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板垣退助暗殺未遂事件 ~「板垣死すとも自由は死せず」~

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「板垣死すとも自由は死せず」!?

  • (1) 板垣退助

    (1) 板垣退助

「板垣死すとも自由は死せず」、この言葉は自由民権運動を推し進め、後に大隈重信とともに日本最初の政党内閣を組織した板垣退助の名言として知られています(1)

明治15年(1882年)4月に板垣退助は、岐阜県で刺客によって襲撃され、この言葉を発したと言われています。この言葉は、自由民権運動を象徴するものとして瞬く間に有名となり、現在にいたるまで広く我々が知るところとなっております。この言葉があまりにも有名になりすぎたため、板垣はこの時に暗殺されたと誤解している人も多いのではないでしょうか。しかし、実際には彼は一命を取りとめ、この後も政治家として精力的に活動を行いました。

ところが、時が経つにつれ、この有名な言葉もはたして本当に板垣自身が言ったのだろうかという疑問も出されるようになりました。たしかに、刃物で刺された男がとっさに叫んだ言葉とは考えにくい、というのも一理あります。これを確かめる方法は無いのでしょうか?

この事件と発言について、実は意外な人物が公文書としてまとめており、それをアジ歴で見ることができます。

板垣退助暗殺未遂事件

  • (2) 板垣君遭難の図

    (2) 板垣君遭難の図

  • (3) 板垣退助負傷せし現場之略図

    (3) 板垣退助負傷せし現場之略図

まず、この暗殺未遂事件の概略について簡単に記しておきましょう。明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件が起きました(2)。当時、自由党の総理であった板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行いました。

その後、午後6時頃、会場から宿舎に向かおうとしたところ、入口を出た瞬間に短刀を持った刺客に襲われ格闘となり、板垣は胸や手などを負傷しました。(3)はその時の現場の見取り図です。負傷した直後に、板垣は「板垣死すとも自由は死せず」と発言したと言われています。

「吾死スルトモ自由ハ死セン」

  • (4) 探偵上申書

    (4) 探偵上申書

  • (5) 供覧文書

    (5) 供覧文書

この事件と板垣の発言については、当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されています。 当時の政府当局にとって、自由党の活動は好ましいものでなく、その周辺には絶えず警察官が監視を行っていました。岡本の報告書は、この時の板垣の遊説にあたっての動向をまとめたものです。

これによると、板垣が先に会場を退出し、ちょうど玄関にたどり着いた頃、玄関前が騒然となり、さらに何かが地上に倒れる音が聞こえてきました。岡本は何事かと思い現場に駆けつけたところ、板垣が起き上がり出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」との発言をしたと報告をしています(4)。 岡本の報告書は、『公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年』という簿冊の中に綴じられています。この簿冊の中には、事件に関連する多くの資料が綴じられています。

岐阜県の警部長川俣正名が岐阜県令小崎利準宛に4月9日に提出した供覧文書に、3月28日から4月8日までの板垣の動向が記されています。その4月8日の記事に、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されています(5)。 これらの言葉が人々に語り継がれる中で、次第に「板垣死すとも自由は死せず」という、我々がよく知っている表現となって定着していったのでしょう。

事件のその後

  • (6) 訊問調書

    (6) 訊問調書

  • (7) 診断書

    (7) 診断書

板垣を暗殺しようとした刺客は、愛知県士族小学校教員の相原尚褧(しょうけい)という人物でした。この簿冊の中には、事件の直後に岐阜警察で相原に対して行われた尋問の記録も含まれています。その記録の中で、相原が犯行に至るまでの経緯が詳細に述べられ、事件の際に短刀を携え板垣の胸部を目標とし、「将来ノ賊」と呼びかけ、兇行に及んだことが記されています(6)

また、この簿冊の中には、当時は医師であり、そして後に政治家となって台湾総督府民政局長・満鉄総裁・東京市長・外務大臣等を務めた後藤新平が板垣を診察した書類も見ることができます(7)

生き延びた板垣は、その後明治29年(1896年)に第二次伊藤博文内閣の内務大臣となり、明治31年(1898年)6月に、第一次大隈重信内閣の内務大臣となりましたが、同年10月、内紛によって内閣は瓦解し、以後政界を去ります。晩年は社会事業家としての道を歩み、大正8年(1919年)7月16日、82歳でその生涯を終えました。

<参考文献>
  • 小玉正任『公文書が語る歴史秘話』毎日新聞社、1992年