解説コラム

岩倉使節団をより深く理解するための解説や、岩倉使節団に関する様々なトピックを、コラム形式でご紹介します。

なぜ岩倉使節団は派遣されたのか

明治4年11月(1871年12月)、右大臣岩倉具視を首班とする使節団が欧米を目指して横浜を出港し、およそ1年10ヶ月にわたる旅路に就きました。明治維新を迎えて間もない最中、なぜ彼らは海外へと派遣されたのでしょうか。

史料を繙くと、欧米への使節派遣については、明治政府が成立した直後から、さまざまな人物によって構想・提案されていたことが分かります。

【画像1】岩倉具視の意見書「会計外交等ノ条々意見」(『岩倉具視関係文書』第2所収)。使節派遣は「是もとより外交上の礼なり」と、外交儀礼の点から必要が求められている。

例えば、明治2年2月、権大納言の位にあった岩倉は、会計・外交などに関する意見書のなかで、欧米各国が「交際之礼」をもって日本に公使を派遣してきているのだから、日本からも「勅使」を派遣して答礼とすべきである、と外国交際上の必要から使節派遣を提案しています(『岩倉具視関係文書』2)。
また、同年5月、宣教師として来日していたオランダ系アメリカ人フルベッキは、会計官副知事の大隈重信に対し、「ブリーフ・スケッチ」と呼ばれる意見書を提出しました。このなかでフルベッキは、西洋文明を理解するためには目で見、肌で感じることが有用であると指摘し、「調査委員会」を派遣して西洋文明を直接体験することを説きました(『日本近代思想大系1開国』)。

【画像2】「五ヶ国条約並税則」(国立公文書館所蔵、請求番号:188-0270)。通商条約の第13条において、改定には「両国の内より壱ヶ年前に通達」することが定められている。

一方、安政5年(1858)に徳川幕府が欧米各国と締結した通商条約において、締結より171ヶ月後に条約内容の改定を行うことが定められており、その期限が明治5年5月(1872年7月)に迫っていました。明治4年1月、大蔵少輔兼民部少輔の伊藤博文は、政府首脳に提出した意見書のなかで、「特命理事官」を海外に派遣して外国交際・条約・貿易規則等を調査させ、翌年に控えた改定交渉に備えたい、と建言しています(『岩倉具視関係文書』7)。

このように、外国交際・海外視察・条約改正など、さまざまな立場から欧米への使節派遣が提議されました。

こうした使節派遣構想が実現に向けて動き始めたのは、廃藩置県によって国内の諸改革が一区切りを迎えた、明治4年秋のことでした。
参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通の日記からは、同年8月下旬から9月ごろにかけて、外国への使節派遣がたびたび議論されていることが窺えます(『木戸孝允日記』2・『大久保利通日記』下)。政府首脳のあいだでは使節派遣の準備が急速に進められ、10月には使節団員の任命が行われました。
人選をめぐっては軋轢もありましたが、最終的に、特命全権大使には当時外務卿を務めていた岩倉(右大臣に遷任)が就きまし た。また、藩閥に配慮するかたちで、副使には木戸・伊藤(長州)、大久保(薩摩)、外務少輔の山口尚芳(佐賀)が選抜されました。また、田辺太一や塩田三郎など、幕末に通詞として海外渡航を経験した旧幕臣を中心に、通訳を兼ねた書記官が任命されました。

使節団に託された「国書」によると、彼らの目的は次の三点に置かれました(Ref.A04017147400)。第一に、条約締結各国に対して聘問の礼を修め、各国との「和親交際ノ情誼」を厚くすること。第二に、翌年に期限を迎える「条約改定ノ議」について、各国と商議を行うこと。第三に、国際公法に矛盾する国内の諸制度を改正するため、「文明各国ノ成法定規」を視察調査すること。これらは、先に見たさまざまな派遣構想の目的を、すべて集約したかたちとなっていることが分かります。

【画像3】「特命使節并一行官員ヲ送ルノ辞 明治四」(宮内庁書陵部所蔵、識別番号:74530)。
出発6日前の11月6日、三条邸で宴が催され、三条実美が使節一行に対して送別の辞を詠んだ。

特に第一の目的については、「行ケヤ海ニ火輪ヲ転シ陸ニ汽車ヲ輾ラシ」の一文で知られる太政大臣三条実美による送別の辞においても、外国との交際は国家の安危に関わる事柄と述べられており、三条がいかに重要な使命として外国交際を位置づけていたかが窺えます。

