ここでは『写真週報』に掲載された多数の写真の中から、当時の世相の中での鉄道事情に関わる写真を取り上げ、その状況の変遷を関連する文書資料と併せて紹介します。

 昭和13年(1938年)3月30日付の『写真週報』7号には、「体位向上 銃後の備へ」という標語を掲げた鉄道省の広告が掲載されています。日中戦争下において展開された国民精神総動員運動(第一次近衛内閣で開始された政府主導の国民運動)の一環として心身鍛錬などが強調されるなかで、鉄道省はハイキング、登山、海水浴などを「体位向上」の名の下に推奨しました。

 また1938年7月からは、鉄道省が文部省・厚生省と共に青少年教育の手段として、「青年徒歩旅行」を奨励しました。昭和13年(1938年)8月3日付の『写真週報』25号、同年10月5日付の『写真週報』34号には、上に掲げたような鉄道省の「青年徒歩旅行」の広告が掲載されています。

 鉄道省はまた国民精神総動員運動の中で強調された「日本精神」涵養に資する史蹟や名勝への旅行を奨励しました。上に挙げた鉄道省の広告では、大山、吉野神宮、那智の滝などが取り上げられています。

 以上のように人々に鉄道を用いた旅行が奨励される一方で、鉄道を利用する人々にマナーを訴える鉄道省の広告もみられます。上に挙げた昭和14年(1939年)4月5日付の写真週報59号の広告では「守る公徳 輝く文化」という標語が、昭和14年(1939年)6月7日付の写真週報68号の広告では、「せまい車内も譲つて広く」という標語が掲げられています。
 こうした乗車マナーに関する広告からは、当時において多くの人々が鉄道を利用している状況がうかがえますが、下に掲げた『写真週報』の三つの記事は、こうした状況をより直接に反映しています。

 上段に掲げた昭和15年(1940年)1月18日付の『写真週報』98号の「混雑緩和に『団体乗車』」という写真記事では、「鉄道の乗客が未曾有に増加してゐるこの際」にあたり、自治会を作り団体乗車を行なっている企業労働者の事例が紹介されています。
 下段に掲げた同年2月14日付の『写真週報』103号の記事では、日中戦争開始以来「大陸との連絡や生産拡充のために人のうごきは激増し交通機関はいずれも多数の乗客で輻輳(注−ふくそう 1か所に混み合うこと)を極めてゐますが、このため交通道徳が紊れ(注−みだれ)がちになります」として、鉄道利用時に迷惑となる行為の事例が紹介されています。

 また上に掲げた昭和16年(1941年)4月9日付の『写真週報』163号の「一列の 一降り 二乗り 三発車」という写真記事では、列車乗降時の混雑緩和のために一列乗降を励行することが提唱されています。

 こうした状況の中で輸送力の限界をむかえた鉄道省は、一定の旅客の制限を行ないました。

 資料1は、昭和15年(1940年)3月13日付の『週報』178号です。ここに掲載された「最近の国鉄旅客輸送」という記事では、昭和7年(1932年)以降ほぼ同率の割合で増加してきた輸送人員数が昭和13年(1938年)、昭和14年(1939年)に至り激増していることが示されています(8画像目〜10画像目)。
 資料2は、昭和16年(1941年)7月11日に鉄道次官から内閣書記官長に送られた文書です。ここでは、この夏には鉄道輸送力が特に逼迫することが予想されるため、内閣管下の各種団体に対し総会、大会及び団体旅行などを当分延期するよう指導することが依頼されています。また7月14日以降は学生・生徒に対する運賃割引や青年徒歩旅行者に対する運賃割引、さらに団体旅客割引などが停止されることが伝達されています。

 先に述べたように、昭和10年代の前半を通して鉄道利用者は増加の一途をたどったため、鉄道省はその一定の抑制をはかりましたが、多くの人々が鉄道を利用する状況は、1941年12月の太平洋戦争開戦以降もしばらく続きました。上に掲げた昭和17年(1942年)6月24日付の『写真週報』226号でも、先に見た写真記事と同様に混雑時の乗車マナーの励行がうたわれています。
 しかしその後、戦争の展開に伴って輸送に用いる船舶の需要が高まり、日本沿岸輸送を陸運に転移させることが決定されると、貨物輸送を増強するために「強度の旅客抑制」がはかられることになりました。

