公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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日本
  アメリカの提唱によって、日本・イギリス・アメリカ・イタリア・フランスが出席し開催されたワシントン会議(大正10年(1921年)11月から翌年2月)は、海軍軍備制限、極東・太平洋問題に関する国際会議であり、第一次世界大戦後の国際秩序を樹立するものでした。この会議では、海軍軍縮案としてアメリカ側から10年間の建艦禁止と米英日の主力艦保有量の比率を5:5:3とすることが提案され、日本の加藤友三郎全権は日本の財政負担と対米協調の観点から原則的に受諾しました。そして、その代わりに太平洋の島々における海軍基地増強禁止を提案し承認されました。また、日英同盟が解消され、代わりに太平洋の現状維持を約した4カ国条約(日・英・米・仏が条約国)が定められました。中国に関しては、特に主権尊重、領土的・行政的・保全、独占権の禁止など門戸開放政策を条文化した9カ国条約(米・英・仏・日・伊・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国が条約国)が成立しました。この会議で締結された広範な諸条約・規定からなる国際秩序体制を「ワシントン体制」と呼びます。

  ワシントン会議後、昭和初期にいたるまで、歴代の内閣は、山東に出兵を行なった田中義一内閣を例外として、ワシントン体制を遵守した対米協調政策を打ち出していました。ワシントン会議に日本代表として出席した幣原喜重郎は、大正13年(1924年)6月に加藤高明内閣の外務大臣に就任してから、昭和6年(1931年)12月の第二次若槻礼次郎内閣総辞職によってその職を去るまで、田中内閣を除いて、前後5年3ヶ月にわたって日本の外交を担当しました。幣原の外交方針は、第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約とワシントン会議の各条約の遵守を両輪とした対中親善・対英米協調路線を基調としたものでした。

  しかし、日本は、昭和6年(1931年)9月の柳条湖事件をきっかけとして、関東軍の作戦範囲を満鉄沿線地帯から南満州全域に拡大します(満州事変)。それはワシントン体制に対する公然たる挑戦でした。これに対して、フーヴァー米大統領は、対日経済制裁を戦争への道を開くものとして選択せず、道義的非難をもって応じました。スティムソン米国務長官は、当初幣原外務大臣を信頼して不介入・静観策を採っていましたが、同年10月の関東軍による錦州爆撃を受けて対日態度を硬化させ、不承認政策を打ち出しました。昭和7年(1932年)1月に、スティムソンは武力行使による9カ国条約・パリ不戦条約への挑戦は一切承認しないと宣言し、満州事変によって生じた東アジアの政治的変化を否認する通告を発しています(スティムソン・ドクトリン)。さらに、スティムソンは米上院外交委員長ボラー宛の公開書簡の形式で、ワシントン体制の意義を再確認するとともに、日本の9カ国条約違反によってアメリカは5カ国条約第19条(フィリピン・グアムの防備制限)の拘束から解放されることになると警告を発しました。しかし、日本は同年9月に満州国を承認し、翌昭和8年(1933年)3月には国際連盟からの脱退を通告し、ここに東アジアにおけるワシントン体制の国際協調体制は崩壊しました。日本の外交的孤立と日米関係の悪化は、昭和12年(1937年)7月の日中戦争全面化によって一段と深刻化し、同年11月にブリュッセルで開催された9カ国条約国会議においても日本は参加を拒絶するにいたりました。ここにおいて、ワシントン体制は完全な崩壊を見ることになります。
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