公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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その他
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援蒋ルート(えんしょうるーと)
  日中戦争から第二次世界大戦中にかけて、アメリカ・イギリス・ソ連などが重慶国民政府への支援物資を送るために使用された輸送路です。すなわち「援蒋」とは、その字の通り、蒋介石政権を援助するという意味です。仏領インドシナから粤漢(えつかん)鉄道に至る仏印ルート、ビルマのラングーンから中国の昆明に至るビルマルート、ソ連領のアルマータから中国の西安に至る西北ルートなどがありました。
オーラル・ステートメント
  外交交渉において口頭で述べられた声明、あるいはそれを文書化したものです。日米交渉では、昭和16年(1941年)5月に松岡外務大臣が野村駐アメリカ大使に宛てて送った「松岡大臣オーラル・ステートメント」などがあります。
開戦に関する条約(かいせんにかんするじょうやく)
  明治40年(1907年)のハーグ会議で採択された条約です。その第一条によると、条約の締結国は、戦争を行なう理由を明記した「開戦宣言」を含む最後通牒を、戦争の相手国に対して明瞭かつ事前に通知しない限り、お互いに戦争を始めてはならないという規定になっています。日本は、明治40年(1907年)に署名し、明治44年(1911年)に批准しました。
甲案・乙案(こうあん・おつあん)
  日本政府が、昭和16年(1941年)11月5日の第7回御前会議で決定した、対アメリカ交渉における2つの合意案のことです。「甲案」とは、主として中国からの撤兵問題について、中国北部やモンゴルなどの地域における日本軍の駐留の期限を明示することで、日米間の合意を得ようとした提案でした。「乙案」とは、アメリカが日本に石油を供給するという約束と引きかえに、南部仏領インドシナの日本軍を北部仏領インドシナに引き揚げるという提案でした。
国際連盟(こくさいれんめい)
  大正8年(1919年)に設立された、国際平和の維持を目的とした組織です。第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)、国際連合の設立により解散しました。日本は国際連盟の常任理事国でしたが、満州国をめぐる問題がきっかけで、昭和8年(1933年)に国際連盟から脱退しました。
国家総動員法(こっかそうどういんほう)
  昭和13年(1938年)4月に制定された法律です。この法律によって、政府の裁量で経済・国民生活・労務・言論・科学研究などへの広範な統制をすることが可能になりました。
詔書(しょうしょ)
  天皇が皇室や国の大事に関して表明した意思を書き記したものの総称で、宣戦などに関する詔書もこの一種です。 詔書には、御名(ぎょめい、天皇の名前)と御璽(ぎょじ、天皇の印鑑)が付され、内閣総理大臣の年月日記入、国務大臣の副署を行ってから公布されました。
枢軸国(すうじくこく)
  第二次世界大戦において連合国と戦った、日本・ドイツ・イタリアとその同盟国を指します。ムッソリーニ伊内閣総理大臣が、ドイツとイタリアの関係を「枢軸」にたとえたことが、この用語の起源とされています。
宣戦布告(せんせんふこく)
  ある国が、他国に対して、その国との戦争を開始するという意志を宣言することです。明治40年(1907年)のハーグ会議で採択された「開戦に関する条約」は、「締約国は理由を附したる開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且事前の通告なくして其の相互間に戦争を開始すへからさることを承認す」と規定しています。
総力戦(そうりょくせん)
  総力戦は、『広辞苑』によれば、「武力だけではなく国家各分野総体の力を動員する戦争」を意味します。ちなみに、昭和17年(1942年)に出版された『大東亜戦争事典』の「総力戦」という項目でも、「武力戦、経済戦、宣伝戦、文化戦、思想戦、生活戦の総てを含むもので、これこそ近代戦争の特質」であると定義されています。
大西洋会談(たいせいようかいだん)
  1941年8月12日から14日にかけて、大西洋上で行なわれたルーズヴェルト米大統領とチャーチル英総理大臣による首脳会談です。この会議を後、8月14日に両首脳は共同で8項目の戦後世界構想(大西洋憲章)を発表しました。
大西洋憲章(たいせいようけんしょう)
  1941年8月14日、大西洋会談を終えたルーズヴェルト米大統領とチャーチル英総理大臣が共同で発表した戦後世界構想です。(1)領土不拡大、(2)国境不変更、(3)民族自決、(4)通商の自由、(5)国際経済協力、(6)欠乏と恐怖からの自由、(7)公海の自由航行、(8)一般的安全保障体制の確立、の8項目からなります。
