日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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用語集

人名 地名 組織・制度 条約・協定 その他

蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん/Battle of Ulsan)

明治37年(1904年)8月14日に行われた、朝鮮半島南部、蔚山の沖合いでの海戦です。 日本から朝鮮半島に至る通商路を脅していたロシアのウラジオストック艦隊を、日本の第二艦隊が破りました。

駆逐艦・水雷艇(くちくかん・すいらいてい/destroyer, torpedo boat)

海軍に属する船舶のうち、小型の砲や魚雷(魚形水雷の略:頭部に爆薬を、尾部にスクリューを備えており、敵艦に向かって水中を自力直進し、その舷側または艦底を破壊する兵器)を搭載した船を指します(駆逐艦と水雷艇とでは駆逐艦の方が大きい)。駆逐艦はその軽快な運動力をもって敵艦隊への魚雷攻撃を主任務としましたが、捜索、警戒などにも従事して、大型軍艦の補助的役目を担いました。水雷艇は魚雷攻撃を主任務とする小型艇です。航洋性に乏しく、主に敵港湾の在泊艦艇攻撃など、沿岸付近で行動しました。また、軽快な運動力を有するため、偵察、通信連絡などにも用いられました。

軍艦(ぐんかん/warship)

現代の国際法上の定義としては「一の国の軍隊に属する船舶であって、当該国の国籍を有するそのような船舶であることを示す外部標識を掲げ、当該国の政府によって正式に任命されてその氏名が軍務に従事する者の適当な名簿又はこれに相当するものに記載されている士官の指揮の下にあり、かつ、正規の軍隊の規律に服する乗組員が配置されているもの」(国連海洋法条約第29条)となります。旧日本海軍においては、明治29年制定の「海軍艦船條例」で、第一種軍艦、第二種軍艦、水雷艇、雑役船舟に区分されましたが、明治31年の「海軍軍艦及水雷艇類別標準」によって、軍艦は、戦艦巡洋艦、海防艦、砲艦、通報艦などに区分され、水雷艇は水雷艇駆逐艇と水雷艇に区分されました。明治38年の「海軍艦船條例」の改正で、海軍艦船は、軍艦と駆逐艦、水雷艇、潜水艇などに区分されました。海軍の船舶は、軍艦とそれ以外の船(輸送船や病院船など)とに大別されます。

蹇蹇録(けんけんろく/Kenkenroku)

明治期に外務大臣をつとめた陸奥宗光が記した著作です。 内容は、日本帝国の外交の舞台裏、とりわけ明治27年(1894年)から明治28年(1895年)の日清戦争と三国干渉の経緯をまとめたものです。

黄海海戦(こうかいかいせん/Battle of Yellow Sea)

明治37年(1904年)8月10日、ロシアの旅順艦隊は、旅順港の外にいた日本の連合艦隊と交戦しました。 これは20世紀における、はじめての主力艦同士の海戦でした。

甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう/Kabo Nongmin jeonjaeng
/Tonghak movement or peasant uprising)

東学党の乱ともいいます。明治27年(1894年)2月に朝鮮南部において、東学党を中心とした農民軍が不当な税の取り立てに反発して起した民乱に発端する戦争です。鎮圧のために朝鮮政府が清に援軍を要請するとこれに対抗して日本も朝鮮に出兵しました。両国の武力介入を回避するため、農民軍は朝鮮政府と和約を締結します。朝鮮政府は日清両国軍にも撤退を求めましたが、朝鮮をめぐる日清の勢力争いは激化していき、日清戦争に発展しました。この事態に農民軍は再度蜂起し、朝鮮政府および日本の連合軍と激闘をくりひろげましたが、95年初には鎮圧されました。

国民新聞(こくみんしんぶん)

1890年に徳富蘇峰(猪一郎)が創刊した日刊新聞です。創刊当初は平民主義を掲げましたが、しだいに国権論に傾斜し、日清戦争後には藩閥政府に接近していきました。日露講和条約の調印にたいしても、社説で講和賛成の姿勢を表明しています。このため、各紙から批判を受けるとともに、騒擾の対象とされましたが、終始その主張を貫きました。この結果、部数は激減しています。

コサック(こさっく/cossack)

15世紀後半に、ロシアの辺境地帯に農奴制支配を嫌い逃亡した人々が「コサック(=自由の民)」を自称し、自治的な軍事組織を形成していきました。18世紀以降、ロシアでもウクライナでもコサックの自治は大幅に制限され、非正規的な軍事集団としてとりこまれていきました。

三国干渉(さんごくかんしょう/Tripartite Intervention)

日清戦争の講和条約で、日本は清国から遼東半島を割譲されました。しかし、ロシア、フランス、ドイツはそれに異論を唱え、日本に対して半島を清国に返すよう勧告しました。これを「三国干渉」といいます。

巡洋艦(じゅんようかん/cruiser)

