昭和12年(1937年)9月24日、内閣情報委員会の改組により発足した内閣情報部は、従来の各省間の情報関係事務の「連絡調整」に加え、自らも「情報蒐集、報道及啓発宣伝ノ実施」を行うことになっていました。しかし任務を実施する中で、権限の弱さや陸軍、海軍、外務省の同様の任務を行う部署との関係などの問題点が明らかになりました。

 昭和15年(1940年)8月近衛文麿内閣が成立すると、政府は行政機構改革の一環として内閣情報部の改組に乗り出し、上記のような問題点を解消するため外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省海軍軍事普及部などとの事務の統合を決定しました。その後内閣や各省委員による幾度かの審議を経て、昭和15年(1940年)12月5日、内閣情報局が発足しました。

 この内閣情報局において『写真週報』は、「検閲及び編輯に関する事項」を掌る第4部第2課が担当することになっていました。昭和13年(1938年)2月に創刊された『写真週報』は、その後読者の要望にも応じて「週報の大衆版」としての性格も帯びてゆき、昭和15年(1940年)1月24日刊行の100号からは読み物を扱うページが加わりました。こうした中で発行の増加をみた『写真週報』は、昭和16年(1941年)3月には発行部数20万部を数えるに至ったといわれています。

 「内閣情報局設置関係書類」の中には、内閣情報局発足に至るまでの職務案や機構案が複数含まれています。資料1から資料5は、この簿冊に収録されている資料です。これらの諸資料を時系列に沿って見ていくことで、内閣情報局が担当すべき職務の変化やその中での『写真週報』の位置づけの変化がうかがえます。

 資料1は、内閣や各省委員により内閣情報部の改組が審議されていた期間にあたる昭和15年(1940年)9月6日付の「内閣情報局設置要綱」です。この資料では内閣情報局の職務が、

   「(1)国策遂行の基礎たる事項に関する情報蒐集、報道及び啓発宣伝
   (2)新聞紙其の他の出版物に関する国家総動員法第二十条に依る処分
   (3)レコード、映画、演劇及びラヂオの(指導−この部分は手書きの書き込み)取締 」
とされ、さらに
   「前項の事務を行ふに付必要あるときは内閣情報局は関係各庁に対し情報の蒐集、
    報道及啓発宣伝 に関し共助を求め得ること」
と規定されています(1画像目)。また各省から情報局に移管統合する事務も規程されています(3〜5画像目)。

 資料2は、昭和15年(1940年)9月7日付の内閣情報局機構案です。ここでは『写真週報』の編輯出版が、「啓発」を担当する第二部の編輯課の管轄とされています。

 資料3は、昭和15年(1940年)9月25日付の「情報局機構案」です。資料2と異なり、ここでは『写真週報』の編輯出版が、「文化」を担当する第五部の、「編輯」を担う第一課の管轄とされています。

資料4は、昭和15年(1940年)9月26日付の「情報局設置要綱」です。この資料では、内閣情報局の職務について、
   「(1)国策遂行の基礎事項に関する情報蒐集、報道及啓発宣伝
   (2)新聞紙其の他の出版物に関する国家総動員法第二十条に依る処分
   (3)放送の指導取締
   (4)レコード、映画、演劇及演芸の国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上必要なる指導取締」
とされています(1画像目)。上記の資料1と比べると(3)以下に異同があることが分かります。また各省から情報局に移管統合する事務にも異同があります(4画像目〜6画像目)。

 資料5は、昭和15年(1940年)9月28日付の「情報局機構案」です。資料2、資料4と異なり、ここでは『写真週報』の編輯出版が、「検閲」を担当する第四部のうち、「編輯」を担う第二課の管轄とされています。12月に発足した内閣情報局でも、この案と同じく第四部第二課が『写真週報』を管轄しています。