大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)
  大東亜共栄圏という言葉が公の場ではじめて用いられたのは、昭和15年(1940年)8月の松岡外務大臣の談話においてです。なお、昭和17年(1942年)に出版された『大東亜戦争事典』の「大東亜共栄圏」という項目には、「日満支を中心とし佛印、泰、マレー半島、ビルマ、東印度諸島はじめ西南太平洋諸島ヒリツピン、さらに印度、濠州を加へたる廣大なる地域」(原文ママ)と記されています。上記の「佛印」はヴェトナム、「泰」はタイ王国、「ビルマ」はミャンマー、「東印度諸島」はインドネシア、東ティモール、マレーシアを含めた地域、「濠州」はオーストラリアに相当します。
対日経済制裁(たいにちけいざいせいさい)
  1940年から1941年にかけて、アメリカが行なった、日米間の貿易活動を制限あるいは禁止する措置のことです。1940年7月の対日輸出制限措置(屑鉄や航空機用の燃料の日本向け輸出の制限)、1941年7月の対日資産凍結などが該当します。
対日資産凍結(たいにちしさんとうけつ)
  1941年7月25日(アメリカ時間)に、ルーズヴェルト米大統領は、対日経済制裁の一環として、「在米日本資産の凍結令」を公布しました。その結果、当時のアメリカにあった日本人・日本企業の資産はアメリカ政府の管理下に置かれました。
独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく)
  昭和14年(1939年)にドイツとソ連が締結した条約です。この条約は、(1)相互の不可侵、(2)一方が第三国と交戦した場合、他方はその第三国を援助しない、(3)情報の交換、(4)相互に相手国を標的とする同盟への参加の禁止、(5)両国相互間に紛争や衝突が起った場合の友好的解決、(6)10年間の有効期間、(7)ベルリンでの批准交換、を規定しています。
日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)
  正式名は「大日本帝国及ソヴィエト社会主義共和国連邦間中立条約」といいます。昭和16年(1941年)に日本とソ連が締結した条約です。この条約では、締約国の一方が第三国から攻撃された場合は、もう一方の締約国は「該紛争の全期間中中立を守るべし」と規定されています。
日独防共協定(にちどくぼうきょうきょうてい)
  正式名は「共産インターナショナルに対する協定」といいます。昭和11年(1936年)に日本とドイツが締結した協定です。その第一条では、共産インターナショナル(コミンテルン)という共産主義者の組織に対抗するため、日本とドイツが協力して「必要なる防衛措置」を行なうことを規定しています。この協定に署名したのは、日本の武者小路公共駐ドイツ大使、ドイツのリッベントロップ外務大臣です。
日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい)
  正式名は「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」といいます。昭和15年(1940年)に日本、ドイツ、イタリアの三国が締結した軍事同盟の条約です。条約に署名したのは、日本の来栖駐ドイツ大使、ドイツのリッベントロップ外務大臣、イタリアのチアノ外務大臣です。当時の日本は昭和8年(1933年)の国際連盟脱退以降、国際社会で孤立していました。そこで自国の立場を強化するため、ドイツやイタリアに接近し、両国との軍事同盟を結びました。
日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)
  日本とアメリカは、明治27年(1894年)にこの条約に調印しました。その結果、日本はアメリカの治外法権を撤廃し、関税自主権を回復しました。条約は、昭和15年(1940年)に失効しました。
ハル・ノート(はる・のーと)
  1941年11月26日(アメリカ時間)に、ハル米国務長官が野村・来栖両大使に対して手交した文書です。その内容は、日本・アメリカ・イギリス・ソ連・オランダ・重慶国民政府・オランダ・タイ国間の相互不可侵条約締結、「支那及全仏印」よりの日本軍の全面撤兵、日米両国が中国における重慶国民政府以外の政権を支持しないという確約、最恵国待遇を基礎とする日米間の通商条約締結など、日米関係を改善するためにアメリカが必要と見なした事項を列挙したものでした。
連合国(れんごうこく)
  第二次世界大戦中、1942年1月にワシントンで行なわれた連合国共同宣言に参加した国々です。参加国は、アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国(重慶国民政府)などの26カ国です。
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