アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第42号

2023年12月27日

今日の資料 (2)

朝鮮戦争と日本

2023年は朝鮮戦争の休戦から70年の節目になりました。朝鮮戦争は1950年6月に勃発し、1953年7月に板門店で休戦協定が結ばれるまで3年1か月の歳月が費やされました。開戦当初から米軍を中心とした国連軍が参戦し、ソ連や中国も関わるなど、「冷戦の熱戦化」とも呼ばれた戦争をアジ歴資料から振り返ってみます。

 

アジ歴が公開している資料には外務省外交史料館提供の『朝鮮動乱関係一件』というシリーズがあります。このシリーズでは、戦争の経過、各国の態度及び世論・新聞論調、マッカーサー解任問題を含んだ米国の世論・新聞論調、休戦交渉関係、韓国復興関係、国連の審議及び態度という6つのテーマで文書が整理されています。また、この資料群の特徴として、国連側、特に米国側の情報が中心になっていることが挙げられますが、それには、戦争勃発時の日本が連合国による占領下にあったことが想起されます。さらに戦争中はサンフランシスコ講和をまたいだ微妙な時期でした。日本の独立回復および西側陣営への参加という課題がどことなく見えるところもこの資料群の特徴です。

1.朝鮮戦争前史 ー日本からの解放と分断国家の誕生

それでは、アジ歴資料から朝鮮戦争の経過をたどってみます。まず、朝鮮半島が38度線で分断されるようになった経緯から見てみましょう。

第二次世界大戦の終結とともに、連合軍最高司令官一般命令第1号によって、朝鮮にいる日本軍は、北緯38度線から北部ではソ連軍、南部では米国軍に降伏することになりました【画像1】。これが現在まで残る軍事境界線の始まりです。

この分断線はその後、朝鮮の独立問題に絡みながら、強く、濃く引かれていきます。朝鮮の独立については、すでに米・英・中が1943年12月1日、「やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる」と共同声明を出していましたが(カイロ宣言【画像2】)、「やがて」には「信託統治を経てから」という含意がありました。

そして、戦後処理のため、1945年12月16日から開かれた米・英・ソの外相会議の結果、朝鮮の独立については、まず臨時政府を立てること、その準備のために米ソ両軍代表による共同委員会を設置すること、完全独立までは米・英・中・ソの信託統治下に置かれることとされました(モスクワ協定)。信託統治構想は朝鮮の人びとの間に「賛託」「反託」の分裂を生み、その一方で、米ソ共同委員会は難航し、1946年5月をもって無期休会となりました。

その後も米ソ共同委員会は進展を見せず、1947年9月、米国はこの問題を国連総会に持ち込みました。ソ連はこれをモスクワ協定無視だと批判しましたが、国連では、当初の信託統治案から転換した米国案が決議されました。国連は1948年3月31日までに南北両地域で選挙を行うことを勧告し、選挙は国連の監視下に行われることとされました。しかし、国連が派遣した臨時朝鮮委員会は北朝鮮内への立ち入りを拒否されたため、1948年2月26日、国連は、ソ連圏諸国が棄権するなか、南朝鮮だけの単独選挙案を採択しました。

単独選挙案はたちまち南朝鮮の人びとの反対を呼びました。単独選挙阻止を掲げた30万人の労働者によるゼネストが行われ、済州島では激しい蜂起がありました。済州島はもともと左派勢力が強い地域だったため、この民衆蜂起を米軍政府は徹底的に鎮圧しました(済州島4・3事件)。また、南北朝鮮の政治指導者らが会談し、統一政府の樹立と全占領軍の撤退を決議することもありました(南北連席会議)。しかし、このような単独選挙に反対する動きは米軍政府によって抑えられ、1948年8月15日、大韓民国政府の独立が宣言されると(大統領李承晩)、続いて9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の成立が宣言されました(首相金日成)。

