校令」の公布により女子英学塾は専門学校として認可され、次いで無試験検定による英語科教員免許状の授与が女性に対して初めて可能となりました。女性が専門的な知識を身につけ、社会に出て自立していくための道筋がつけられました。こうして女子高等教育の新しい時代を切り開いたのです。

 現在、日本の女性は高等教育を受ける機会があり、そして多くの女性が社会に進出しています。そのルーツを紐解くと、梅のような明治の女性の人生をかけた活動があったのです。

<松浦 晶子(研究員)>

【参考文献】
久野明子『鹿鳴館の貴婦人大山捨松―日本初の女子留学生―』(中央公論社、1988年)
吉川利一『津田梅子』(中公文庫、1990年)
飯野正子・亀田帛子・髙橋裕子編『津田梅子を支えた人びと』(有斐閣、2000年)
髙橋裕子『津田梅子の社会史』(玉川大学出版部、2002年)
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