アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第42号

2023年12月27日

今日の資料 (1)

郵便はがき150年

2023年も残りわずかとなりました。読者の方も年末年始に向けて、様々な準備をしているのではないでしょうか。その中には、年賀はがきの用意もあることと思います。SNSの普及などによって、年賀はがきの発行枚数は減少の一途をたどっていると言われています。しかし、それでも2024年用お年玉つき年賀はがきは約14億枚を発行すると発表されています。
日本のお正月の風物詩でもある年賀はがきの歴史をたどると、2023年は「官製はがき」発行から150年の節目の年ということに気づかされます。本稿では、アジア歴史資料センターで公開されている「はがき」に関係する史料を紹介することで、その歩みを振り返ります。

 

1.官製はがきと私製はがきの発行

西郷隆盛・板垣退助ら征韓派参議が辞職した明治六年の政変が起きた1873年、日本では「官製はがき」が発行されます。【画像1】において、1873年12月1日より郵便はがきの発行が布告されていることがわかります。

当初発行されたはがきは現在と形状が異なり、二つ折りとなっていました。こうして官製はがきが発行されると、新年にはがきを送る年賀状の習慣が急速に広まります。また、1882年には郵便条例が定められ、郵便行政自体も整備されていくことがわかります。さらに、1884年には【画像2】で定められた通り、往復郵便はがきの発行が許可されました。近代化していく明治国家のなかで、郵便制度も徐々に現在の形に整えられていくこととなります。一方で、当時は官製はがきの使用のみが認められており、絵はがきなどの私製はがきは使用することはできませんでした。

私製はがきの使用が認められたのは、1900年になります。この年は、郵便法が制定された年でもあります。まずは、郵便法から見ていきましょう。
【画像3】では、郵便法のなかでもはがきに関する第18条を示しています。第18条には、郵便物の種類や料金を定めており、第二種として郵便はがきと記されています。「通常葉書」は「金一銭五厘」と価格も定められているのが史料からわかります。

一方、私製はがきの使用が認められると、年賀状へ利用するなどはがき全体の利用が促進されることとなりましたが、同時に問題も生じました。【画像4】では、内務省警保局長の名前で「裸体其他風俗を攘乱する」絵はがきを発行した人間に対して「処分」するということが記されています。私製はがき使用許可から一年後には、こうした取り締まりの問題も生じてきたことがうかがえます。

 

2.大正・昭和戦前、戦中期のはがき

整備された郵便体制をどのように、国家は利用していたのでしょうか。いくつかの事例から見ていきます。
外務省では、通商彙纂という調書を編纂していました。その調書の口絵に使用する写真と絵はがきを【画像5】のように、在外公館が本省へ送付していることがわかります。

それでは、在間島(かんとう)総領事永瀧久吉から送られてきた絵はがき8枚を見てみましょう。2コマ目にもある通り、「当地方風俗、風景」に関するもののため、当時の間島の様子が写真絵はがきからうかがえます。調書を作成する材料として、現地の絵はがきが利用されていることが確認できます。【画像6~9】

 

海軍の場合、【画像10、11】のように砲艦の進水式の記念として、絵はがきを作成していました。実際の砲艦二見の絵を画像11には提示しています。こうした絵はがきを作成することで、より海軍に親しみをもってもらう策略が垣間見えます。

 

以上のように、各省庁で絵はがきなどが積極的に使用されますが、大正時代に年賀はがきの危機が訪れます。それは、今から100年前に関東地方を襲った関東大震災です。関東大震災については、当センターの特別展示やニューズレター第41号などで特集をしていますのでここではその詳細を論じませんが、震災によって郵便行政を担っていた逓信省とその印刷局が焼失することになります。【画像12】は、逓信次官から外務次官に宛てた電報となります。

焼失によって「郵便切手及葉書の貯蔵」を失い、新たに印刷することも「従前の如くならざる実情」であることが記されています。こうした状況から「年賀郵便特別取扱の制度を休止」することとし、「年賀郵便交換の廃止を奨励」する対応策を伝えていることがわかります。三重県から外務省に宛てた公信では、「年賀状は差出ささる様致候に付御了知相成度候也」と年賀状の差出を止めることが書かれています。改めて関東大震災の被害とその影響の大きさを電信の内容からもうかがい知ることができます。

