公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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ダイジェスト〜昭和16年1941年〜
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麿



2月11日(火)   (米時間)野村大使、ワシントンに到着  野村吉三郎が、駐アメリカ大使としてワシントンに着任します。
3月12日(水)   松岡外務大臣、ソ連経由でドイツ、イタリア訪問  松岡洋右外務大臣が、ソ連を経由して、ドイツとイタリアを訪問します。当初の日独伊三国同盟にソ連を加えるという意図はかないませんでしたが、ソ連との中立条約締結を果たします。
4月16日(水)   (米時間)野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは内面工作を経て日本側より提出された「日米諒解案」を受け、これをふまえた日本政府の正式な訓令を要請  野村吉三郎駐アメリカ大使はハル米国務長官と会談します。それまでの日米間での非公式の遣り取りを通じてつくりあげられた「日米諒解案」を野村から受け取ったハルは、公式な交渉の開始に向けた日本政府の手続きを求めます。
5月12日(月) 11:00- (米時間 11日 22:00-)野村大使・ハル米国務長官会談、野村は「日米諒解案」に対する日本政府修正案を手交  野村吉三郎駐アメリカ大使はハル米国務長官と会談します。「日米諒解案」は松岡洋右外務大臣の意向も含められて大幅修正され、野村の手によってハルに渡されました。
6月11日(水)   (時刻不明)第29回大本営政府連絡会議(議題:日蘭交渉)  第29回大本営政府連絡会議が開かれます。アメリカによる物資の輸出禁止措置を受け、資源の豊富な蘭領東インドを確保しようと画策してきた日本の意図はかないませんでした。そこで、蘭領東インドからの日本代表団の引き揚げが決定されます。
6月22日(日)   ドイツ・ソ連戦開始  ドイツはソ連に対する侵攻を開始します。同盟国であるドイツが、不可侵条約を破ってソ連を攻撃したことは、日ソ中立条約を結んでいる日本にとってその立場を複雑なものとする出来事でした。
6月22日(日) 1:00- (米時間 21日 12:00-)野村大使・ハル米国務長官会談、ハルは、オーラル・ステートメントを手交、また、5月31日(日本時間6月1日手交)の日本案へのアメリカ政府訂正案を提示  野村吉三郎駐アメリカ大使はハル米国務長官と会談します。「日米諒解案」を起点として日米両国は双方からその内容の修正を提案してきましたが、この日、ハルは5月31日に日本より出された案に対するアメリカ政府修正案を提示しました。この内容を知った松岡洋右外務大臣は強く反発し、交渉が揺らぐことになります。
7月2日(水) 10:00-12:00 第5回御前会議(議題:帝国国策要綱、南方施策、対英米政策)  第5回御前会議が開かれます。6月25日・28日の大本営政府連絡会議で決定された南方施策が改めて検討され、南部仏領インドシナ進駐の具体策はここで国策として決定されました。




7月16日(水)   第二次近衛文麿内閣総辞職(翌日、第三次近衛内閣発足、外務大臣に豊田貞次郎)  第二次近衛文麿内閣は総辞職します。この翌日には第三次近衛内閣が発足しますが、新内閣の成立の中心的な意義は、日米交渉において強硬な姿勢を示していた松岡洋右外務大臣が更迭され、後任に豊田貞次郎が就いたことでした。
7月24日(木) 4:00- (米時間 23日 15:00-)野村大使、ウェルズ米国務長官代理会談、野村は仏領インドシナ進駐に関して説明  野村吉三郎駐アメリカ大使は、療養中のハル米国務長官に代わってウェルズ米国務長官代理と会談します。この日野村は、7月28日に実行されることになる南部仏領インドシナ進駐は日本として止むを得ない措置である旨を説明します。これに対しウェルズは日米関係の悪化を警告しました。
8月1日(金)   アメリカ、全侵略国への石油の輸出を全面禁止(発動燃料、航空機用潤滑油も含む)  アメリカは、日本を含む「侵略国」への石油の禁輸を発表します。これは、7月24日にウェルズ米国務長官代理野村吉三郎駐アメリカ大使に警告した通りの動きでした。これによって日本は資源の確保に苦しんでいくことになります。
