ここでは『写真週報』の巻頭をかざった多くの表紙写真のうち、特徴のあるものを紹介します。なおここで用いるカラー写真は、国立公文書館に所蔵されている『写真週報』をデジタルカメラで撮影したものです。

 上に掲げた写真は、昭和13年(1938年)2月13日付の『写真週報』創刊号の表紙です。木村伊兵衛の撮影によるこの表紙は、モノクロ撮影された写真に一部彩色がほどこされています。以後の号でも表紙写真は基本的にこのような手法で作成されています。
(なお木村と『写真週報』の関わりについては、トピックス「『写真週報』に登場する著名人 1 『写真週報』に撮影者として登場する著名人」の項目をご参照下さい)。

 左上の写真は、昭和13年(1938年)7月13日付の『写真週報』22号の表紙です。一見してはどのような状況か分からないこの写真については、この号の巻末に「横須賀軍港に投錨中の帝国軍艦「五十鈴」の艦首を清掃してゐる水兵さん」という解説が付されています。右上の写真は、同年7月20日付の『写真週報』23号の表紙です。こちらも一見不可解な写真ですが、巻末には「日の丸弁当の怒涛、経済戦への弾丸。超広角レンズで視た握り飯」という解説がなされています。

 日中戦争が続いていたこの時期には、戦場に題材をとった表紙も掲載されています。左上の写真は、昭和13年(1938年)8月31日付の『写真週報』30号の表紙です。巻末で「秋草茂る中に虫の声あり ふと立ち止りみれば敵の鉄兜一つ、漸く(注−ようやく)おとろへきた日ざしに秋が光る」と説明されているこの写真には、日本軍と交戦していた中国国民党の党章のついたヘルメットがみられます。右上の写真は、昭和13年(1938年)12月14日付の『写真週報』44号の表紙です。この号の巻末には大陸の戦場での兵士とカメラマンのやりとりとして、次のような会話が掲載されています。
「え飯を食つてゐるところの写真ですか、―え、と、こんなでいゝですか、」
「そうです、どうぞそのまゝ」
(キヤメラマンの腕章を見て)
「あゝ、内閣情報部の写真班の方ですな、」
「そうです、写真週報です、」
「…いやあ、どうも、俺みたいな無骨な顔じやまづいだらう、」

 上に掲げた写真は、左から昭和14年(1939年)5月24日付の『写真週報』66号、同年9月19日付の『写真週報』74号、同じく8月2日付の『写真週報』76号の表紙です。『写真週報』には、以上に見られるように女性を被写体とし、強い彩色をほどこした表紙もしばしば見られます。

 左上の写真は、昭和14年(1939年)9月14日付の『写真週報』82号の表紙です。ヒョウに魚を与えているこの写真については、巻末で以下のような解説がなされています。
「鰯を食ふことにした。
 ボクたちを養つてくれる人間さまが、東亜新秩序建設とかいふ大仕事のためにスフ(注−ステープル・ファイバー(人造絹糸)の略)の着物をきたり、一汁一菜で我慢して一生懸命働いてるのに、養はれてゐるボクたちが高価な肉を食ひたゞ便々と寝てゐるだけでは申訳がない。そこで少し前から肉の代りに鰯を食べることにした。最初食べつけるまではぷんとくる臭みや小骨に参つたが、何今ぢやどうして結構いける。不服をいつちや罰があたるわい。」
 右上の写真は、昭和15年(1940年)9月4日付の『写真週報』132号の表紙です。これも一見不可解な写真ですが、巻末の解説には以下のように記されています。
「この沢山重なり合つてゐる赤ちゃんは青い目をしたセルロイドのお人形です。
 しかしこのお人形は全部日本の生れ、日本の波止場から海を越えて、言葉の分らない南洋諸島、印度、濠州、南北米へと送られてゆきます。―椰子の葉茂る南洋の港に着いた時、お人形たちは目に涙を浮かべて淋しい淋しいと泣いてゐるでせうか?いえいえそれどころか、戦争に必要な物を沢山買いに来たお使ひだと威張つてゐます。」
 以上の解説からは、一見戦争とは関わりのないように見える表紙写真も、日中戦争を続けていた当時の日本の状況の一側面を表現していることが分かります。

 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍がマレー半島上陸、ハワイの真珠湾攻撃を開始し、太平洋戦争(「大東亜戦争」)の火蓋が切られると、『写真週報』の表紙にもより直接的にこの開戦の模様に関する写真が掲載されます。左上の写真は、対米英開戦をつたえる最初の号となった昭和16年(1941年)12月17日付の『写真週報』199号の表紙です。ここには「一億、今ぞ 敵は米英だ!」という標語が付されています。
 中央の写真は、昭和16年(1941年)12月24日付の『写真週報』200号の表紙です。この号の巻末には表紙について次のような解説が付されています。
「太平洋上における米英の主力艦隊を、開戦僅か三日にして殲滅した我が聯合艦隊航空部隊の威武は燦(注−さん)として中外に宣揚された。
 いましもわが新鋭艦上戦闘機は密雲をついて敢然攻撃に向ふ」
 右上の写真は、昭和16年(1941年)12月31日付の『写真週報』201号の表紙です。

 その後、表紙写真には、基本的に戦争に関連する事柄をより直接に表現する写真が多く用いられるようになります。左上の写真は、昭和17年(1942年)4月1日付の『写真週報』214号の表紙です。ここにはビルマのラングーンに進駐する日本軍の写真が用いられています。中央の写真は、昭和18年(1943年)5月26日付の『写真週報』273号の表紙です。巻末には、この表紙について次のような解説が付されています。
「束になつて出てこいと、敵艦隊撃滅に満を持すわが主力艦隊は、太平洋上に厳として存在する。
 敵が主力艦十三隻を失つて海上兵力に致命的な打撃をうけてゐるにも拘はらず(注−かかわらず)、わが主力艦隊の健在は、第三十八回の海軍記念日を迎へ、帝国海軍の光彩陸離(注−りくり きらきら輝く様子)たるものがある。」
 しかし実際には、前年の昭和17年(1942年)6月5日のミッドウエー海戦で日本海軍は空母4隻等を失い海軍力を大幅に低下させており、またこの『写真週報』273号の発行日のおよそ1ヶ月前にあたる昭和18年(1943年)4月18日には、連合艦隊司令長官山本五十六が前線の視察中に搭乗機をブーゲンビル島上空で撃墜され戦死していました。(この間の経緯については、年表の項目をご参照下さい)。
 右上の写真は、昭和18年(1943年)10月20日付の『写真週報』294号の表紙です。同年10月1日付で公布された「在学徴集延期臨時特例」による学生の徴兵猶予措置のほぼ全面的な撤廃をふまえ、軍事教練に参加する学生の写真が用いられています。

 創刊から昭和19年(1944年)3月22日付の314号までの『写真週報』は、版型はA4版、表紙写真には一言程度の標語がついている形式で発行されていました(上に掲げた左側の写真)しかし昭和19年(1944年)3月22日付の315号以降、版型はA3版、表紙写真に従来表紙裏面に記されていた「時の立て札」という文章が掲載される形式に変更されました(上に掲げた右側の写真)。

 上に掲げた写真は、左から昭和19年(1944年)4月26日付の『写真週報』318号、同年5月10日付の『写真週報』320号、同じく5月17日付の『写真週報』321号の表紙です。

 上に掲げた写真は、左から昭和19年(1944年)6月28日付の『写真週報』327号、同年7月5日付の『写真週報』328号、同じく7月26日付の『写真週報』330、331合併号の表紙です。



 

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