昭和になると、更なる危機が訪れます。1937年盧溝橋事件を発端として日中戦争がはじまり、1941年には真珠湾攻撃によって日本とアメリカとの間でも戦争が始まります。日本では、1938年に国家総動員法が制定され、国家総動員体制のなかで、平時の暮らしも制限されることとなります。1937年から年賀状の自粛が始まり、1940年には、年賀特別取扱が当分の間中止することとなります。こうした戦時を感じさせるはがきが【画像13】となります。

【画像13】は、国民精神総動員運動の宣伝として作成されたはがきとなります。「資源ノ愛護」、「挙国一致」、「社会風潮ノ一新」などのスローガンが目につきます。徐々に、戦時体制に移行していることがわかると同時に、宣伝政策の一端をはがきが担っていたことがわかります。さらに、【画像14】は、内閣情報部が作成した『写真週報』です。このページには、愛国葉書と愛国切手の宣伝がされています。愛国葉書と愛国切手とはなんでしょうか。

1937年6月に愛国葉書と愛国切手の販売がされます。両者は、通常の葉書と切手の料金に寄付金が上乗せされた料金で販売されていました。日本の航空が外国に比べて遅れていることから、寄付金を集めて航空の整備を行うことを目的としています。葉書が二銭、それに寄付金三銭が上乗せされて、五銭で販売されていました。寄付金の方が高いという価格設定でした。

 

3.戦後のはがき

1945年8月にポツダム宣言受諾を決定し、日本はGHQの占領下となります。【画像15】のように、日本国憲法公布の絵はがきが作成されるなど、徐々に平時に戻っていくことがうかがえます。

とはいえ、年賀特別取扱が1948年から始まります。物資欠乏などの状況から終戦後すぐに取扱が始まらず、戦後すぐに年賀はがきのやりとりが盛んになったわけではありません。

そこで、年賀状を促進する取り組みが1949年に始まります。いわゆるお年玉つき年賀はがきです。【画像16~18】(「お年玉つき郵便葉書等の発売に関する法律」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A20040123500、郵政省関係昭和24年8月・電気通信省関係昭和24年12月(国立公文書館)1コマ目~3コマ目)は、お年玉つき年賀はがきについて定めた法律となります。

数々の書き込みから様々な修正が施されたことがわかります。「2円のはがきを3円で」売ることとし、従来通りコミュニティチェスト(共同募金運動、赤い羽根募金など)の収入にするのと同時に「購入者又はその年賀状の受領者に対して、くじびきで景品を贈與する」ことが定められました。現在まで続くお年玉つき年賀はがきは、戦後の比較的早い時期から開始されていたことが確認できます。

戦時中、年賀状の自粛がありながらも、戦後の早い時期にお年玉つき年賀はがきを開始するわけですが、いったい年賀はがきのやりとりはどのような状況だったのでしょうか。【画像19、20】は1951年に、政府が東京都区内に住む20歳以上60歳未満の男女600名を対象とした年賀はがきに関する世論調査の結果をまとめたものになります。まず、1コマ目には「年賀状の賛否」について記されています。賛成が91%、不賛成が3%となっています。年賀はがきのやりとりが圧倒的多数に支持されていることがうかがえます。それを証拠に、1951年の年賀はがきの売り上げ数は4億枚となっており、前年の2倍以上を売り上げていることも調査結果には記されています。

売り上げが大幅に増えた理由も、調査結果からわかります。「生活にゆとりが出てきたからでしょう」等といった理由が57%となっています。同年9月に、サンフランシスコ講和条約が結ばれることや、1956年の経済白書に有名な「もはや戦後ではない」と記されることを踏まえると、生活が安定してきたことは首肯できます。また、お年玉つき年賀はがきの「くじの為盛んになった」という結果は8%となっています。

 

4.まとめ

年賀はがきは、その後も枚数を増やし続け、ピーク時は2003年の約44億枚発行がされています。前述のとおり、現在は徐々に年賀はがきそれ自体の枚数は減っていますが、SNSなどを通じて新年の挨拶を行うといった風習は形を変えながらも続いています。

150年の歩みを振り返ると、時代の鏡としてのはがきの存在に気づかされるのではないでしょうか。年賀はがきの発行枚数を見るだけでも、その時何があったかといったことがうかがえます。また、官製はがきの場合は時の政府が何を訴えたいのかということを理解できる史料となっています。アジア歴史資料センターでは、上記以外にもはがきに関係する史料を公開しています。ぜひ検索・閲覧して頂ければ幸いです。

 

【参考文献】

・井上卓朗・星名定雄共著『増補 郵便の歴史』鳴美、2021年

<アジア歴史資料センター調査員 前川友太>