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元号が「昭和」に改められたころの日本は、国際連盟をはじめとする国際枠組みのもと、協調外交を基調としていました。しかしその後、1931年満洲事変、1937年日中戦争、1941年太平洋戦争が勃発、日本は戦争の時代へと向かっていきます。


当センターではこの時代の歴史資料を数多くデジタル公開してきましたが、そのなかでも特徴的な資料の一つに、内閣情報部が創刊したグラフ雑誌『写真週報』があります。アジ歴では国立公文書館が所蔵する同誌の創刊号(1938年2月16日)から352号(1944年12月20日)までを閲覧することができます。


この章では、日中戦争から太平洋戦争にかけての日本とアジアの関係、とりわけ外交と戦争に関わる『写真週報』の記事を紹介しながら、当センターで公開している公文書等をあわせてご紹介していきます。


1.日中戦争の展開と写真週報の創刊

1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった日中軍事衝突(盧溝橋事件)を契機として、日中戦争が始まりました。当初は局地的な軍事衝突で、日中双方とも不拡大方針が取られましたが、逐次戦力が投入されて戦線が拡大、戦争は長期化していきました。

そうしたさなか、内閣情報部により『写真週報』が刊行されます。同誌では戦場や占領地、前線の兵士の様子などを報じるとともに、国策に関するさまざまな記事を掲載していきました。



【資料1】盧溝橋事件の発生

「丙 支那事変機密記録(自昭和12年7月至昭和12年8月)(1)」(Ref. C14120633300)1~2画像目


1937年7月7日夜に発生した盧溝橋事件は、現地で停戦協定が成立しましたが、7月11日の閣議で関東軍と朝鮮軍(満洲・朝鮮の日本軍部隊)、次いで内地師団(国内の日本軍部隊)の派兵が決定され、戦争は長期化していくこととなります。

この資料は当時、海軍の中堅将校が作成していた記録で、華北派兵を決定した7月11日の閣議の様子から記述が始まり、海軍側の情勢分析や、陸軍の中堅将校との業務連絡の内容などが記されています。



【資料2】第一次近衛声明と外務省

「4.重要国策関係(支那事変中)/10)帝国政府声明」(Ref. B02030523700)2画像目


首都南京の陥落後、蒋介石の国民政府は重慶に移って抵抗を継続します。1938年1月、近衛文麿首相は「国民政府ヲ対手トセズ」という声明を出し、蒋介石の国民政府との和平交渉を打ち切りました。

上の資料は、この声明を受けた外務省の方針を定めたもの(一部)。内容を見ると、首相声明は国際法上の説明が困難ながら、この戦争を「戦争にあらず」としてきたように、法律上の関係を明確にせず我が方有利の解釈で進めていく、といった方針が示されています。



【資料3】『写真週報』の創刊

「写真週報 創刊号」(Ref. A06031059600)7~8画像目


1938年2月16日、政府の広報宣伝政策の一環として『写真週報』創刊号が刊行されました。

画像左上は、見開き全面に写真を配した「ラヂオ体操」、右上は戦地の兵士たちの写真が載る「戦線より故郷へ」。このほか創刊号には、新設省庁である厚生省を紹介する記事や、満洲国の記事なども掲載されています。


「創刊の言葉」(12画像目)では、この雑誌について、先に刊行していた『週報』と対比させて「週報が国策のパンフレットなら、写真週報は国策のグラフともいふべき姉妹誌」と説明。末尾では「私等は写真に依る啓発宣伝の極めて強力なるを想ひ、写真関係のものが、官庁も民間も、作家団体も個人の工房もあらゆるものが総動員されて、カメラに依りレンズを通じて対外、対内の啓発宣伝に資し写真報国の実の挙がることを希望してやまぬ次第です」と結んでいます。

関連コンテンツ: 「『写真週報』とは―政府広報宣伝担当機関の変遷と『写真週報』」



【資料4】戦地からの報道

「写真週報 16号」(A06031061100)1、4画像目


中国の戦場も写真入りで報じられていきました。この画像は日本軍の作戦(徐州作戦)を報じる第16号(1938年6月1日)。



【資料5】汪兆銘の重慶脱出

「1 昭和15年1月13日から昭和15年3月28日」(Ref. B02031745200)2画像目


国民政府の有力政治家・汪兆銘(汪精衛)は日本との妥協・和平を図り、1938年12月に重慶を脱出し、新政権樹立の準備を進めていくこととなります。この資料は、後になってその経緯をまとめた内閣情報部作成の資料です(画像は表紙と冒頭箇所)。