 資料3は、昭和17年(1942年)11月18日付の『週報』319号です。ここに掲載された「戦時陸運の非常体制」という記事では、鉄道省が上に述べたような輸送政策について解説を行なっています。
 資料4は、昭和18年(1943年)4月14日付の『週報』339号です。ここに掲載された「重要物資と鉄道輸送」には、その冒頭に「過日、二日続きの休みのため、国鉄その他の輸送機関は、春の行楽を求める人達で超満員を続け、いろいろな悲喜劇が演じられましたが、決戦下の今日、まことに遺憾なことといはねばなりません」との記述があり、政府の旅客抑制方針のなかでも人々がさかんに鉄道を利用している様子がうかがえます。
 また下に掲げる昭和18年(1943年)9月29日付の『写真週報』291号でも、「鉄道は勝つための武器 不急の旅行で戦力減らすな」との標語により、旅行のための鉄道利用の自粛がうったえられています。

 以上のような政府の旅客抑制方針の一方で、戦局の悪化に伴う生活物資の統制強化のなか依然多くの人々が食料の買出しなどで鉄道を利用しました。下に掲げた昭和18年(1943年)11月10日付の『写真週報』297号に掲載された「混む汽車の旅も和やかに」という記事からも列車の混雑の様子がうかがえます。

 当時の鉄道の混雑について、清沢冽は昭和19年(1944年)3月8日の日記の中で次のように述べています。
「汽車の混雑、いわん方なし。鉄道員は「戦時下」という言葉を不親切と同意義と心得ているらし。どこでも喧嘩である。」

 こうした中で、昭和19年(1944年)3月には、その前月の2月に決定された「決戦非常措置要綱」に基づいて、旅客輸送制限の実施が決定されました。下に掲げた昭和19年(1944年)4月5日付の『写真週報』315号の表紙の写真には、「旅行制限の発表三日後の上野駅」という説明が付されています。

 資料5は、昭和19年(1944年)2月25日に閣議決定された「非常措置決戦要綱」の抄録とこれに関連する新聞記事の切り抜きです。
 資料6は、昭和19年(1944年)3月12日に運輸通信省が作成した「運輸通信省ヨリ決戦非常措置要綱ニ基ク旅行制限ニ関スル措置要領」です。1画像目から4画像目にはこの旅行制限実施にあたっての各省が担うべき職務が記されています。また5画像目から7画像目には、運輸通信省が旅客制限を行なうにあたっての方針、要領、措置などを述べた「決戦非常措置要綱ニ基ク旅客輸送ノ制限ニ関スル件」がおさめられています。
 資料7は、資料6にみた文書をもとに昭和19年(1944年)3月14日に閣議決定された「決戦非常措置要綱ニ基ク旅客輸送ノ制限に関スル件」と関連する新聞の切抜きです。これにより特別急行列車、急行列車、一等車、寝台車、食堂車を全廃すること、100キロをこえる遠距離旅行については警察署の証明等により制限されること、遊楽や物資買出など不急不要の旅行は禁止することなどが決定され、国民に向けて発表されました。
 資料8は、昭和19年(1944年)3月27日に内務省警保局長から各府県長官に発せられた「決戦非常措置要綱ニ基ク旅客輸送ノ制限ニ関スル件依命通牒」です。ここでは資料7にみた閣議決定をうけ、100キロをこえる遠距離旅行について各警察署が旅行証明書を発行する際の実施要領が通知されています。

 清沢冽は、資料7にみた閣議決定が発表された翌日の昭和19年(1944年)3月15日の日記の中で次のように述べています。
「汽車旅客制限をなし、今後、百キロ以外は警察が証明を出すことに決す。寝台車、食堂車全廃。ひどい制限である。
 ドイツで矢張り制限をしているのは、運輸通信省の長崎という鉄道総局長官の談でも明かだ。
 先頃の高級料理屋の閉鎖等も、ドイツの真似であろう。無論、必要に押されて来てではあるが。
 いつも言うことだが、一般民衆にも「戦争」というものが、どんな味のするものであるかが分るだろうと思う。」



 

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