このようにして明治維新以来の使節派遣構想は、さまざまな目的を包摂し、およそ150名もの人物が関わる一大使節団による欧米歴訪として結実したのでした。

<淺井 良亮(研究員)>

【参考文献】
・大久保利謙編『岩倉使節の研究』(宗高書房、1976年)
・田中彰『岩倉使節団の歴史的研究』(岩波書店、2002年)
・芳賀徹編『岩倉使節団の比較文化史的研究』(思文閣出版、2003年)

国立公文書館チャンネルでは、芳賀徹氏による平成30年春の特別展「江戸幕府、最後の闘い」解説動画をご覧いただくことができます。動画内では、岩倉使節団に参加した旧幕臣たちについても詳しく言及されています。

留学生取締問題と岩倉使節団

明治を迎え、江戸時代には禁止されていた海外渡航が解禁されると、多くの日本人が海を越えて欧米諸国を目指しました。岩倉使節団に関わった150人のなかには、現地において使節団に合流・関与した者も少なくありません。 岩倉使節団の副使木戸孝允や左院から西洋視察のために派遣された高崎正風の日記には、現地に滞在している日本人が使節団のもとを頻繁に訪れ、時には行動を共にしている記事が散見されます(『木戸孝允日記』2・『高崎正風先生伝記』)。このことは、明治初期において、いかに多くの日本人が欧米に滞在していたか、を物語っているといえます。

【画像1】1871年に大学から新島襄に宛てて発給された「米国留学免許状」(同志社大学社史資料センター所蔵、書類・原稿A037)。

彼らの多くは西洋文明を視察・修学するために欧米へ渡った留学生でした。文部省によると、明治6年時点において、留学目的の海外渡航者は373人を数えたようです(Ref.A07062113200)。 明治3年12月に定められた「海外留学規則」によると、海外留学は大学(後の文部省)の管轄事務とされましたが、実際に派遣元となったのは各省使でした。

省使別にみてみると、明治3年から4年にかけては兵部省が最も多くの留学生を海外へ派遣しており、続く4年から5年には開拓使・大蔵省・工部省が多くの留学生を派遣しました。岩倉使節団に随行して横浜を出港した者のなかにも、兵部省が留学生としてアメリカへ派遣した江川英武・森田忠毅、開拓使によって派遣された津田梅ら女子留学生、工部省派遣留学生の松田金次郎・水谷六郎などが確認できます。

【画像2】「単行書・大使書類原本大使全書」(Ref. A04017147400)。使節団派遣にあたって「海外にある留学生徒の為に修行の方法を設くる」ことが課題とされた(69~71コマ)。

ただし、すべての留学生が視察・修学に熱心だったかというと、そうではなかったようです。留学生のなかには、普通学科を習了せずに高等学科へ転科しようとする者、たびたび教師を替えて転塾する者などがあり、政府はこうした「不勉強ノ生徒」を問題視していました(Ref. A04017147400)。
また、渡航先で自ら留学先を変更する者も少なくなかったようです。例えば、使節団に随行した坊城俊章・清水谷公考・平田東助・土肥百之の4名は、当初ロシアへの留学を命じられていました。ところが、ドイツからロシアへ向けて出立する当日、彼らは病気を理由にベルリンに留まりました。その後、彼らは転学を願い出、結局ロシアには渡ることなく、ドイツでの留学生活を過ごしました(『坊城俊章 日記・記録集成』)。 留学生には巨額の官費が投じられていたことから、政府はこうした状況の取締に乗り出し、改善を模索し始めました。

岩倉使節団には、留学生の修学状況を現地で確認し、その取締方法を見極めることが期待されました。大使岩倉具視らが留守政府首脳に宛てた公信には、弁務使としてヨーロッパに派遣されている寺島宗則・鮫島尚信とともに「留学生徒取締」について協議し、取締規則の制定を検討している様子が伝えられています(Ref. A04017148400)。また、副使の一人である伊藤博文は、文部卿大木喬任らに宛てた建白書のなかで、現地では留学生が修学内容や留学先を「自選独決」している現状を指摘し、留学生の選抜方法を「一洗」すべきである、と説きました(『伊藤博文伝』上)。

【画像3】「文部省管理留学生悉皆帰朝」(国立公文書館所蔵、請求番号:太00469100)。各省が管理する海外留学生を「処分」=整理するため、文部省は一斉帰国を命ずるよう各省に通達した。ただし私費留学生や女子留学生は対象外とされた。

