日露戦争特別展2 開戦から日本海海戦まで激闘500日の記録
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日露戦争史

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日露戦争はやわかり

 
 

講和とその影響

3.日本における影響

 日露戦争は、日本がそれまで体験してきたどの戦争と比べても、その規模と性質は大きく異なっていました。戦闘に参加した日本の軍人と軍属の総数は、戦地と後方勤務の双方をあわせて108万人を超えていました。このうち戦死者・戦傷者は、それぞれ約8万4千人、14万3千人となっていました。日清戦争時の戦死者と比較すると、およそ10倍の死者が出たことになります。
▲東京市における凱旋式
(防衛省防衛研究所所蔵)

 戦争遂行に要した多額の戦費(約20億円、今のお金で約2兆6000億円に相当)はほとんど国内外からの借金(公債)によってまかなわれたので、当時の日本の財政(1905年度の政府歳入:約4億円)を考慮すれば非常に重い負担となりました。日本政府は戦時中からすでに所得税等を上げ、タバコ(1904年)・塩(1905年)などを専売制(政府が特定の品物を一括して販売する制度)にして歳入増加を図っていましたが、この増税政策は戦後にも引き継がれます。そして塩・タバコの専売制はその後も存続し、ごく最近まで行われていました(タバコの専売制の廃止は1985年、塩は1997年)。この財政難は、第一次世界大戦によって好景気がもたらされるまで続きました。

 このことは、日本の政治においても新たな展開をもたらすことになります。時間は少し遡りますが、戦争前の明治33年(1900年)の山県内閣の際に衆議院選挙法が改正され、直接国税を10円以上納めた国民が選挙権を持つことができるようになり、有権者の数は76万人となりました。しかし、日露戦争によって民衆が多くの税金を納めるようになった結果、明治41年(1908年)の選挙では、選挙法自体の変更はなかったにもかかわらず、その数が158万人へと増加します。こうした状況によって、有権者の層が変わり、新たな階層が日本の政治に参加することになります。

 そして、日露戦争後、約10万人の犠牲者と約20億円の金を支出して満州の権益を獲得したのだというフレーズが繰り返され、後々にまで日本の対外政策に大きな影響を与えることになりました。

 
 
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