2.太平洋戦争の開戦とアジア

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまりました。日本はドイツ・イタリアと同盟を強化し、フランス領インドシナ(仏印)に進駐するなど、東南アジア方面に勢力を拡大します。これに対してアメリカは英・中・蘭とともに経済封鎖で応じました。

日米対立が深まるなか、戦争回避に向けた日米交渉が続けられましたが(関連コンテンツ: 公文書に見る日米交渉)、1941年12月8日、対英米開戦が宣言されました。



【資料9】汪兆銘政権樹立の報道

「写真週報 111号」(Ref. A06031070600)13~14画像目


1940年3月30日、汪兆銘を首班とした南京国民政府(汪兆銘政権)が樹立されました。『写真週報』では110号(4月3日)、111号(4月10日)にかけて、これを大きく取り上げています。



【資料10】南方の資源への関心

「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱 昭和15年7月」(Ref. C12120200800)1~2画像目


1940年7月27日、大本営政府連絡会議で「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定されました。ヨーロッパでのドイツ優勢の状況をふまえて、ドイツ・イタリアとの協力強化、フランス領インドシナ(仏印)での「援蒋行為」(蒋介石の国民政府への支援)の遮断や資源獲得、外交によるオランダ領東インド(蘭印)の資源獲得などの方針が示されました。



【資料11】「南方の共栄圏」

「写真週報 129号」(Ref. A06031072400)1~3画像目(部分)


1940年8月1日、松岡洋右外相は談話で、仏印や蘭印をも含む「大東亜共栄圏」構想を表明しました。その二週間後の『写真週報』8月14日号では「南方の共栄圏 蘭領印度」と題し、蘭印とその資源について紹介しています。

関連コンテンツ: アジ歴トピックス「大東亜共栄圏」



【資料12】北部仏印への進駐

「写真週報 139号」(Ref. A06031073400)4画像目


欧州戦線ではフランスがドイツに敗れ、1940年7月に親独フランス政権(ヴィシー政権)が成立していましたが、日本は同政権と交渉して、1940年9月、北部仏印に進駐しました。これに対してアメリカは、屑鉄等の対日輸出禁止措置を取りました。

上の画像は同年10月23日号に掲載された、仏印進駐について伝える記事。



【資料13】援蒋ルート爆撃

「写真週報 142号」(Ref. A06031073700)3~4画像目


北部仏印への進駐は、国民政府への支援ルート(援蒋ルート)の遮断、資源獲得を意図して行われました。上の記事(1940年11月13日)は「援蒋ビルマルート」と、日本軍による爆撃について解説しています。



【資料14】「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」

「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱 昭和16年7月2日」(Ref. C12120183800)1~3画像目


1940年9月以来、オランダとの間で、蘭印の石油などの重要資源確保をめぐる交渉が行われましたが(第二次日蘭会商)、1941年6月17日に打ち切られました。一方、6月22日には独ソ戦争が勃発しました。

こうした状況のなか、7月2日御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定されました。対米英戦をも辞さない「南方」施策や、独ソ戦の推移次第での対ソ連武力行使などの方針が記されています。



【資料15】南部仏印への進駐

「写真週報 181号」(Ref. A06031077600)2~3画像目


1941年7月、日本軍は南部仏印に進駐しました。アメリカ等は強く反発し、在米日本資産の凍結、対日石油禁輸といった措置が取られました。

画像は『写真週報』(1941年8月13日号)に掲載された記事「日仏印共同防衛とABCD包囲線」および「仏印増派第一報」。



【資料16】総力戦研究所研究生の「東亜将来の情勢判断」

「第1問 長期に亘る東亜将来の情勢判断(1)」(Ref. C14060860600)31~32画像目


この資料は1941年10月、総力戦研究所の第1期研究生が取り組んだ課題作業「長期に亘る東亜将来の情勢判断」の答申(回答)をまとめたもの。日本が対英米戦に勝利してアジア各地を支配下に収めるという予想もあれば、その困難を予想するものもあります。画像は研究生で判事の三渕乾太郎の回答です。