明治5年8月に定められた学制には、「海外留学生規則ノ事」という条項が盛り込まれ、留学制度の刷新が図られました。それによると、①官費留学生には「初等」と「上等」の区分を設けること、②留学生は在外弁務使を通じて文部省の監督を受けること、③留学生に派遣前の選抜試験および帰国後の修学試験を義務づけること、などが定められました。そして、この条項に合わせて、既に海外へ渡航している留学生についても、習熟度をもとに整理を行う方針が通知されました。そして、使節団帰国後の明治6年12月、文部省は留学生の一斉帰国を通達し、60日以内に帰路に就くよう命じたのでした。

<淺井 良亮(研究員)>

【参考文献】
・石附実『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房、1972年)
・渡辺実『近代日本海外留学生史(上)』(講談社、1977年)
・青山英幸「留学生と岩倉使節団」(田中彰・高田誠二編著『『米欧回覧実記』の学際的研究』北海道大学図書刊行会、1993年)

留守政府の活動にみる使節団遣欧中の政治と社会

 留守政府は岩倉使節団の欧米歴訪中に組織された国内の体制で、三条実美西郷隆盛大隈重信板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、井上馨、大木喬任などがその任にあたりました。留守政府と使節団は、使節団遣欧中の官省人事、国内政策などについて取り決めた『大臣参議及各省卿大輔約定書 』(Ref. A04017149000)に従い、公信を送受し、国内政策や条約改正交渉の進捗、国内の状況などを報告しました。使節団の帰国まで新規の制度改革は認められなかったものの、廃藩置県後の内治政務の統一を目的とした政策の実行は認められたことから、留守政府は種々の政策を実施します。では、使節団の遣欧中、留守政府はどのような政策を実施したのでしょうか。また、彼らが政策を実施した当時の国内外の状況はどのようなものだったのでしょうか。留守政府が使節団に送った公信を中心に見てみましょう。

【画像1】太政官職制章程潤飾の勅旨。「潤飾」とは、飾り付けることを意味する。留守政府と使節団は約定書で新規の制度改革を行わないことを取り決めていたため、留守政府は「改正」に代わる言葉として「潤飾」という言葉を用いた。『各種日誌・日記 内史日録』(Ref. A15100014200、1画像目)。

 内治政務の統一を図った留守政府は、学制、徴兵令、地租改正、司法制度、宗教政策など、様々な方面で改革を行います。また、この実行過程で生じた各省間の権限をめぐる問題に対しては、1873年5月の太政官制の改正で解決を図ります(画像1)。太政官制の中枢である正院に、経理、諸制度・諸法律の草案の議決、租税の増減、諸官省の公費の設定、兵制改革など、各領域の権限を拡充させることで、留守政府は正院主導の制度改革を進めようとします。しかし、正院の権限拡充による制度改革は、政府内で反発を招きます。経理や租税、貨幣製造、金券発行などの権限が縮小された大蔵省では、大蔵大輔井上馨、三等出仕渋沢栄一が辞職します。太政官制の改正前には、司法卿江藤新平、文部卿大木喬任、左院議長後藤象二郎が参議に任じられており、制度改革で生じた権限をめぐる問題は、政府の人事問題に発展します。

【画像2】甲斐国の村民の騒動を伝える公信。「旧貢法(大小切税法)」の維持を訴える村民の嘆願に対し、政府は陸軍東京鎮台上田分営から兵隊を派遣、鎮定にあたる。同公信は、茨城県で起こった水戸藩士族の水戸城放火事件も伝える。「単行書・大使書類原本本朝公信」(Ref. A04017147600、60画像目)。

 諸制度の改革に呼応して社会不安も高まります。1872年に留守政府が使節団に送った公信は山梨県で起こった大小切騒動 を伝えます(画像2)。大小切騒動は、廃藩置県断行による旧貢法廃止に伴う、税負担の増大の不安から起こった騒動です。公信は、新潟県や大分県、滋賀県で起こった農民の騒擾事件、士族、修験道者による新政府反対の運動なども伝えます。不安定な社会状況下での改革が、反対一揆や士族の反乱を招き、留守政府はその対処に追われます。

【画像3】『本朝公信付属書類』上巻に収録された、英字新聞“The Japan Gazette”の抄訳。“The Japan Gazette”は1867年10月12日にイギリス人ブラックが創刊した毎夕刊行の新聞紙。抄訳の内容は、長崎県におけるキリスト教取締りに見られる日本政府のキリスト教対策を非難するもの。「単行書・大使書類原本本朝公信附属書類・上」(Ref. A04017147800、84画像目)。

