4.戦線の後退とアジア

1944年7月、絶対国防圏として設定したサイパンが陥落し、日本本土への爆撃が本格化します。ビルマから英領インドへの侵攻を試みたインパール作戦(1944年3~7月)に敗北し、1944年10月にはアメリカ軍がフィリピンに上陸、1945年2~3月には首都マニラで激しい市街戦が行われました。



【資料40】インパール作戦の報道

「写真週報 317号」(Ref. A06031091200)3画像目


1944年4月、ビルマから英領インドの都市・インパールへ侵攻する作戦(インパール作戦)が開始され、ボース指揮下のインド国民軍も参加しました。画像のように『写真週報』でも複数の記事が掲載されましたが、日本軍が大敗しました。



【資料41】フィリピンの戦いの報道

「写真週報 351号」(Ref. A06031094500)3画像目


1944年10月、アメリカ軍はフィリピン奪還を目指してレイテ島に上陸、日米両軍の激戦となりました。それ以降、当センターで公開している『写真週報』の最後の号(352号、1944年12月20日)まで、レイテ島の戦いに関する情報がたびたび掲載されています。



【資料42】仏印武力処理

「昭和20年3月 機密戦争日誌(1)」(Ref. C12120326800)20~21画像目


日本は太平洋戦争中、仏印に対しては内政に干渉しない「静謐(せいひつ)保持」を方針としていました。しかし、フランスの親独政権の崩壊、フィリピンの戦いの敗北を受けて、日本軍は1945年3月10日から仏印軍の武装解除作戦を実施しました。資料は「機密戦争日誌」の同日の条(一部)。

「機密戦争日誌」は、大本営陸軍部・戦争指導班の班員(参謀)が1940年6月から1945年8月まで書き継いでいた日誌。



【資料43】タイ国をめぐる問題

「「タイ」国問題」(Ref. B02032441400)31~34画像目


陸軍中央ではタイ国に対しても「武力処理」を検討しますが、在タイ国山本大使や、外相兼大東亜相の東郷茂徳はこれに反対しました。画像は、7月17日の最高戦争指導会議における東郷大臣の発言要領案。ドイツ降伏やラングーン陥落がタイ国民に衝撃を与え、対日協力の消極化が進んでいること、しかし大筋では日本側の要請には応えていること、武力処理は大東亜の結集を破るもので、タイ国民の総反抗を招く公算が大きいことなどが書かれています。



【資料44】終戦の詔書

「御署名原本・昭和二十年・詔書八月十四日・大東亜戦争終結ニ関スル詔書」(Ref. A04017702300)1~4画像目


1945年8月、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦を経て、日本は降伏を決定。14日連合国に通知し、15日には昭和天皇みずから上記の詔書を朗読した音声がラジオ放送され、国民に終戦が伝えられました。