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連合艦隊旗艦「三笠」 ~沈没とその後~

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日露戦争と戦艦「三笠」

日露戦争は、明治37年(1904年)2月6日に開始され、明治38年(1905年)9月5日の日露講和条約(ポーツマス条約)によって終結しました。この戦争の中で行われた戦闘にはいくつか有名なものがありますが、その中でも、明治38年5月27日から28日にかけて戦われた日本海海戦は、特によく知られているのではないでしょうか。日本海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍のバルチック艦隊との間で繰り広げられたこの戦闘は、日本側の勝利に終わり、日露戦争のその後の展開に決定的な意味を持つこととなりました。

  • (1) 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦「三笠」

    (1) 日本海海戦で後部マストを破損した戦艦「三笠」

  • (2) 黄海海戦で破損した戦艦「三笠」の後部砲塔

    (2) 黄海海戦で破損した戦艦「三笠」の後部砲塔

  • (3) 記念艦「三笠」

    (3) 記念艦「三笠」

その日本海海戦で日本海軍連合艦隊の旗艦をつとめていたのが三笠という戦艦です。三笠には連合艦隊司令長官の東郷平八郎が乗り、戦闘の指揮をとっていました。「皇国の興廃この一戦にあり」を示すZ旗(ぜっとき)が掲げられたのも、「丁字戦法」(「T字戦法」「トーゴー・ターン」とも呼ばれます)の指示が発せられたのも、この戦艦三笠です (1) (2)。こうしたことから、三笠は日本の歴史の中でも最もよく知られた戦艦の一つと言えるでしょう。そして何よりも、現在も記念艦として横須賀市の三笠記念公園に保存されているため、100年以上も前の戦艦であるにもかかわらず、私達がその姿を見ることができるということも、三笠の名を知らしめている大きな要素でしょう (3)

しかし、実は、戦艦三笠の歴史は、かつての戦争での活躍から、現在の記念保存された姿へと、順調につづられていったわけではありませんでした。三笠に一体何が起こったのか、アジ歴の資料でたどってみましょう。

三笠の爆発・沈没

  • (4) 軍艦三笠遭難ノ件

    (4) 軍艦三笠遭難ノ件

日本海海戦から3ヶ月あまりが経った明治38年(1905年)9月11日、日露戦争の終結によって佐世保港に帰還していた三笠で大惨事が起こりました。後部弾薬庫が大きな爆発を起こして艦は炎上、そのまま沈没してしまったのです。多数の死傷者も出ました。弾薬庫の爆発ということ自体が、日本海軍始まって以来のことだったようですが、何よりも、日露戦争で活躍した連合艦隊旗艦が沈没して失われた、という出来事自体が、多くの人々に大きな衝撃を与えたことでしょう。各国から見舞いの電報が寄せられていることからも、この事故が国内のみならず国外にも影響を与えたことがわかります。(レファレンスコード:C09020074100 三笠遭難 自38年至40年(3))

(4) は、事故の翌日の9月12日に、大本営海軍幕僚が事故の被害状況についてまとめた文書です。これによれば、9月11日午前0時20分に三笠で火災が発生、佐世保港の海上及び陸上から防火隊が集まって消火活動を行ったが火元がわからず、同午前1時37分に後部弾薬庫の一部が爆発して艦体の左側に穴があき、ここから激しい浸水が起こって2時30分には三笠は海底に沈んだ、というのが事故の概要です。火災の原因については、三笠の艦体を引き上げて調査を行わないとわからないだろうと記されています。また、左側の表を見ると、死傷者については、三笠だけでも、死亡が2名、生死不明が230名、重傷が4名、軽傷が3名、また、怪我の程度が不明となっているのが199名です。これに、敷島、朝日、冨士など、他の艦船の乗員や、佐世保港の要員を加えると、全死傷者数はこの時点で599名となっており、かなりの被害であったことがわかります。

事故の原因は

  • (5) 三笠沈没事件査問記録

    (5) 三笠沈没事件査問記録

事故の直後、「三笠変災査問委員会」が組織され、事故の原因の調査に踏み出しました。この委員会は、関係者からの聞き込みを行って証言を集め、調査を進めていたようです。アジ歴では、委員会と関係者との間でやり取りされた文書を見ることができます。 (5) はその中の1つで、委員長の海軍中将三須宗太郎が、連合艦隊参謀の秋山真之(日露戦争での活躍が有名です)に事故原因に関する問い合わせを行った際に、秋山自らが返答を行った文書です(9月22日)。原因が「号火」(信号用の火)のために用意されていた火薬であると見られていたのか、三須委員長はこの火薬についての詳細を秋山に尋ね、これに対して秋山は、この火薬はそもそも密封した瓶詰めのもので簡単に火がつくことはない、という内容の返答を行っています。

三笠の引き揚げには非常に長い時間がかけられ、この作業が終了したのは翌年の秋でした。また、査問委員会の調査の結果、火災の原因は火薬の変質による発火であるとの結論が出されていますが、実は、これについては今日においても異なる見方があります。こうした経緯も資料で確認することができます。(レファレンスコード:C09020075100 三笠遭難 自38年至40年(13))

三笠保存運動

  • (6) 三重県度会郡大湊町長の陳情書

    (6) 三重県度会郡大湊町長の陳情書

  • (7) 三笠保存会会長の請願書

    (7) 三笠保存会会長の請願書

引き揚げられたあと、整備を施されふたたび現役に戻った三笠は、第一次世界大戦にも参加しますが、その後、大正11年(1922年)2月6日のワシントン軍縮条約によって、廃艦が決定されることになります。また、大正12年9月1日の関東大震災によって大きな被害を受けたこともあり、この直後に海軍から除籍されました。

三笠は解体されることになっていましたが、この時、各地からその保存を求める声が起こりました。例えば (6) は、三重県度会郡大湊町長が外務大臣に出した陳情書の一部です。ここでは、日本海海戦で活躍した歴史的記念物として三笠は永遠に忘れることはできない、と述べられています。三笠保存運動は盛んなものとなり、「三笠保存会」が組織されました。 (7) は、保存会の会長が内閣総理大臣に出した請願書の一部で、各国政府と交渉して三笠を何らかのかたちで保存できるようにして欲しいと訴えられています。つまり、軍縮条約による制約を何とかしてかわし、三笠を解体せずに保存して欲しいという要望が、日本政府に寄せられていたわけです。

記念艦へ

  • (8) 三笠保存工事の見取り図

    (8) 三笠保存工事の見取り図

  • (9) 旧軍艦三笠保存委託に関する件

    (9) 旧軍艦三笠保存委託に関する件

この結果、大正14年(1925年)1月には、実際に戦闘の役には立たない状態にすることを条件として、三笠の記念艦としての保存が決定されました。このために、兵器を使用できないようにするなどの整備がなされ、艦体を横須賀の岸壁に固定するための大規模な工事が行われました。 (8) は、三笠を固定する工事の見取り図です。保存工事は大正15年(1926年)11月11日に完了し、翌日に保存式が執り行われました。

(9) の文書は、保存式の日(11月12日)に記されたもので、ここでは、三笠がそれまで工事・管理を行っていた横須賀の鎮守府の手を離れ、その保存・管理が「三笠保存会」に委託されることが述べられています。

記念艦となった戦艦三笠は、太平洋戦争後には「三笠保存会」の解散もあり、その保存が危ぶまれたこともありました。しかし、この時ふたたび復元・保存運動が起こり、保存会もやがて再結成されました。こうした波乱の歴史を経て、三笠は今に至るまでその姿をとどめているのです。