 キリスト教の問題も、留守政府の懸案事項でした。とくにキリスト教取締りに対する諸外国の反発は、条約改正交渉にも影響を及ぼします。留守政府、使節団は諸外国の反応を意識しながらキリスト教対策を進めます。長崎県、伊万里県でのキリスト教徒の取締りについて、使節団の交渉に差障りが出ることを懸念した留守政府は、県へ詳細を確認します。報告を受けた使節団も、キリスト教への対応について、留守政府から地方官へ説諭するよう伝えます。キリスト教への対応の苦慮は、『本朝公信付属書類』に収録された県、外務省、太政官の公信、外字新聞の抄訳などからもうかがえます(画像3)。

 外交面でも留守政府は難しい対応を迫られます。1871年、台湾に漂着した宮古島民が、現地の住民に殺害される事件が起こります。これを受けた鹿児島県参事大山綱良は、台湾への出兵を建議します(『記録材料・台湾蕃地事件・左院書記官 』(Ref. A07060236200))。留守政府は、台湾出兵を士族の「鬱憤を国外に漏さしむるの策」(『岩倉具視関係文書』第5)とする強硬派と、反対派に分かれますが、評議の結果、1873年3月に外務卿副島種臣を清に派遣し、交渉にあたらせます。また、同年5月には、朝鮮・釜山在住の広津弘信の報告書を受けて、朝鮮への使節派遣が議論されます。この派遣には、「内乱を冀う心を外に移」(『西郷隆盛全集』第3巻)すという、士族対策の向きもありました。内政問題と外交問題が交錯するなかで、留守政府は外征策によって双方の問題の解決を図ろうとします。

 新政府の廃藩置県断行後、留守政府は、使節団不在のなかで、様々な制度改革を展開しました。その一方で、国内では廃藩置県断行に伴い高まる社会不安、国外では台湾、朝鮮をめぐる外交問題への対処を迫られます。こうしたなか、留守政府は内政問題と外交問題を交錯させる形で問題の解決を図ります。しかし、太政官制改革に見られるような内政の混乱と、外交政策における外征策の決定は、帰国した使節団との対立を招き、征韓論政変を引き起こすこととなります。

<松本 和樹(調査員)>

【参考文献】
笠原英彦『明治留守政府』(慶應義塾大学出版会、2010年)
柏原宏紀「太政官制潤飾の実相」(『日本歴史』750、2010年)
勝田政治「征韓論政変と大久保政権」(明治維新史学会編『講座明治維新 第4巻 近代国家の形成』有志舎、2012年)

1873年5月の皇城炎上

   準備中


征韓論と朝鮮

 岩倉使節団は外国を知るために米欧を見て回りましたが、このとき、留守政府では、いちばん近い外国である朝鮮について議論になっていました。
 使節団が帰国すると、留守政府では西郷隆盛の朝鮮派遣が決定しており、1873年10月、これをめぐって西郷・板垣退助らと岩倉具視大久保利通らの間に政争が起きます。「征韓論政変」とも呼ばれるこの争いを引き起こした「征韓論」とはどのようなものだったのでしょうか。その背景をひもといてみます。

 まず、征韓思想の源流からみてみましょう。幕末、外国船の接近で西洋からの圧力が意識されるようになります。これに対する反発として、近隣地域への領土拡張論があらわれますが、あわせて支配体制の整備や民心統一の必要性が強調されるようになり、その中心として天皇が浮かび上がります。たとえば、国学者の平田篤胤は、日本は「万国の祖国本国」であり、天皇は「万国の君師」として世界に臨むべきとしました。儒学者である藤田幽谷や東湖、会沢正志斎らは、日本は朝鮮や中国と違って、王朝交代がないから国の形が優秀であると強調しました。
 1853年のペリー来航以降になると、攘夷の機運は幕府外交の批判を高まらせ、あらたな結集の基軸として天皇が求められます。こうした攘夷思想の中でも特に先鋭的だったのが征韓思想でした。著名な国学者である吉田松陰は、国の理想型を古代に求めました。当時は、古代には朝鮮諸国が日本に服属していたと考えられており、松陰にとって朝鮮の服属は本来の日本のあり方=国体に不可欠のものとしてとらえられました。
 また「三韓朝貢」や「神功皇后の三韓征伐」といった古代神話が、朝鮮を服属させる正当性としてたびたび取りあげられました。ペリー来航直後、徳川斉昭は「既ニ五経博士を始種々の職人共、追々三韓より献上為致候儀、古史ニ的例有之」と述べ、老中である間部詮勝は「三韓掌握之往古ニ復すへく」と述べています。この時期、さまざまな人たちに朝鮮はもともと日本に服すべきであるという認識があったといえます。

