1.日中戦争の展開と写真週報の創刊

1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった日中軍事衝突(盧溝橋事件)を契機として、日中戦争が始まりました。当初は局地的な軍事衝突で、日中双方とも不拡大方針が取られましたが、逐次戦力が投入されて戦線が拡大、戦争は長期化していきました。

そうしたさなか、内閣情報部により『写真週報』が刊行されます。同誌では戦場や占領地、前線の兵士の様子などを報じるとともに、国策に関するさまざまな記事を掲載していきました。



【資料1】盧溝橋事件の発生

「丙 支那事変機密記録(自昭和12年7月至昭和12年8月)(1)」(Ref. C14120633300)1~2画像目


1937年7月7日夜に発生した盧溝橋事件は、現地で停戦協定が成立しましたが、7月11日の閣議で関東軍と朝鮮軍(満洲・朝鮮の日本軍部隊)、次いで内地師団(国内の日本軍部隊)の派兵が決定され、戦争は長期化していくこととなります。

この資料は当時、海軍の中堅将校が作成していた記録で、華北派兵を決定した7月11日の閣議の様子から記述が始まり、海軍側の情勢分析や、陸軍の中堅将校との業務連絡の内容などが記されています。



【資料2】第一次近衛声明と外務省

「4.重要国策関係(支那事変中)/10)帝国政府声明」(Ref. B02030523700)2画像目


首都南京の陥落後、蒋介石の国民政府は重慶に移って抵抗を継続します。1938年1月、近衛文麿首相は「国民政府ヲ対手トセズ」という声明を出し、蒋介石の国民政府との和平交渉を打ち切りました。

上の資料は、この声明を受けた外務省の方針を定めたもの(一部)。内容を見ると、首相声明は国際法上の説明が困難ながら、この戦争を「戦争にあらず」としてきたように、法律上の関係を明確にせず我が方有利の解釈で進めていく、といった方針が示されています。



【資料3】『写真週報』の創刊

「写真週報 創刊号」(Ref. A06031059600)7~8画像目


1938年2月16日、政府の広報宣伝政策の一環として『写真週報』創刊号が刊行されました。

画像左上は、見開き全面に写真を配した「ラヂオ体操」、右上は戦地の兵士たちの写真が載る「戦線より故郷へ」。このほか創刊号には、新設省庁である厚生省を紹介する記事や、満洲国の記事なども掲載されています。


「創刊の言葉」(12画像目)では、この雑誌について、先に刊行していた『週報』と対比させて「週報が国策のパンフレットなら、写真週報は国策のグラフともいふべき姉妹誌」と説明。末尾では「私等は写真に依る啓発宣伝の極めて強力なるを想ひ、写真関係のものが、官庁も民間も、作家団体も個人の工房もあらゆるものが総動員されて、カメラに依りレンズを通じて対外、対内の啓発宣伝に資し写真報国の実の挙がることを希望してやまぬ次第です」と結んでいます。

関連コンテンツ: 「『写真週報』とは―政府広報宣伝担当機関の変遷と『写真週報』」



【資料4】戦地からの報道

「写真週報 16号」(A06031061100)1、4画像目


中国の戦場も写真入りで報じられていきました。この画像は日本軍の作戦(徐州作戦)を報じる第16号(1938年6月1日)。



【資料5】汪兆銘の重慶脱出

「1 昭和15年1月13日から昭和15年3月28日」(Ref. B02031745200)2画像目


国民政府の有力政治家・汪兆銘(汪精衛)は日本との妥協・和平を図り、1938年12月に重慶を脱出し、新政権樹立の準備を進めていくこととなります。この資料は、後になってその経緯をまとめた内閣情報部作成の資料です(画像は表紙と冒頭箇所)。



【資料6】第二次・第三次近衛声明

「近衛首相演述集」(その二)/1 第一章 「声明、告諭、訓令、訓辞」(Ref. B02030031600)8~10画像目


近衛文麿首相は、1938年11月3日「東亜新秩序建設」を声明(第二次近衛声明)、蒋介石政権がこれに参加することを拒否しないとしました。続いて12月22日には「善隣友好・共同防共・経済提携」の三原則を中国国交調整の方針として掲げる声明(第三次近衛声明)を発表しました。

上の資料には第一次・第二次・第三次近衛声明が掲載されています。



【資料7】重慶への爆撃

「写真週報 67号」(Ref. A06031066200)6画像目


日本軍は、国民政府が拠点を移した重慶に対して爆撃を実施、『写真週報』でもこれをたびたび報じました。上の画像は1939年5月31日号。



【資料8】満洲国についての報道

「写真週報 31号」(Ref. A06031062600)3画像目


創刊号以来、満洲国に関連する記事は多く、日本人開拓移民、満洲の資源や産業、関東軍と満洲国軍、皇帝溥儀の来日などが紹介されました。

画像は「満洲建設の巨歩」と表紙に記された31号(1938年9月14日)で、新京(現在の長春)の都市整備を取り上げた記事。