【資料6】第二次・第三次近衛声明

「近衛首相演述集」(その二)/1 第一章 「声明、告諭、訓令、訓辞」(Ref. B02030031600)8~10画像目


近衛文麿首相は、1938年11月3日「東亜新秩序建設」を声明(第二次近衛声明)、蒋介石政権がこれに参加することを拒否しないとしました。続いて12月22日には「善隣友好・共同防共・経済提携」の三原則を中国国交調整の方針として掲げる声明(第三次近衛声明)を発表しました。

上の資料には第一次・第二次・第三次近衛声明が掲載されています。



【資料7】重慶への爆撃

「写真週報 67号」(Ref. A06031066200)6画像目


日本軍は、国民政府が拠点を移した重慶に対して爆撃を実施、『写真週報』でもこれをたびたび報じました。上の画像は1939年5月31日号。



【資料8】満洲国についての報道

「写真週報 31号」(Ref. A06031062600)3画像目


創刊号以来、満洲国に関連する記事は多く、日本人開拓移民、満洲の資源や産業、関東軍と満洲国軍、皇帝溥儀の来日などが紹介されました。

画像は「満洲建設の巨歩」と表紙に記された31号(1938年9月14日)で、新京(現在の長春)の都市整備を取り上げた記事。




2.太平洋戦争の開戦とアジア

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまりました。日本はドイツ・イタリアと同盟を強化し、フランス領インドシナ(仏印)に進駐するなど、東南アジア方面に勢力を拡大します。これに対してアメリカは英・中・蘭とともに経済封鎖で応じました。

日米対立が深まるなか、戦争回避に向けた日米交渉が続けられましたが(関連コンテンツ: 公文書に見る日米交渉)、1941年12月8日、対英米開戦が宣言されました。



【資料9】汪兆銘政権樹立の報道

「写真週報 111号」(Ref. A06031070600)13~14画像目


1940年3月30日、汪兆銘を首班とした南京国民政府(汪兆銘政権)が樹立されました。『写真週報』では110号(4月3日)、111号(4月10日)にかけて、これを大きく取り上げています。



【資料10】南方の資源への関心

「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱 昭和15年7月」(Ref. C12120200800)1~2画像目


1940年7月27日、大本営政府連絡会議で「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定されました。ヨーロッパでのドイツ優勢の状況をふまえて、ドイツ・イタリアとの協力強化、フランス領インドシナ(仏印)での「援蒋行為」(蒋介石の国民政府への支援)の遮断や資源獲得、外交によるオランダ領東インド(蘭印)の資源獲得などの方針が示されました。



【資料11】「南方の共栄圏」

「写真週報 129号」(Ref. A06031072400)1~3画像目(部分)


1940年8月1日、松岡洋右外相は談話で、仏印や蘭印をも含む「大東亜共栄圏」構想を表明しました。その二週間後の『写真週報』8月14日号では「南方の共栄圏 蘭領印度」と題し、蘭印とその資源について紹介しています。

関連コンテンツ: アジ歴トピックス「大東亜共栄圏」



【資料12】北部仏印への進駐

「写真週報 139号」(Ref. A06031073400)4画像目


欧州戦線ではフランスがドイツに敗れ、1940年7月に親独フランス政権(ヴィシー政権)が成立していましたが、日本は同政権と交渉して、1940年9月、北部仏印に進駐しました。これに対してアメリカは、屑鉄等の対日輸出禁止措置を取りました。

上の画像は同年10月23日号に掲載された、仏印進駐について伝える記事。



【資料13】援蒋ルート爆撃

「写真週報 142号」(Ref. A06031073700)3~4画像目


北部仏印への進駐は、国民政府への支援ルート(援蒋ルート)の遮断、資源獲得を意図して行われました。上の記事(1940年11月13日)は「援蒋ビルマルート」と、日本軍による爆撃について解説しています。



【資料14】「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」

「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱 昭和16年7月2日」(Ref. C12120183800)1~3画像目


1940年9月以来、オランダとの間で、蘭印の石油などの重要資源確保をめぐる交渉が行われましたが(第二次日蘭会商)、1941年6月17日に打ち切られました。一方、6月22日には独ソ戦争が勃発しました。

こうした状況のなか、7月2日御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定されました。対米英戦をも辞さない「南方」施策や、独ソ戦の推移次第での対ソ連武力行使などの方針が記されています。



