ここでは『写真週報』に掲載された多数の写真の中から、戦時下の人々の地域での生活に密接に結びついていた隣組とその活動に関わる写真を取り上げ、関連する文書資料などと併せて紹介します。

 昭和15年(1940年)9月、内務省により「部落会町内会等整備要領」が布告され、町内会・部落会の整備がはかられると共にその下位組織として隣組(隣保班)が組織されました。戦時体制下の国民総動員のための最末端の行政補助組織として位置づけられた隣組は、1組につき5〜10戸程度で構成され、各戸から1名以上が参加する定例集会である常会により運営されました。上に掲げた写真は、昭和15年(1940年)10月16日付の『写真週報』138号に掲載された常会に関する記事です。ここでは大政翼賛会中央本部からその道府県支部、郡市支部、町村支部を経て町内常会・部落常会、そして隣組の常会へと至る組織系統と、大分県におけるその具体例が紹介されています。

 資料1は、隣組に関する多くの資料を含む「町内会部落会に関する資料」です。この中には、東京市が隣組常会の意義や運営方法を記した『隣組常会の栞(注−しおり)』(33画像目〜43画像目)、『隣組常会』(44画像目〜65画像目)などの冊子のほか、上で言及した「部落会町内会等整備要領」をはじめとした町内会・部落会・隣組に関する訓令や通牒をまとめた『町内会部落等ニ関スル訓令通牒』(139画像目〜161画像目)などが含まれています。
 資料2は、昭和16年(1941年)7月30日付の『写真週報』179号です。この号以降、毎月の最終号となる『写真週報』に常会のページが設けられ(この号では9画像目に見られます)、常会でとりあげるべき課題や実践項目など常会運営の指針とすべき事項が紹介されました。

 隣組は、先にみたような大政翼賛会中央本部に端を発する組織系統を通じて伝達される様々な任務を、地域において担いました。こうした任務には、上に掲げた写真にも見られる防空活動や生活物資の配給をはじめ、兵士の送迎や国債募集・貯金・金属回収の割当などがありました。その他にも戦時下において隣組を単位とする様々な活動が奨励されていたことが、以下に掲げた写真などからうかがえます。

 このように隣組は、戦時下において人々の生活に密接に結びついたさまざまな活動を行なっていました。以下ではこうした活動の中から防空活動を取り上げ、関連資料を紹介します。

 昭和12年(1937年)4月2日、防空法が公布されました。日中戦争開戦以前に公布されていたこの法律は、航空機開発の進展にともない各国が航空戦力を増強しつつある中で、戦時または事変に際して空襲がおこなわれる可能性があることに備え制定されたものでした。その後昭和12年(1937年)10月1日の防空法施行、これに伴う防空法施行令公布施行などにより防空に関する法制度が整えられる一方、昭和13年(1938年)2月には九州地方に国籍不明の航空機の接近情報にもとづく警戒警報が発令されるなど空襲の可能性が高まる中、国内では防空活動への準備がすすめられてゆきました。

 資料3は、昭和12年(1937年)4月2日に公布された防空法の御署名原本です。
 資料4は、昭和12年(1937年)3月17日付の『週報』22号です。ここに掲載された内務省地方局による「防空法案に就て(注−ついて)」という記事では、政府が防空法を立案した理由とその大要が解説されています。
 資料5は、昭和13年(1938年)2月24日に西部防衛参謀長から陸軍次官に宛てられた依命通牒です。この資料からは、同日午前「敵機」約10機が杭州を東進したという陸軍の通報をうけ、九州各地で警戒警報が発令されたことがうかがえます。
 資料6は、昭和13年8月17日付の『週報』96号です。ここに掲載された「国民防空と防空施設」という記事では、資料5の国籍不明航空機九州接近などの事例をふまえ、防空の重要性と防空施設の必要性が説かれています。
 資料7は、昭和16年(1941年)9月3日付の『写真週報』184号です。防空を特集したこの号では、防空壕のつくりかたや防空七つ道具が紹介されているほか、7画像目の「隣組防空心得帖」では隣組単位での防空活動が奨励されています。

 昭和17年(1942年)4月18日、アメリカ軍が初めて日本本土を爆撃すると、日本政府の空襲に対する危機感はいっそう高まりました。上に掲げた写真は、昭和17年(1942年)12月23日付の『写真週報』252号に掲載された記事です。「敵機は必ず来る」と題されたこの記事では、この年4月の空襲をふまえ「今後の空襲は敵がをさをさ怠りない態勢をとつてきてゐるために、恐らくあんな生やさしいものではない筈である」として、空襲への備えを訴えています。

 資料8は、昭和17年(1942年)4月18日のアメリカ軍による最初の日本本土空襲に関して、内務省警保局長が各府県知事にあてて発した電報です。ここでは同日午後12時30分頃におこなわれた東京市、横浜市、川口市などへの空襲の第一報が同日午後2時に発せられていたことが読み取れます。
 資料9は、昭和18年(1943年)に改訂された『時局防空必携』です。はしがきでは、この冊子が都市の防空上必要な事項を簡単に記したものであることが示され、家庭や隣組では普段からこれに基づいて準備・訓練を行なうことが説かれています。
 資料10は、昭和18年(1943年)8月4日付の『写真週報』283号です。この号では、資料9に挙げた改訂版の『時局防空必携』を写真で解説されており、6画像目には、焼夷弾が落ちた場合の隣組の対処の仕方が述べられています。

 以上のような状況の中で、地域社会において防空訓練が行なわれました。当時行なわれていた防空訓練について、清沢洌は1943年7月15日の日記で次のように述べています。
「今日から三日間、防空演習あり。例によって脚絆でなければいけないとか、袖がどうかとかいうことばかりに力を入れている。軍人が中心指導者だからである。」
 また1943年11月27日の日記では次のように書いています。
「今日は防空演習の日だ。一日家に居って「年表」を再検討。防空演習が全くの形式だ。我等もその必要を痛感するが、さてそれを実際見ると馬鹿馬鹿しくなる。誰も「仕方がない」という観念からで、「イザという時にはためにはなりませんよ」といっている。」

 昭和18年(1943年)10月、「防空法」が改正され、初めて「疎開」の言葉が登場するようになりました。「疎開」とは、攻撃目標にされやすい都市に住む学童・老人・女性や産業施設を田舎に避難させることです。この「防空法」では建物の「分散疎開」が重点に置かれていますが、その直後には人員の疎開もすすめられていきます。

 資料11は、改正された「防空法」の御署名原本です。
 資料12は、「防空法」の重点となった「疎開」について問答形式で解説している昭和18年(1943年)12月22日付の雑誌『週報』です。

 昭和19年(1944年)7月、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島を陥落させ、そこを基地として、日本本土に対し本格的な爆撃を開始しました。日に日に空襲が激化するなかで、疎開政策がさらに強化されました。

 清沢洌は空襲が激化するなかでの疎開の現実について、昭和19年(1944年)11月30日の日記に次のように書いています。
「この焼け出されたのに対し、政府は何事もできない。隣組で食料、衣服を取敢えず与え、後はいわゆる縁者疎開させるのだそうだ。隣組とても、しかし与えるべきものは、そんなにあるはずはない。そこで被害者は『身の不幸』として『お気の毒様』だけだ。」
 清沢はこのように間接的に、疎開と隣組の関係について述べています。



 

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