公文書に見る 日米交渉 〜開戦への経緯〜
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 ●関特演
 関東軍は、「関東軍特種演習」または「関東軍特別演習」と呼ばれる軍事演習を幾度か行ないました。中でも、ドイツ・ソ連戦開始(6月22日)の直後、昭和16年(1941年)7月に行なわれた「関東軍特種演習」は、「関特演」という略称で呼ばれます。この時の「関特演」は、実際には単なる軍事演習ではなく、対ソ連開戦を見据えた関東軍の戦力増強策でした。
 ドイツのソ連に対する攻撃が始まり、その当初においてドイツ軍が優勢に立つと、日本政府内では、まずはドイツと協力してソ連を攻撃すべきであるという主張が勢いを持ちました。7月2日の第5回御前会議において、対ソ連戦に向けた武力的準備を整えるという方針を含んだ「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定されると、大本営は、ソ連攻撃の準備という点は内外に明らかにせず、あくまで軍事演習という名目によって、同7日に満州の関東軍への戦力の動員を開始しました。この時、朝鮮半島や台湾に留まっていた日本軍から兵力や物資が集められ、関東軍は従来よりもはるかに大きな規模・戦力を持つこととなりました。
 しかし、ドイツとソ連との戦いでは、ドイツ軍の有利な状態は日本が期待していたほどには続かず、また、日本軍の南部仏領インドシナ進駐(7月28日)などを契機としてアメリカやイギリス、オランダと日本との間の緊張状態が加速したこともあり、日本政府は、ソ連方面(北方)よりも東南アジア方面(南方)へと政策の重点を移していきました。これをうけ、大本営は8月9日には年内のソ連攻撃の可能性を断念し、関特演によって増強された関東軍によるソ連侵攻は実行されることなく終わりました。そして、その戦力の一部はやがて南方における作戦へと次第に振り分けられていくことになります。
 関特演に関連して、以下のような資料があります。

資料1:C01003694900 関東軍特別演習見学に関する件
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資料2:C01003690200 時局関係事項の秘匿称呼に関する件(4〜5画像)
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資料3:C01003700400 航空要員教育に関する件
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 資料1は、6月20日に、関東軍参謀長の吉本貞一より陸軍省副官の川原直一に宛てて送られた、「関東軍特別演習」の見学者についての問い合わせです。この演習は、軍を2つに分け、一方を日本軍、もう一方をソ連軍に見立てて模擬戦を行なうというものでした。これには、6月10日の日付の付された、演習の規定(演習統監の河邊正三陸軍中将による)や参加部隊の編成要領も添えられています。こうした資料から、ドイツ・ソ連戦が開始される以前の時点で、実際に関東軍における軍事演習が、後に関特演(こちらは資料上で「関東軍特種演習」と称されています:資料2を参照)が実施されることになる時期に予定されていたことがわかります。
 資料2は、吉本関東軍参謀長が陸軍次官の木村兵太郎に宛てて送った、昭和16年(1941年)6月26日付の通牒です。ここでは、「独「ソ」開戦ニ伴フ時局関係事項ニシテ業務処理ノ為平時的事項ト截然区別スルヲ要スルモノハ自今関東軍特種演習(関特演)ノ秘匿名称ヲ使用スルコトニ定メラレタルニ付通牒ス」と記されており、「関東軍特種演習(関特演)」という名称が、対ソ連戦に備えたものであることを隠すためのものであったことがわかります。
 資料3は、吉本関東軍参謀長から陸軍航空本部に宛てて送られた、関特演のためのパイロットの訓練に関する電報です。
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