総力戦研究所は、総力戦の調査研究・教育訓練のため1940年9月に設置された内閣直属機関で、若手の官僚や民間社員を研究生として受け入れていました。



【資料17】御前会議での対米英開戦決定

「第7回御前会議質疑応答の概況」(Ref. C12120186900)15~16画像目


1941年11月5日の御前会議において、対米英蘭開戦に向けた「帝国国策遂行要領」が決定されました。この資料は御前会議での質疑応答記録です。



【資料18】南方軍政の基本方針

「南方占領地行政実施要領 11月20日」(Ref. C12120209400)1~5画像目


日本は石油をはじめとする軍需資源獲得を目指し、東南アジアに侵攻する計画でした。

開戦を目前にした1941年11月20日、南方占領地での軍政実施方針が決定し、①治安回復、②重要国防資源の急速獲得、③作戦軍の自活確保が基本方針として掲げられました。



【資料19】開戦の詔書

「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」(Ref. A03022539800)1~4画像目


1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃するとともに、イギリス領のマレー半島に上陸を開始、太平洋戦争が始まりました。

上の画像は対米英開戦の詔書。「御署名原本」と呼ばれるもので、憲法、詔書、法律、条約、勅令などを公布する際の、御名(天皇の署名)・御璽(天皇の印)を付した文書の原本です。国立公文書館に所蔵されています。



【資料20・21】『写真週報』の戦場報道

「写真週報 210号」(Ref. A06031080500)3画像目、「写真週報 214号」(Ref. A06031080900)1、3画像目


日本軍は、アメリカ領フィリピン、オランダ領インドネシア、イギリス領ボルネオ、イギリス領ビルマ(現・ミャンマー)など東南アジアおよび太平洋各地に侵攻し、戦線を広げていきました。『写真週報』には戦地の写真が次々と報じられます。上記はそれぞれ、1942年2月15日のシンガポール陥落、3月8日のラングーン陥落を報じた記事(3月4日号、4月1日号)。



【資料22・23】「新戦場辞典」と「大東亜戦争図」

「写真週報 200号」(Ref. A06031079500)8画像目、「写真週報 202号」(Ref. A06031079700)9画像目


『写真週報』200号(1941年12月24日)には、「新戦場辞典」と題してハワイ・フィリピン・マレーを紹介する記事が載り、以後、戦線の拡大ごとに記事が追加されていきました。202号(1942年1月7日)に初めて掲載された「大東亜戦争図」は同年夏(8月5日号)までたびたび誌面に登場し、日本の占領地と戦線の拡大を図示していきました。



【資料24】南方の軍政に関する資料

「1.地方長官会議に於ける質疑応答事項 昭和17年11月28日」(Ref. C14060658100)33、37画像目


東南アジアの占領地では、「南方占領地行政実施要領」をふまえて軍政が布かれていきます。その行政機構は地域ごとに違いがありますが、マライ(マレー)では各州に日本人の長官・官吏が派遣されました。画像は、各州長官が集まって行われた会議の質疑応答記録(一部)。インフレや生活物資不足への対策要求など、さまざまな応答がなされています。



【資料25・26】南方の占領地

「写真週報 203号」(Ref. A06031079800)3画像目、「写真週報 247号」(Ref. A06031084200)2~3画像目


『写真週報』には、占領した東南アジア各地の様子を報じる記事もたびたび掲載されました。

左の画像は、英領ボルネオの油田地帯についての記事「油田まづ我が手に帰す」(203号、1942年1月14日)。247号(1942年11月18日)には、右の画像の記事「昭南駅はゴムの洪水」のほか、ラングーンの街頭風景、マニラの国民学校、サイゴンの日本語講習など、占領地の状況が写真とともに報じられています。



【資料27】タイ国との関係

「16 盤谷」(Ref. B02033018400)20~21画像目


対米英開戦当日の1941年12月8日、日本軍は英領マラヤ攻略のためタイ国領を通過しようとしましたが、タイ国への通過許可要請が間に合わず、日タイ両国軍間に戦闘が発生しました。しかしタイ国の首相ピブーンは同日、日本軍の領域通過を認める協定に調印することとなります。

上の資料は、そのときのピブーンの様子を伝える、在タイ坪上貞二大使が外務省に宛てた電報です。

12月21日には日タイ軍事同盟条約が締結されました。