公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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人物(軍部)
 ●陸軍
杉山元(すぎやま はじめ)
明治13年(1880年)〜昭和20年(1945年)
  陸軍軍人。日米交渉当時の陸軍参謀総長。昭和15年(1940年)10月から昭和19年(1944年)2月まで参謀総長を務め、日米交渉を議題とした御前会議や大本営政府連絡会議に出席しました。その当時の大本営政府連絡会議に関する記録のうち、参謀本部が編集した資料が、いわゆる『杉山メモ』です。
澄田賚四郎(すみた らいしろう)
明治23年(1890年)〜昭和54年(1979年)
  陸軍軍人。西原一策に代わって、昭和16年(1941年)に仏領インドシナで仏印国境監視委員長となりました。また西原機関長の座も受け継ぎ(機関名は「澄田機関」に変更)、仏領インドシナ総督府や軍との間での交渉を担い、同年7月28日の日本軍による南部仏領インドシナ進駐の準備を進めました。
寺内寿一(てらうち ひさいち)
明治12年(1879年)〜昭和21年(1946年)
  陸軍軍人。日米開戦当時の南方軍総司令官。昭和14年(1939年)の7月から11月にかけて、ヒトラー独総統の招待に応じて、ドイツおよびイタリアを歴訪しました。昭和16年(1941年)11月に南方軍総司令官に就任し、東南アジアにおける日本陸軍の指揮をとりました。
西原一策(にしはら いっさく)
明治26年(1893年)〜昭和20年(1945年)
  陸軍軍人。陸軍学校の幹事であった昭和15年(1940年)に仏領インドシナに派遣され、援蒋ルートの監視を目的として編成された仏印国境監視委員長に就任しました。同時に「西原機関」の機関長として、仏領インドシナ総督府や軍との間での軍事的な交渉も担うようになりました。同年9月23日の日本軍の北部仏領インドシナ進駐の際には、これに先がけ、当地の全軍の代表として、仏領インドシナ軍との間で「西原・マルタン協定」を締結しました(9月22日)。
 ●海軍
永野修身(ながの おさみ)
明治13年(1880年)〜昭和22年(1947年)
  海軍軍人。日米開戦当時の海軍軍令部総長。昭和12年(1937年)12月、軍事参議官(天皇に直属し、軍事に関する問題を審議する機関の構成員)に就任しました。さらに昭和16年(1941年)4月から昭和19年(1944年)2月にかけて軍令部総長の地位につき、日米交渉を議題とした御前会議や大本営政府連絡会議に出席しました。
山本五十六(やまもと いそろく)
明治17年(1884年)〜昭和18年(1943年)
  海軍軍人。日米交渉当時の連合艦隊司令長官。昭和14年(1939年)8月に連合艦隊司令長官に就任し、昭和16年(1941年)12月にハワイ真珠湾に対する攻撃作戦を指揮しました。昭和18年(1943年)4月に、ソロモン諸島において戦死しました。
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