8月7日(木)   (時刻不明)豊田外務大臣、野村大使に対し、近衛・ルーズヴェルト会談提議を訓令  豊田貞次郎外務大臣は、野村吉三郎駐アメリカ大使に対し、近衛文麿内閣総理大臣とルーズヴェルト米大統領との会談をアメリカ側に提案するよう求めます。日米関係の悪化を受け、豊田大臣は両国首脳の直接会談が事態打開の鍵になると考え始めていました。
8月14日(木)   ルーズヴェルト米大統領・チャーチル英首相が大西洋憲章発表  フランクリン・ルーズヴェルト米大統領とチャーチル英首相はニューファウンドランド沖の大西洋上で会談を行います。ここで両者は、進行中の世界大戦が終結した後の世界構想について話し合い、会談終了後の14日に、それらをまとめた「大西洋憲章」を発表しました。
8月17日(日)   (米時間)野村大使・ルーズヴェルト米大統領第4回会談、ルーズヴェルトは7月に中断した非公式会談を再開するためには、日本側の基本的態度及び政策の明確化が先決と回答  野村吉三郎駐アメリカ大使はフランクリン・ルーズヴェルト米大統領と第4回目の会談を行ないます。ルーズヴェルトは先の日本側の日米首脳会談提案に対し、日本の武力進出に対する警告を発しつつ、首脳会談実現の前提として日本が態度を改めることが肝要であることを指摘します。
8月28日(木) 1:00- (米時間 27日 12:00-)野村大使・ハル米国務長官会談、野村は「近衛メッセージ」の写しを手交  野村吉三郎駐アメリカ大使はハル米国務長官と会談します。近衛文麿内閣総理大臣はフランクリン・ルーズヴェルト米大統領に対し、日米首脳会談の重要性を強調しこれを申し入れるべく「近衛メッセージ」を用意しており、野村はこれをルーズヴェルトに手交する任を負います。これに先がけ、この会談ではメッセージの写しがハルに手渡されました。
9月6日(土) 10:00-12:00 第6回御前会議(決定:帝国国策遂行要領、対米英蘭戦準備を概ね10月下旬を目途に完整)  第6回御前会議が開かれました。ここにきていよいよイギリス・アメリカとの開戦が不可避であるとの認識が強まり、10月末を目処として戦争の準備を進めることが決定されます。戦争準備と並行してアメリカとの交渉は続け、これが日本の求めるかたちで決着しない場合には直ちに開戦に踏み切る、という方針がここで確立されました。
10月12日(日)   (時刻不明)近衛内閣総理大臣、豊田外務大臣・東条陸軍大臣・及川海軍大臣・鈴木企画院総裁と戦争の是非について会談、陸軍は中国からの撤兵に反対  近衛文麿内閣総理大臣は、豊田貞次郎外務大臣、東条英機陸軍大臣、及川古志郎海軍大臣、鈴木貞一企画院総裁を私邸に集め、おもにアメリカ・イギリスと戦争をすべきか否かについての話し合いを持ちます。このとき、近衛や豊田が中国からの撤兵を含め諸々の問題の解決の可能性を指摘したのに対し、東条は強い反対姿勢を示しました。






10月18日(土)   東条英機内閣成立  第三次近衛文麿内閣が総辞職し、東条英機内閣が成立します。これによって東条は、内閣総理大臣・陸軍大臣・内務大臣を兼任し政治・軍事・警察において主導する立場となりました。また、陸軍大臣としてアメリカ・イギリスとの開戦を主張してきた東条が政権を握ったことは、対外的には日本による開戦の意思の明確化と捉えられることにもなりました。
11月5日(水) 10:30-15:15 第7回御前会議(議題:対米交渉要綱(乙案・甲案)、帝国国策遂行要領)  第7回御前会議が開かれます。ここでは、アメリカに対する日本の提案として、具体的な点について異なる2種類の案が決定されます。これがいわゆる「甲案」と「乙案」です。これによって、まず「甲案」を提示して交渉を進め、これが受け容れられない場合にはより譲歩の度合いを強めた「乙案」を提示してゆく、という以降の方針が確定します。
11月16日(日) 3:30- (米時間 15日 13:30-)来栖三郎特命大使、ワシントンに到着  来栖三郎特命大使がワシントンに到着し、日米交渉現場に加わります。野村吉三郎駐アメリカ大使は、交渉の難局にあって、以前から協力者を求めていました。これに対し、かつてアメリカにおいて野村と同僚であった経験を持つベテラン外交官の来栖が派遣されました。これは、「甲案」「乙案」決定を経て交渉の最終段階に臨もうという日本政府の姿勢の表れであったとも言えます。
