『写真週報』が刊行されていた昭和13年(1938年)2月から昭和20年(1945年)7月までの期間、日本では近衛文麿、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、東条英機、小磯国昭、鈴木貫太郎の7人が総理大臣をつとめました。アジア歴史資料センターで閲覧することができる昭和19年(1944年)12月20日付の『写真週報』352号まででは、このうち近衛から小磯までの内閣成立時の写真をみることができます(こちらについては、年表をご覧下さい)。
 また上記の7人の総理大臣のうち、比較的任期の長かった近衛文麿、東条英機の二人の総理大臣は、内閣成立時以外にもたびたび『写真週報』に登場しています。以下ではこのうち近衛文麿を取り上げ、その写真と関連資料を紹介します。


 昭和13年2月13日付の『写真週報』創刊号には、時の総理大臣近衛文麿の写真が掲載されています。

 近衛文麿は、明治24年(1891年)五摂家の筆頭近衛家の長男として生まれました。当初は、哲学を志して東京帝国大学哲学科に進学しましたが、まもなく京都帝国大学法科大学に転じ、河上肇らの指導を受けました。大正5年(1916年)に、貴族院議員となり、政治家としてのキャリアをスタートさせました。大正8年(1919年)には、西園寺公望全権の随員としてパリ講和会議に出席しました。昭和6年(1931年)には、貴族院副議長、昭和8年(1933年)に、貴族院議長を務めています。昭和11年(1936年)の2・26事件直後に組閣を命じられていますが、この時はこれを辞退していましたが、昭和12年(1937年)6月には総理大臣として第一次近衛内閣を組閣しました。組閣直後の7月、盧溝橋において日中両軍が交戦状態に入りました(日中戦争)。そして昭和13年(1938年)1月16日には南京国民政府に対して、「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」と声明し、日中間の外交関係を事実上断絶しました。

 この第一次近衛内閣は、昭和14年(1939年)1月4日総辞職しました。全く同じ昭和14年1月4日付の『写真週報』46号には、上に掲げた微笑む近衛文麿の写真が掲載されています。
 資料1は、この1月4日の近衛総理大臣の辞表です(3画像目〜4画像目)




 上にみたように昭和14年(1939年)1月4日に総理大臣を辞任した近衛は、翌1月5日枢密院議長に就任しました。その後平沼内閣、阿部内閣、米内内閣が政権を担当する中、昭和15年(1940年)6月24日近衛は枢密院議長を辞任し、新たな政治体制の創出をめざす運動(新体制運動)に乗り出す声明を発表します。こうした状況のなかで7月16日に米内内閣が総辞職すると、翌17日ふたたび近衛に組閣の大命がくだり、昭和15年(1940年)7月22日、第二次近衛内閣が成立しました。
 資料2は、近衛が枢密院議長を辞任し新体制運動に乗り出した際の声明を記録した資料です。
 資料3は、成立した第二次近衛内閣に対して、政界の様々な立場からの要望をまとめた資料です。





 こうして第二次近衛内閣を組織した近衛は、8月23日には各界有力者を集め新体制準備会を組織し、そこでの審議をへて昭和15年(1940年)10月12日大政翼賛会を発足させました。上に掲げた写真にはこの大政翼賛会発会式での近衛の姿がみられます。
 資料4には、昭和15年(1940年)8月28日の新体制準備会での近衛の声明が記録された文書(16画像目左〜21画像目)のほか、大政翼賛会の組織や性格などを説明した『新体制早わかり』の送付状(36画像目〜37画像目)が含まれています。
 資料5は、昭和15年10月7日付の『週報』臨時号第208号の『新体制早わかり』です。




 

 国内において以上のように新体制運動をすすめた第二次近衛内閣では、対外関係においては松岡洋右外務大臣の主導により日独伊三国の提携がすすめられました。松岡はさらに昭和16年(1941年)3月12日、ドイツ・ソ連を歴訪し、4月13日には日ソ中立条約調印をおこないました。上に掲げた写真には、ドイツ、ソ連歴訪をおえた松岡を出迎える近衛の姿が写し出されています。
 しかしこのドイツ、ソ連歴訪中に自らの関知しないルートで日米交渉がすすんでいることを知った松岡は、交渉過程で作成されたいわゆる「日米諒解案」に異論を唱えました。対米調整をのぞむ近衛は、こうした中で松岡を外相から更迭するため昭和16年(1941年)7月16日内閣総辞職をおこない、翌7月17日第三次近衛内閣が組織されました。
 下に掲げた写真は、第三次内閣組閣直後の昭和16年7月30日付の『写真週報』179号の表紙です。



 こうして松岡を除き再出発した第三次近衛内閣でしたが、昭和16年7月28日南部仏印進駐にふみきって日米関係のいっそうの悪化をまねく中で、昭和16年10月16日内閣総辞職しました。
 その後昭和20年(1945年)の敗戦後には、近衛は戦犯容疑者に指定され、同年12月服毒自殺しました。





 

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