【資料15】南部仏印への進駐

「写真週報 181号」(Ref. A06031077600)2~3画像目


1941年7月、日本軍は南部仏印に進駐しました。アメリカ等は強く反発し、在米日本資産の凍結、対日石油禁輸といった措置が取られました。

画像は『写真週報』(1941年8月13日号)に掲載された記事「日仏印共同防衛とABCD包囲線」および「仏印増派第一報」。



【資料16】総力戦研究所研究生の「東亜将来の情勢判断」

「第1問 長期に亘る東亜将来の情勢判断(1)」(Ref. C14060860600)31~32画像目


この資料は1941年10月、総力戦研究所の第1期研究生が取り組んだ課題作業「長期に亘る東亜将来の情勢判断」の答申(回答)をまとめたもの。日本が対英米戦に勝利してアジア各地を支配下に収めるという予想もあれば、その困難を予想するものもあります。画像は研究生で判事の三渕乾太郎の回答です。

総力戦研究所は、総力戦の調査研究・教育訓練のため1940年9月に設置された内閣直属機関で、若手の官僚や民間社員を研究生として受け入れていました。



【資料17】御前会議での対米英開戦決定

「第7回御前会議質疑応答の概況」(Ref. C12120186900)15~16画像目


1941年11月5日の御前会議において、対米英蘭開戦に向けた「帝国国策遂行要領」が決定されました。この資料は御前会議での質疑応答記録です。



【資料18】南方軍政の基本方針

「南方占領地行政実施要領 11月20日」(Ref. C12120209400)1~5画像目


日本は石油をはじめとする軍需資源獲得を目指し、東南アジアに侵攻する計画でした。

開戦を目前にした1941年11月20日、南方占領地での軍政実施方針が決定し、①治安回復、②重要国防資源の急速獲得、③作戦軍の自活確保が基本方針として掲げられました。



【資料19】開戦の詔書

「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」(Ref. A03022539800)1~4画像目


1941年12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃するとともに、イギリス領のマレー半島に上陸を開始、太平洋戦争が始まりました。

上の画像は対米英開戦の詔書。「御署名原本」と呼ばれるもので、憲法、詔書、法律、条約、勅令などを公布する際の、御名(天皇の署名)・御璽(天皇の印)を付した文書の原本です。国立公文書館に所蔵されています。



【資料20・21】『写真週報』の戦場報道

「写真週報 210号」(Ref. A06031080500)3画像目、「写真週報 214号」(Ref. A06031080900)1、3画像目


日本軍は、アメリカ領フィリピン、オランダ領インドネシア、イギリス領ボルネオ、イギリス領ビルマ(現・ミャンマー)など東南アジアおよび太平洋各地に侵攻し、戦線を広げていきました。『写真週報』には戦地の写真が次々と報じられます。上記はそれぞれ、1942年2月15日のシンガポール陥落、3月8日のラングーン陥落を報じた記事(3月4日号、4月1日号)。



【資料22・23】「新戦場辞典」と「大東亜戦争図」

「写真週報 200号」(Ref. A06031079500)8画像目、「写真週報 202号」(Ref. A06031079700)9画像目


『写真週報』200号(1941年12月24日)には、「新戦場辞典」と題してハワイ・フィリピン・マレーを紹介する記事が載り、以後、戦線の拡大ごとに記事が追加されていきました。202号(1942年1月7日)に初めて掲載された「大東亜戦争図」は同年夏(8月5日号)までたびたび誌面に登場し、日本の占領地と戦線の拡大を図示していきました。



【資料24】南方の軍政に関する資料

「1.地方長官会議に於ける質疑応答事項 昭和17年11月28日」(Ref. C14060658100)33、37画像目


東南アジアの占領地では、「南方占領地行政実施要領」をふまえて軍政が布かれていきます。その行政機構は地域ごとに違いがありますが、マライ(マレー)では各州に日本人の長官・官吏が派遣されました。画像は、各州長官が集まって行われた会議の質疑応答記録(一部)。インフレや生活物資不足への対策要求など、さまざまな応答がなされています。



【資料25・26】南方の占領地

「写真週報 203号」(Ref. A06031079800)3画像目、「写真週報 247号」(Ref. A06031084200)2~3画像目


『写真週報』には、占領した東南アジア各地の様子を報じる記事もたびたび掲載されました。

左の画像は、英領ボルネオの油田地帯についての記事「油田まづ我が手に帰す」(203号、1942年1月14日)。247号(1942年11月18日)には、右の画像の記事「昭南駅はゴムの洪水」のほか、ラングーンの街頭風景、マニラの国民学校、サイゴンの日本語講習など、占領地の状況が写真とともに報じられています。