こうして南北の分断国家が生まれると、李承晩は「北進統一」を呼号し、金日成は「南部解放」を目指し、武力統一以外の道が閉ざされつつありました。

2.朝鮮戦争の勃発、そして休戦まで

朝鮮戦争の勃発は1950年6月25日夜明け前のことです。北朝鮮の人民軍が38度線を越え南下を始めました。当時、38度線付近では小さな衝突が続いており、このときも韓国側はそのひとつだと考えていたようです。しかし、北朝鮮側は兵器・装備をソ連製で固めていました。2日後にはソウルが陥落、開戦2か月ほどで大邱・釜山周辺を残して、朝鮮半島のほとんどの地域が人民軍に制圧されました。

一方で、開戦当初から米国が深く介入しました。開戦後すぐに米国は国連に安全保障理事会の招集を要請、安保理事会はソ連欠席のなか、北朝鮮の行動を「平和の侵犯と侵略行為」と宣告しました。6月27日には安保理事会が国連加盟国に韓国への武力援助を勧告、米国では大統領のトルーマンが米海空軍に朝鮮への出動を命令しました。さらにトルーマンは30日に米地上軍にも出動命令を出し、米国は本格的にこの戦争に介入することになりました。7月7日、国連安保理事会は国連軍の結成を決議、国連軍最高司令官には、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが就きました。

 

北朝鮮側の優勢は、9月15日に米軍が仁川に上陸したことで反転します。上陸作戦後2週間のうちに、米軍はソウルを含む南部のほぼ全域を再占領しました。これで戦争前の状態にほぼ回復しましたが、国連軍はさらに北を目指しました。もともと国連の決議は北朝鮮に軍の撤退を呼びかけたものであり、米国の当初の目的も北朝鮮の人民軍を押し返すことでした。しかし、10月1日にマッカーサー麾下の韓国軍が38度線を破ると、7日には他の国連軍も突破北上し、戦争の拡大が行われました。平壌は陥落し、元山への上陸が行われ、国連軍は次第に中国国境に近づいていきました。同時に中国の義勇軍が鴨緑江を越えて北朝鮮に入境し、11月24日には激しい戦闘が始まりました。このとき国連軍は中国軍の反撃にあって「12月の退却」に追い込まれます。その後は、全面的応戦を計画するマッカーサーと、休戦交渉を呼びかけたい米政府の間で抗争が続き、1951年4月11日、トルーマンは合衆国極東軍最高司令官・連合国軍最高司令官・国連軍最高司令官であるマッカーサーの解任を発表、4月16日、マッカーサーは日本を離れました。

開戦から1年が経つと、戦況は膠着状態に入っていました。1951年6月23日、ソ連の国連代表ヤコブ・マリクは休戦を提唱、7月10日に開城で最初の会談が開かれました。休戦交渉は、南北の境界線をどこに引くか、捕虜の送還をどうするかなどの問題で難航しましたが、1952年12月にインド政府が国際赤十字会議で傷病捕虜の交換を提案したことで新しい局面が開けます。傷病捕虜交換をきっかけにして休戦会談が再開し、1953年7月27日、休戦会談の首席代表のハリソン(国連側)と南日(北朝鮮側)が休戦協定に署名、クラーク国連軍総司令官、金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民義勇軍総司令官が諸協定にサインしました。韓国側の代表は李承晩の最後の抵抗として署名しませんでした。李承晩は休戦交渉が進むと、あくまで「北進統一」にこだわり、休戦に抵抗していたのです。

休戦交渉が始まるまでに、38度線は中国・北朝鮮軍によって2回、国連軍には3回突破されました。境界線近くの鉄原・平康・金化を結ぶ地帯では多くの銃弾が飛び交ったため「鉄の三角形」と呼ばれました。南に北に戦線が行き来した朝鮮半島は疲弊し、その後の復興が険しい道程となったのも想像に難くありません。

