当時、すでに軍備を拡張する計画をもっていた陸軍の意向もあり、大会は質素なものにすることが目指されました。それでも、東京市招致成功を受け、昭和11年(1936年)12月、第12回東京オリンピック組織委員会が成立し、競技会場やホテルの建設の準備が進められていきました。
 資料3は組織委員会の第一回会報です。



 資料4は、大会開催の2年前の昭和13年(1938年)4月6日付の『写真週報』8号「準備は進む 東京オリンピック大会」で、東京オリンピックのために準備された施設の様子が掲載されています。たとえば、主要競技場候補地である駒沢のゴルフリンクスや神宮外苑競技場、横浜のヨットハーバーの写真が掲載されています。また、ホテルの建設・修築ラッシュ、五輪のマークの記念品の登場なども伝えられています。



 しかし、このときすでに国内外からオリンピック開催に対する否定的な雰囲気が強まっていました。昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件が勃発したからです。昭和13年(1938年)になると日中戦争の長期化が予想されるようになり、国内では陸軍がオリンピックの選手選出に異論を唱え始めました。

 また、昭和13年(1938年)3月にカイロで開催されたIOC総会では、各国から日本に対し日中関係についての問い合わせがありました。総会開催前から、イギリス・オーストラリア・フィンランドはすでに中止を求めていました。他方、日本の認識ではカイロ会議においてアメリカは好意的な態度を示していました。

 資料5は、オリンピック東京大会事務総長で日本外交協会会員の永井松三が、外交協会の例会においてオリンピック東京大会とカイロ会議における列国の態度について講演した内容を記録したものです。永井はここでアメリカのオリンピック委員を「理解ある」と解釈し、反対の態度をとるイギリス・北欧諸国とは一線を画していると考えています。




 ところが、ラツール伯IOC会長のもとには、東京大会開催を反対する電報が150通も寄せられていました。

 資料6は昭和13年(1938年)4月5日発の来栖三郎駐ブリュッセル大使から広田弘毅外務大臣に送られた電報です。来栖大使はラツール伯が大使のもとに来訪し、日本からオリンピック開催を辞退するように勧めにきたことを報告しています。




 また、反対の態度を表明していなかったアメリカの状況も変化していました。

 資料7の昭和13年(1938年)6月22日発の若杉要ニューヨーク総領事の宇垣外務大臣への報告をみると、アメリカのオリンピック委員2名はアメリカのオリンピック東京大会への参加に反対して辞任したことを伝えています。

 資料8は各国の新聞を集めてまとめた資料で、昭和13年(1938年)7月13日の「ニューヨーク・デーリー・ミラー」紙の報道を日本語訳したものが収録されています。そのなかで、同新聞は東京大会不参加を表明しないアメリカの選手に対して批判しています。

 



 

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