アジ歴ニューズレター第32号

2020年9月30日 発行

今⽇の資料

国際連盟の創設と日本 ―日本人事務局員の採用過程―
 1920年1月10日、ヴェルサイユ条約が発効したことにより、世界のあらゆる地域の国々を包括する初の国際機関として、国際連盟が創設されました。2020年はこの国際連盟が発足してからちょうど100周年に当たります。日本もこの国際連盟に創設のときから加盟しており、満洲事変後の脱退(1933年3月27日)に至るまで、常任理事国の一つという地位にありました。国際連盟は各加盟国の政府代表(外交官)が集まる総会や理事会により構成されるだけでなく、各国政府から独立した身分を持つ職員(国際公務員)により作られた事務局を有していました。この国際連盟事務局では何人もの日本人事務局員が働いていましたが、このように国際機関において政府から独立した地位の職員として日本人が採用されるということは、それまでにない初めての出来事でした。当時日本の中でどのような人物が国際連盟事務局員に選ばれ、その選出にあたってどのような点が評価されたのでしょうか。

 国際連盟事務局における日本人事務局員としては、まず事務次長を務めた新渡戸稲造と杉村陽太郎が挙げられます。新渡戸は『武士道』の著者、そして近代日本を代表する「国際人」として名を知られており、旧五千円札の肖像にも選ばれました。杉村陽太郎は国際連盟において日本政府を代表する外交官として活躍した他、1940年オリンピック大会の東京招致に貢献したことでも知られています。事務次長に加え、新渡戸は国際事務局部長、杉村は政治部長という役職を兼ねていました。そして、新渡戸、杉村以外の日本人事務局員としては、まず二人の秘書を務めた原田健が挙げられます。次に挙げられるのが、国際連盟の広報を担う情報部の職員を務めた三人、藤沢親雄、古垣鉄郎、土田金雄です。この他、衛生保健分野での活動を担った保健部の職員として、日本の内務省で防疫官を務めた北野豊次郎、草間弘司、加藤源三の三人がいた他、1年間以内ではあるものの、桝谷秀夫が経済財政部に勤めていました。1926年には国際連盟事務局の東京支局が開設されており、青木節一がその支局長を務めています。

 これらの国際連盟事務局員に共通する特徴として、その多くが若い職員だったということが挙げられます。先に挙げた職員のうち、原田、藤沢、古垣、桝谷の4名は、いずれも第一次世界大戦中に大学を卒業しており、国際連盟事務局員として採用されるまでの職歴がほとんどないような人物でした。このような若い世代の人物が国際連盟事務局に採用されたのはなぜだったのでしょうか。それを知る手がかりとして、国際連盟創設の際、藤沢親雄が国際連盟事務局に採用されるに至った過程を知らせる文書が、アジ歴資料の中に残っています。

 国際連盟事務局が創設された当初、事務局員の採用は事務総長ドラモンド(Eric Drummond)の裁量によるとされていましたが、実際には事務局の各部長が各国政府に対して自らの担当部署に適任とされる人物を紹介するよう求め、各部長がその紹介に基づいて選んだ人物をドラモンドに推薦するという形で採用が行われていました。これに沿う形で、1919年8月、駐英日本大使館は国際連盟事務局情報部長に就任することになったコメール(Pierre Comert)から情報部員の候補を日本から紹介してほしいとの依頼を受けました(永井駐英代理大使発内田外相宛第三八三号、1919年8月31日、Ref. B04014005000、26~28画像目)。コメールは英語・フランス語のいずれかに精通していることや東洋事情に詳しいことを候補の条件としており、これに対して日本政府は、長年上海で新聞記者として活動し当時上海マーキュリー新聞編集長を務めていた佐原篤介(当時46歳)を候補として紹介しました(【画像①】、【画像②】)。

【画像①】内田外相発山崎上海総領事宛第一四二号、1919年10月20日(「国際連盟事務局関係一件/人事関係 分割1」(Ref. B04014005000、24画像目)。

【画像②】内田外相発山崎上海総領事宛第一四二号、1919年10月20日(「国際連盟事務局関係一件/人事関係 分割1」(Ref. B04014005000、25画像目)。

 しかし、1920年5月、コメールは佐原を情報部員として採用することに難色を示すようになりました。コメールは松井慶四郎駐仏大使に対し、情報部で業務を行うにあたっては職員の個人的な交友関係が肝要であると述べた上で、自身が日本人に接してきた経験に鑑みるに日本人の性格は欧米人の性格と合わないところがあるため、既に豊富な経験がある人物よりは若い人物のほうが欧米人が多い職場に馴染みやすく能力を発揮しやすいのではないか、との見解を示しました。これを受け、松井は日本外務省に対して佐原に替わる候補者を探すべきと提案するとともに、満鉄調査部に勤務していた藤沢(当時27歳)が英語・フランス語や他のヨーロッパ言語にも精通しておりコメールの要望に沿った候補者になるのではないかと提案しました(【画像③】~【画像⑥】)。

【画像③】松井駐仏大使発内田外相宛第九一二号、1920年5月29日(「国際連盟事務局関係一件/人事関係 分割1」(Ref. B04014005000、55画像目)。

【画像④】松井駐仏大使発内田外相宛第九一二号、1920年5月29日(「国際連盟事務局関係一件/人事関係 分割1」(Ref. B04014005000、56画像目)。

【画像⑤】松井駐仏大使発内田外相宛第九一二号、1920年5月29日(「国際連盟事務局関係一件/人事関係 分割1」(Ref. B04014005000、60画像目)。

【画像⑥】松井駐仏大使発内田外相宛第九一二号、1920年5月29日(「国際連盟事務局関係一件/人事関係 分割1」(Ref. B04014005000、61画像目)。

 この松井の提案に対し、内田康哉外務大臣は外国語の素養などから考えて藤沢が適任であると同意し(内田外相発松井駐仏大使宛第四七三号、1920年6月7日、Ref. B04014005000、64画像目)、最終的に藤沢が1920年10月から情報部員として採用されることになりました。

 近年の研究では、国際連盟事務局に採用された日本人職員は、国際連盟の活動に関する情報を日本向けに発信する業務や、日本や東アジアに関する情報を国際連盟事務局に伝える業務の他、担当部署の垣根を超えた活動を行っていたということが明らかになっています。国際連盟において日本が常任理事国の一つとして名誉ある地位にあった背景には、事務次長として名を残した新渡戸や杉村だけでなく、若くしてジュネーブに渡り国際機関を支えた青年たちの貢献がありました。国際連盟創設から100年を経た現在、このことを改めて記憶にとどめるべきではないでしょうか。

【参考文献】
篠原初枝『国際連盟』(中公新書、2010年)
番定賢治「国際連盟事務局における日本人事務局員 ―国際機構の「グローバル化」への模索―」(『国際政治』第198号、2020年、111-126頁)

<アジア歴史資料センター調査員 番定賢治>