【資料27】タイ国との関係

「16 盤谷」(Ref. B02033018400)20~21画像目


対米英開戦当日の1941年12月8日、日本軍は英領マラヤ攻略のためタイ国領を通過しようとしましたが、タイ国への通過許可要請が間に合わず、日タイ両国軍間に戦闘が発生しました。しかしタイ国の首相ピブーンは同日、日本軍の領域通過を認める協定に調印することとなります。

上の資料は、そのときのピブーンの様子を伝える、在タイ坪上貞二大使が外務省に宛てた電報です。

12月21日には日タイ軍事同盟条約が締結されました。




3.戦局の転換とアジア

緒戦で勝利を重ねた日本軍でしたが、1942年6月にはミッドウェー海戦で敗北。1943年2月にはガダルカナル島を撤退し、戦線の後退を余儀なくされます。日本は連合国軍の反転攻勢に対して戦略の見直しを進め、「大東亜政略指導大綱」を決定します。占領地のうちフィリピンとビルマの独立を認め、10月には大東亜会議を開催してアジア各国の戦争協力を求めました。



【資料28】対中国政策の転換

「其1 参考資料 内閣準備書類/7、大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 昭和17年12月21日」(Ref. C12120194300)1~4画像目


1942年12月21日、御前会議で新たな対中国政策「大東亜戦争完遂ノ為ノ対支処理根本方針」が決定されました。南京国民政府(汪兆銘政権)の自発性と自由を容認し、治外法権撤廃などの主権回復措置を取ろうとするものでした。



【資料29】ビルマの独立方針

「3.ビルマ独立指導要綱ニ関スル若干ノ考察(外務省政務局第五課)」(Ref. B02032943900)2画像目


1943年3月10日、ビルマ独立に向けて「緬甸独立指導要綱」(Ref. C14060855000)が決定されました。この資料はそれに対する外務省政務局の考察で、2月24日の日付が入っています。日本によるビルマの「実質的把握」は戦時の暫定的措置としてやむを得ないという印象を与えるべきである、元首バー・モウは「骨のある人物で唯々諾々と服従する人物ではないことに留意」すべきである、といった記述があります。

開戦以前、フィリピンはアメリカからの独立、ビルマはイギリスの自治領化が予定されていました。



【資料30・31】バー・モウの来日

「写真週報 265号」(Ref. A06031086000)1画像目、「写真週報 266号」(Ref. A06031086100)4画像目


1943年3月、ビルマのバー・モウ長官が来日し、ビルマ独立について協議しました。『写真週報』3月31号は表紙で、4月7日号では誌面でこれを報じています。



【資料32】大東亜政略指導大綱

「昭和18年5月31日 大東亜政略指導大綱」(Ref. C12120280400)1~4画像目


1943年5月31日、御前会議で「大東亜政略指導大綱」が決定され、「帝国を中心とした大東亜の諸国家諸民族結集の政略体制」を整備・強化する方針が示されました。

汪兆銘政権と同盟条約の締結を目指し、ビルマおよびフィリピンは独立、マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土とすることなどが書かれています(インドネシアはのちの1944年9月、小磯國昭首相により将来の独立容認が言明)。



【資料33】フィリピンの状況

「其3 質疑応答参考資料 総長参考用/16、比島一般情勢」(Ref. C12120195400)1~2画像目


「大東亜政略指導大綱」を決定した5月31日御前会議の際の、陸軍参謀総長の質疑応答参考資料で、フィリピン情勢がまとめられたもの。「敵匪」の抵抗(フィリピンではゲリラの抵抗が続いていた)、「底流に於ては尚対日観念良好ならず今尚米の勝利を信ずるものあり」などの記述があります。

フィリピンの独立に関しては、6月26日「比島独立指導要綱」(Ref. C12120219900)が決定されました。



【資料34・35】ビルマとフィリピンの独立宣言の報道

「写真週報 286号」(Ref. A06031088100)2~3画像目

「写真週報 295号」(Ref. A06031089000)1、3画像目


ビルマでは8月1日にバー・モウを元首として独立が宣言されました。『写真週報』は「ビルマ国敵前独立の日」と題してこれを報じました(1943年8月25日号)。

フィリピンで独立が宣言されたのは10月14日。『写真週報』10月27日号の表紙はラウレル大統領で、「輝かしフィリピン独立の日」と題した記事が掲載されています。



【資料36・37】ボースと自由インド仮政府

「写真週報 297号」(Ref. A06031089200)4画像目、「写真週報 298号」(Ref. A06031089300)1画像目


1943年10月21日、日本軍政下のシンガポールで、インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースのもと、自由インド仮政府の樹立が宣言されました。『写真週報』では1943年11月10日号でこれを取り上げるとともに、11月17日号はボースの肖像が表紙に掲載されました。