 以上のような検討を経て作成された情報局官制案及びそれに関連する官制改正案は、近衛文麿内閣総理大臣から天皇に上奏され、天皇から枢密院に諮問がなされました。資料6から資料8は、この枢密院での審議に関する資料です。

 資料6は、昭和15年(1940年)10月16日付で近衛文麿内閣総理大臣が天皇に上奏し、枢密院への諮問を依頼した情報局官制案です。ここで上奏された案にみられる情報局の職務や職階は、12月に正式に公布される官制の内容と同様です。

 資料7は、資料6の官制案をうけた枢密院の審査委員会の資料です。11月14日におこなわれた第1回委員会では、情報局と軍報道部の関係(3画像目〜4画像目右)、情報宣伝の諸施設と情報局の関係(4画像目左)、情報局の事務とこれに統合されない各省の情報事務との関係(5画像目右)等について質疑応答がなされています。また、部局の機構の呼称についての法制上の方針に関する質問に対する法制局長官の答弁では、区別の標準は必ずしも明確ではないが、外局のうち規模の小さなものは「部」、大きなものは「局」、特に親任官を置くようなものを「院」と証するのが大体の慣例とするが、この官制では「対満事務局」の例に準じて情報「局」という呼称を用いた、という事情が述べられています。同18日の第2回委員会では、委員間の協議において、この案の官制の高等官職員のうち総裁、次長、秘書官以外をすべて銓衡任用可能な情報官としていることは「事頗(すこぶ)る異例に属する」として、一部を書記官に振り換えるよう政府と交渉することが決められています(12画像目〜13画像目右)。しかし同20日の第3回委員会では、前回の委員会の決定をうけた政府との交渉の経過をふまえて委員間で協議した結果、政府の希望を入れ情報局官制ほか4件を原案通り可決することが決定されています(14画像目〜15画像目)。

 資料8は、資料7にみた枢密院の審査委員会で行われた情報局官制ほか4件に関する審査報告です。この報告では情報局の設置については「刻下の情勢に照し当面の事態に考へ」その趣旨において是認するとしつつも、組織権限に関しては「必ずしも論議の余地なきに非ず」として、資料7でみた第2回委員会で問題となった高等官職員のほとんどを特別任用可能な官とすることがやはり「事頗(すこぶ)る異例に属す」と指摘されています(9画像目)。しかし情報局の特殊性や事実上は大半は今後も正規任用資格者であることをふまえ、「之を容認する外なき」として、原案通り可決されています(9画像目〜10画像目)。

資料9は、以上のような検討の過程を経て、昭和15年(1940年)12月5日に情報局官制が交付された際の御署名原本です。

 こうして成立した情報局は、改組以前の情報部の権限の弱さや陸軍、海軍、外務省の同様の任務を行う部署との関係などの問題点を克服することが目指されていましたが、改組後においても従来各省が担当していた情報事務との関係がしばしば問題となりました。資料10、11は、こうした点に関連する資料です。

 資料10は、情報局官制公布の翌日である昭和15年(1940年)12月6日付で陸軍省副官から同省技術本部長に発せられた「情報部廃止の件通牒」です。ここでは情報局設置に伴い、陸軍省の情報関係機関のうち、1.陸軍省情報部は情報局に移管すること、2.大本営報道部はそのまま存置すること、3.陸軍省軍務局内の一部の者が「純軍事関係事項の報道資料の作成」など軍関係の情報事務を担当することなどが規定されています。

 資料11は、昭和16年(1941年)1月付で第76回帝国議会向けに作成された想定問答集案です。この中では、この中では「内閣情報局拡充と外務省情報部との関係如何」という想定質問が立てられ、これに対する答弁案が記されています(4画像目〜5画像目)。

 資料12は、昭和16年(1941年)2月21日付で陸軍省の副官から発せられた通牒です。この中では、情報局において関係各庁の係官が協議した結果、週報および写真週報を官庁一般指導用刊行物とすることなどが決定されたことの周知がはかられています。


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