公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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人物(元首・閣僚)
昭和天皇
明治34年(1901年)〜昭和64年(1989年)
  昭和天皇の名は、裕仁(ひろひと)です。大正天皇の第一皇子である昭和天皇は、大正10年(1921年)に摂政となりました。昭和元年(1926年)に大正天皇の崩御により皇位を継承して、昭和3年(1928年)に即位しました。昭和21年(1946年)2月に宮内庁御用掛に就任した寺崎英成が、同年に昭和天皇に取材して作成した『昭和天皇独白録』(平成3年(1991年)刊行)には、

「日米交渉が纏り得る機会は前后三回あつた。 第一回は十六年四月、野村大使の案に基いて米国から申出て来たときである、先方の条件は日本に採り大変好都合のもので陸軍も海軍も近衛も賛成であつたが、松岡只一人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた。第二回は近衛ルーズベルト会談で之で何んとか話合がつくかと思つたが、之は先方から断つて来た、第三回は第一回に比べると日本にとり余程不利な案だが、この案を日本から提出したのに対し例の十一月二十六日の「ハル」の最后通牒が来たので遂に交渉の望を絶つて終つた」

と記されています。
 ●閣僚
及川古志郎(おいかわ こしろう)
明治16年(1883年)〜昭和33年(1958年)
  政治家・海軍軍人。日米交渉開始当時の海軍大臣。昭和15年(1940年)9月に吉田善吾の後任として海軍大臣に就任し、昭和16年(1941年)10月の近衛内閣の総辞職の際に辞任しました。
近衛文麿(このえ ふみまろ)
明治24年(1891年)〜昭和20年(1945年)
  政治家。日米交渉開始当時の内閣総理大臣。昭和12年(1937年)に総理大臣として第一次近衛内閣を組閣しました。昭和15年(1940年)7月に、再び総理大臣として第二次近衛内閣を組閣し、昭和16年(1941年)7月にも第三次近衛内閣を組閣しますが、同年10月の総辞職により辞任しました。
嶋田繁太郎(しまだ しげたろう)
明治16年(1883年)〜昭和51年(1976年)
  政治家・海軍軍人。日米開戦当時の海軍大臣。昭和16年(1941年)10月に東条内閣の海軍大臣に就任しました。
鈴木貞一(すずき ていいち)
明治21年(1888年)〜平成元年(1989年)
  陸軍軍人・政治家。大正6年(1917年)に陸軍士官学校を卒業し、翌年から参謀本部に勤務しました。大正12年(1923年)から15年(1926年)まで北京に駐在し、2年の参謀本部勤務を経て、昭和4年(1929年)から翌年末まで駐中国公使館付武官補佐官として北京に勤務しました。昭和16年(1941年)4月に予備役となると同時に、第二次近衛文麿内閣の国務大臣(企画院総裁)に就任しました。
東郷茂徳(とうごう しげのり)
明治15年(1882年)〜昭和25年(1950年)
  政治家・外交官。日米開戦当時の外務大臣。昭和13年(1938年)から昭和15年(1940年)にかけて、駐ソ連大使として日ソ中立条約の成立に携わりました。昭和16年(1941年)10月に東条内閣の外務大臣兼拓務大臣(拓務大臣は同年12月に伊野碩哉に替わります)に就任し、日米交渉における甲案・乙案の作成に携わりました。
東条英機(とうじょう ひでき)
明治17年(1884年)〜昭和23年(1948年)
  政治家・陸軍軍人。日米開戦当時の内閣総理大臣。昭和15年7月に第二次近衛内閣の陸軍大臣に就任し、第三次近衛内閣にも留任しました。昭和16年(1941年)10月に総理大臣として東条内閣を組閣し、陸軍大臣と内務大臣を兼任しました。
豊田貞次郎(とよだ ていじろう)
明治18年(1885年)〜昭和36年(1961年)
  政治家・海軍軍人。第三次近衛内閣当時の外務大臣。昭和16年(1941年)7月に第三次近衛内閣の外務大臣に就任しますが、同年10月の近衛内閣の総辞職の際に辞任しました。
松岡洋右(まつおか ようすけ)
明治13年(1880年)〜昭和21年(1946年)
  政治家・外交官。日米交渉開始当時の外務大臣。昭和15年(1940年)7月に第二次近衛内閣の外務大臣に就任し、日独伊三国軍事同盟や、日ソ中立条約の成立につとめました。昭和16年(1941年)7月の近衛内閣の総辞職の際に辞任しました。
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