3.朝鮮戦争と日本

それでは、日本はこの戦争にどのように関係したのでしょうか。最後に、朝鮮戦争と日本のかかわりをアジ歴資料から見てみたいと思います。

よく知られているように、戦争による需要増加として「朝鮮特需」がありました。当時、自立経済を模索し、あえいでいた日本経済にとって米軍からの大量発注は「回生薬」と呼ばれました。1950年7月31日の「朝鮮動乱に伴う特殊需要について(経済安定本部)」(Ref: A17111946400)では、戦争勃発後、1か月で特殊需要が64億円に推定されると報告されています。特需に関する報告は継続的におこなわれ、1年後の1951年7月には、特需の契約高は1,135億円にまで至ります。内訳では繊維織物類・機械類・金属及び金属製品の三部門で総額のほぼ4分の3を占め、また、サービス部門では自動車の修理や鉄道輸送、機械類の修理が大きな金額を占めていました。

ただ、この活況は一般の労働事情とは少し違いがあったようです。同じく経済安定本部が作成した『朝鮮動乱以後の労働事情』によると、「労働部面では、全般的にいって急速なる変動は余り認められていない」と、特需が局地的、特殊的であるため、影響が部分的だとしています。ここでは、仕事量の増加については、現在の従業員のオーバー・タイム、下請け依存度の拡大、配置転換などで乗り切り、それができなくなって初めて臨時雇いによる増員があると報告されています。

経済以外にも大きな影響がありました。在日米軍が朝鮮へ出動することで生じる「国内治安の空白」を埋めるとして、1950年7月8日、「警察力増強に関するマッカーサー書簡」が発せられ、海上保安庁の増強と国家警察予備隊の設置が行われることになりました。

10月23日には海上保安庁法等の一部を改正する政令が施行され、海上保安庁職員数や船舶数の制限が緩和されました。この改正により職員数1万8000人(従来1万人)、船舶の隻数200隻(同125隻)、船舶の全トン数8万排水トン(同5万総トン)まで上限が緩められました【画像12】。

時を同じくして、1950年10月2日には、GHQからの求めに応じて、海上保安庁の掃海隊が朝鮮海域で掃海を行うことが決まりました。このとき、北朝鮮は国連軍の上陸を阻むため多数のソ連製機雷を敷設しており、国連軍は元山上陸のためには機雷除去の必要がありました。そのために集められたのが占領下にある日本の掃海隊です。当時海上保安庁の長官だった大久保武雄によれば、日本特別掃海隊と名付けられた掃海隊は掃海艇20隻、巡視船4隻、試航船1隻で構成され、10月6日午後6時、米掃海隊指揮官の指令により出動しました。大久保によると、この乗員の大半は旧日本海軍の時代から掃海に従事してきたエキスパートで、約2ヶ月のあいだ、元山、仁川、群山、鎮南浦、海州の掃海に従事し、12月15日に解散したということです。

また、8月10日に公布された警察予備隊令【画像13】によって警察予備隊が創設されると、8月23日には第1次入隊がおこなわれました。警察予備隊は保安隊(1952年10月改組)を経て、1954年7月、自衛隊の発足に至りました。

70年前に板門店で結ばれた協定は「休戦」協定であり、いまも北と南は停戦状態にしかありません。2023年の現在も、戦争を終戦にみちびくには大きな困難をともないます。いちど始めた戦争を終わらせることの難しさを、あらためて感じさせられます。

 

【参考文献】

神谷不二『朝鮮戦争―米中対立の原形』(1966年、中公新書)

ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源 第1巻』(1989年、シアレヒム社)

朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史 新版』(1995年、三省堂)

李景珉『朝鮮現代史の岐路』(1996年、平凡社)

金東椿『朝鮮戦争の社会史 避難・占領・虐殺』(2008年、平凡社)

大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』(1978年、海洋問題研究会)

海上保安庁総務部政務課編『海上保安庁30年史』(1979年、海上保安協会)

 

<アジア歴史資料センター調査員 齊藤涼子>