19世紀末~20世紀における海軍の主力を担い、戦艦よりはやや小型かつ高速移動が可能で、戦艦のそれに近い大砲を積んでいる軍艦を指します。日露戦争当時の「巡洋艦」は日本海軍では「浅間」「高千穂」「浪速」「明石」「新高」等、ロシア海軍では「パルラーダ」「ワリヤーグ」等が相当します。

戦艦(せんかん/battleship)

19世紀末~20世紀における海軍の主力を担い、船体の大きさ・積んでいる大砲の威力・装甲板の厚さといった性能の点で他の船を上回っていた軍艦を指します。日露戦争当時の「戦艦」は日本海軍では「三笠」「朝日」等、ロシア海軍では「レトウィザン」「オスラビア」等が相当します。

「血の日曜日」事件(ちのにちようびじけん/Bloody Sunday)

明治38年(1905年)1月22日、ロシアの当時の首都サンクトペテルブルグで行われた労働者の請願デモに対する発砲事件のことです。 この事件の結果、後にロシア第一革命と呼ばれる反政府運動が全国規模で勃発し、ロシアは戦争を続けることが困難となっていきます。

東学(とうがく/Tonghak)

朝鮮王朝末期におこった民衆宗教です。 従来の儒教道徳と両班社会の階級秩序を否定する革命的な教義が民衆の共感を得て、朝鮮半島南部に急速に広まりました。 この東学組織が甲午農民戦争の主体となりました。

日露講和会議(にちろこうわかいぎ/Portsmouth Peace Conference)

日本とロシアは戦争を終結させるため、明治38年(1905年)8月10日から9月5日、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州にある軍港ポーツマスで交渉を行いました。 ポーツマス会議ともいいます。アメリカ合衆国大統領ルーズヴェルトの斡旋の結果、日本とロシアは講和条約に調印し、戦争を終らせました。

日清講和会議(にっしんこうわかいぎ/Simonoseki Peace Conference)

明治28年(1895年)3月20日から4月17日にかけて、日本の山口県下関で行われた日清戦争の講和会議です。「下関講和会議」とも呼ばれます。ここで日清講和条約が結ばれ、清国の朝鮮における宗主権の放棄、日本に対する遼東半島や台湾の割譲、賠償金の支払いなどが決められました。

日清戦争(にっしんせんそう/Sino - Japanese War of 1894-1895)

日本と清国が、明治27年(1894年)から明治28年(1895年)に、朝鮮半島の支配を主な目的として争った戦争のことです。

日本海海戦(にほんかいかいせん/Battle of Tsushima)

明治38年(1905年)5月27日、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊対馬の沖合いで交戦しました。 この戦いで日本艦隊はロシア艦隊を破りました。

日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん/Hibiya Riots)

明治38年(1905年)9月5日から7日にかけて、日露講和条約が無賠償を定めていることに反発した市民が、日比谷公園を中心に東京の各地で暴動を起こしました。

閔妃事件(びんひじけん/Assassination of Queen Min)

明治28年(1895年)10月8日に 、駐朝鮮国公使の三浦梧楼が日本軍人・警察官・民間日本人壮士や日本人に訓練された朝鮮人訓練隊らを景福宮に乱入させ、国王高宗の王妃である閔妃を殺害した事件です。日本はこれによって、三国干渉をきっかけとして実権を握っていた親露派の閔氏政権を排除し、代わりに国王の父親である大院君を立てて親日派政権を成立させようとしました。

砲艦(ほうかん/gunboat)

海軍に属する船舶のうち、沿岸や河川での警備任務などを担う小型で、かつ喫水(船が水に浮かんでいるときの水面から船体の最下部までの幅)の浅い軍艦を指します。

奉天会戦(ほうてんかいせん/Battle of Fengtian (Mukden))

明治38年(1905年)2月から3月に行われた、中国の奉天(いまの瀋陽)の周辺での戦いです。 日本の満州軍は、奉天にいたロシア極東軍を破って奉天を占領しました。

北清事変(ほくしんじへん/Boxer Uprising)

義和団(ぎわだん)事件ともいいます。 明治33年(1900年)の中国で起こった排外主義(外国の影響を排除しようとする思想)の運動で、義和団と呼ばれる集団が活動しました。 これに対し、日本を含む各国が軍隊を送り武力によってこの運動を鎮圧しました。

遼陽会戦(りょうようかいせん/Ballte of Liaoyang)

明治37年(1904年)8月から9月に行われた、中国の遼陽の周辺での戦いです。日本軍は、ロシア軍を破って遼陽を占領しました。

旅順口閉塞作戦
(りょじゅんこうへいそくさくせん/Blockade of the mouth of Port Arthur (Lushun))

明治37年(1904年)2月から4月にかけて、日本軍は、旅順港の入口に船を沈め、港にいるロシア艦隊の出港を妨げるという作戦を実行しました。 この作戦は全部で3回行われ、広瀬武夫を含めて犠牲者を幾人も出しましたが、すべて失敗に終わりました。
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