【資料38】『写真週報』が報じた大東亜会議

「写真週報 298号」(Ref. A06031089300)2~5画像目


1943年11月5~6日、東京にアジア各国の首脳を集めて「大東亜会議」を開催、11月7日には日比谷公園で「大東亜結集国民大会」が開かれました。その様子は『写真週報』でも報じられています。同じ号で汪兆銘政権との日華同盟条約調印も取り上げられました(7画像目)。



【資料39】大東亜会議関連資料

「3.調書/3」(Ref. B02032958100)34~35画像目


外交史料館所蔵の簿冊「大東亜戦争関係一件/大東亜会議関係」( B02032955600)には、各国の演説内容をはじめ、同会議関係のさまざまな資料が収められています。「3.調書/3」「3.調書/4」( B02032958100B02032958200)からは、各参加国との事前交渉や、会議に対する各国・地域の記事・論調などをうかがうこともできます。

上の画像では、タイのピブーン首相が健康上の問題を理由にして出席しなかったことについて、在タイ日本大使が真の理由を推測している記述があります。




4.戦線の後退とアジア

1944年7月、絶対国防圏として設定したサイパンが陥落し、日本本土への爆撃が本格化します。ビルマから英領インドへの侵攻を試みたインパール作戦(1944年3~7月)に敗北し、1944年10月にはアメリカ軍がフィリピンに上陸、1945年2~3月には首都マニラで激しい市街戦が行われました。



【資料40】インパール作戦の報道

「写真週報 317号」(Ref. A06031091200)3画像目


1944年4月、ビルマから英領インドの都市・インパールへ侵攻する作戦(インパール作戦)が開始され、ボース指揮下のインド国民軍も参加しました。画像のように『写真週報』でも複数の記事が掲載されましたが、日本軍が大敗しました。



【資料41】フィリピンの戦いの報道

「写真週報 351号」(Ref. A06031094500)3画像目


1944年10月、アメリカ軍はフィリピン奪還を目指してレイテ島に上陸、日米両軍の激戦となりました。それ以降、当センターで公開している『写真週報』の最後の号(352号、1944年12月20日)まで、レイテ島の戦いに関する情報がたびたび掲載されています。



【資料42】仏印武力処理

「昭和20年3月 機密戦争日誌(1)」(Ref. C12120326800)20~21画像目


日本は太平洋戦争中、仏印に対しては内政に干渉しない「静謐(せいひつ)保持」を方針としていました。しかし、フランスの親独政権の崩壊、フィリピンの戦いの敗北を受けて、日本軍は1945年3月10日から仏印軍の武装解除作戦を実施しました。資料は「機密戦争日誌」の同日の条(一部)。

「機密戦争日誌」は、大本営陸軍部・戦争指導班の班員(参謀)が1940年6月から1945年8月まで書き継いでいた日誌。



【資料43】タイ国をめぐる問題

「「タイ」国問題」(Ref. B02032441400)31~34画像目


陸軍中央ではタイ国に対しても「武力処理」を検討しますが、在タイ国山本大使や、外相兼大東亜相の東郷茂徳はこれに反対しました。画像は、7月17日の最高戦争指導会議における東郷大臣の発言要領案。ドイツ降伏やラングーン陥落がタイ国民に衝撃を与え、対日協力の消極化が進んでいること、しかし大筋では日本側の要請には応えていること、武力処理は大東亜の結集を破るもので、タイ国民の総反抗を招く公算が大きいことなどが書かれています。



【資料44】終戦の詔書

「御署名原本・昭和二十年・詔書八月十四日・大東亜戦争終結ニ関スル詔書」(Ref. A04017702300)1~4画像目


1945年8月、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦を経て、日本は降伏を決定。14日連合国に通知し、15日には昭和天皇みずから上記の詔書を朗読した音声がラジオ放送され、国民に終戦が伝えられました。




※第2回は2026年8月15日頃公開予定です




参考文献