11月17日(月)   東条内閣総理大臣、臨時議会において対米政策について演説  東条英機内閣総理大臣は、臨時議会において演説し、アメリカに対する強硬姿勢を改めて表明します。
11月26日(水)   ハワイ作戦機動部隊ヒトカップ湾を出撃  ハワイ作戦部隊が択捉島ヒトカップ湾(当時「単冠湾」とも表記)を出撃しました。日米両国間の緊張状態が緩和に向かう兆しを見せない一方で、軍部は開戦準備を進めていましたが、この日、ついに真珠湾攻撃に向かう海軍の部隊が出発しました。しかし、最終段階での事態打開の可能性も考慮されており、その時には引き返すようにと申し渡されていました。
11月27日(木) 6:45-8:45 (米時間 26日 16:45-18:45)野村・来栖両大使、ハル米国務長官と会談、ハルは「乙案」を拒否し所謂「ハル・ノート」を手交  野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使は、ハル米国務長官と会談します。ここでハルは「乙案」の拒否を示す「ハル・ノート」を提示しました。これによって、「乙案」を最終案とする第7回御前会議以来の日本の交渉は破綻したことになります。
12月1日(月) 14:05-16:00 第8回御前会議(議題:対米英蘭開戦決定)  第8回御前会議が開かれます。11月27日の「ハル・ノート」の手交により、日本政府はアメリカとの交渉による事態打開の可能性を断ち切ることとなりました。この御前会議において、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が正式に決定されます。
12月6日(土)   (米時間 午後)野村・来栖両大使、本国に対し、ルーズヴェルト米大統領発天皇宛親電が発電されたことを報告  野村吉三郎駐アメリカ大使来栖三郎特命全権大使はこの日、フランクリン・ルーズヴェルト米大統領より昭和天皇に対する親電(直々の書簡「親書」を電送すること)が発されたことを米国務省の発表で知り、これを本国に伝えます。親電の内容は、開戦が決定的となったこの段階においてもなお平和的解決を天皇に呼びかけるものでしたが、結果としてこれが両国の開戦を食い止めることはありませんでした。
12月8日(月) 4:20 (米時間 7日 14:20)野村・来栖両大使、ハル米国務長官と会談、両大使は日本側最後通牒を手交  野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使はハル米国務長官と会談します。両大使は、交渉を打ち切る日本政府の意図を正式に伝える「対米覚書」を手交しました。これが事実上のアメリカに対する最後通牒であり、これによって両国間の開戦が必至であることが示されました。しかし、この文書が手交された時にはすでに、日本海軍によるハワイ・真珠湾攻撃は始まっていました。
凡例
年表における日付・時刻の特定は、原則として日本時間に統一しています。
資料の上でアメリカ時間のみ判明したものについては、これがワシントンにおける交渉現場での時刻であることから、日本との時差を14時間として計算し、日本時間を割り出しています。 ※ただし、アメリカにおけるサマータイム期間(4月第1日曜日の午前2時から10月最終日曜日の午前2時まで)については時差を13時間として計算しています。
上記のように、判明しているアメリカ時間を日本時間に直している場合には、事項の頭の( )でアメリカ時間(米時間)を補っています。
逆に、日本時間のみ明らかである外国の事項で、特に時差の計算によって現地の時刻を割り出している場合には、事項の頭の( )で現地の時刻を補っています。
資料の上でアメリカ時間における日付のみ判明したものがありますが、これについては厳密に日本時間が割り出せないため、例外的に、事項の頭の( )で「米時間」とだけ補ってアメリカ時間における日付で年表に組み込んでいます。
また、アメリカ時間において午前か午後であるかのみ判明したものについては、本来であればアメリカ時間において午後であれば日本時間では次の日付になることは明らかですが、混乱を避けるため、このようなパターンは上記の場合と同じように、事項の頭の( )で「米時間 午前」「米時間 午後」とだけ補ってアメリカ時間における日付で年表に組み込んでいます。
電報については、発電時刻をとっています。
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