1864年10月に対馬藩士大島友之允が提出した建白書。これまで対馬藩が主張してきた朝鮮に対する方策がまとめられている。「朝鮮通信事務一件 四」(Ref:B13090754300

 では、外交の面ではどのような経緯があったのでしょうか。朝鮮交易の窓口になっていたのは対馬藩でした。対馬藩は日朝貿易の独占を許されていましたが、この頃には朝鮮通信使の来訪も途絶え、関係が衰退していました。財政難の対馬藩にあらたな脅威となったのが外国船による圧迫です。特にロシア艦ポサドニック号が対馬沖に滞泊したことは対馬藩に海防の難しさを痛感させました。対馬の尊攘派は長州藩に接近し、列強に対する対馬防衛の不備は皇国全体の問題であり、さらに列強が朝鮮を占領すれば日本の危機となるのでその前に日本が方策を立てるべきであると主張して、こうした事態に備えるために対馬藩に十分な援助を与えるよう幕府に求めました。朝鮮に対する方策としては、「はじめは隣好の誠意を尽くし、列強を打ち払って日本に服するよう諭すが、承服しなければ兵威を示すことになる」と構想していました。

外務省所蔵『対韓政策関係雑纂 朝鮮事務書第1巻』には書契拒絶問題の経緯が記録されている。(Ref.B03030163300

 王政復古の政変、戊辰戦争を経て、あらたに誕生した維新政府は、朝鮮に王政復古の通告をするように対馬藩に命じます。1868年12月、対馬藩から書契(外交文書)を携えた使節が出発しました。
 しかし、この書契は拒絶されます。問題となったのは、朝鮮側への敬称「大人」が「公」に格下げされたこと、「皇」、「勅」の文言を用いたことなどでした。特に「皇」や「勅」は文字自体が日本と朝鮮の上下関係を含意するものでした。維新政府はこの内容が朝鮮側には受け入れられないことを予想しており、対馬藩の宗義達は不首尾の時は「国体ヲ立、勤王ノ道ヲ尽シ、社稷ト存亡スル」と藩内に布達しています。

 このとき維新政府や対馬藩では朝鮮外交の刷新が唱えられていました。それは、これまでの幕府の対等外交は日本に対する無礼であり、政府があらためられた以上は古代のように朝鮮は日本に服属すべきであるとするものでした。木戸孝允は使節が対馬を出発した直後の12月14日の日記に「使節を朝鮮に遣し、彼無礼を問ひ、彼若不服ときは鳴罪攻撃其土、大に神州之威を伸張せんことを願ふ」(『木戸孝允日記』1)と書いています。書契はこのような考えに基づいていたため、朝鮮側が受取を拒否したのは必然的なことでした。

佐田白茅の建白書。「断然兵力を以て焉(これ)に涖(のぞ)まざれば則ち我用を為さざる也」とある。「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(Ref:A01100124300

 こののち、政府内では征韓論が盛んに唱えられるようになります。朝鮮外交から対馬を除外して権限を外務省へ一本化すべきとの意見が強まり、その前提として調査を目的に外務官が派遣されました。1870年3月には釜山の実地踏査を終えた外務官、佐田白茅・森山茂・斎藤栄がそれぞれ建白書を提出しましたが、三人とも「皇使派遣と必要に応じた武力行使」を主張しています。実際に政策の提起や運用にあたる者が、幕末以来の対馬藩の「説得できなければ討つ」構想で共通していたといえます。

 1873年10月に起きた征韓論をめぐる政変はこのような歴史的経緯を背景にもつものでした。政争では岩倉、大久保らの派遣延期論がとおり、西郷らは下野することになりましたが、対アジア強硬策が放棄されたことはなく、翌年の台湾出兵や翌々年の江華島事件の勃発に連なっていきました。

<齊藤 涼子(調査員)>

【参考文献】
吉野誠『東アジア史のなかの日本と朝鮮 古代から近代まで』(明石書店、2004年)
吉野誠『明治維新と征韓論 吉田松陰から西郷隆盛へ』(明石書店、2002年)
木村直也「幕末期の朝鮮進出論とその政策化」(『歴史学研究』679、1995年)
木村直也「幕末の日朝関係と征韓論」(『歴史評論』516、1993年)
井上勝生『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新』(岩波新書、2007年)

岩倉使節団の記録と『米欧回覧実記』の編纂

   準備中


ページのトップへ戻る