アジ歴ニューズレター第31号

2020年3月31日 発行

今⽇の資料

カウラ俘虜収容所脱走事件
(注:本稿では、当時の外交公電の表記に即し、「俘虜」の表記を使用しています。)

 毎年夏の8月6日と9日の広島と長崎での原爆死没者慰霊式、そして8月15日の終戦記念日、多くの日本人にとっては一年のこの頃、特に戦争の悲惨さや平和の大切さについて考えさせられる機会の多い時期ではないかと思います。
 広島での原子爆弾投下から遡ることほぼ1年前の1944年8月5日未明、日本とは季節が逆のオーストラリア・ニューサウスウェールズ州のカウラ俘虜収容所で、ニューギニア戦線などで俘虜になった日本兵ら約1,100人が集団脱走事件を試みた結果、日本人将兵231名が死亡し、オーストラリア軍も死者4名を出したオーストラリア史上最大の戦争俘虜脱走事件が起きたことについて知る人は少ないかもしれません。事件後、オーストラリア人によって犠牲者の墓地が建立され、現在では、毎年8月5日にカウラ市の主催により、日豪関係者が出席しての慰霊式典が行われています。筆者はかつて在シドニー日本国総領事館で勤務した関わりで同式典に出席したことで、初めて事件のあらましを知ることができました。その時は歴史に対する自らの無知を恥ずかしく思い、同時にオーストラリア人は敵国である日本人俘虜の犠牲者を手厚く葬り、オーストラリア人戦死者と同じ墓地の敷地に埋葬したという世界中でもあまりない事例に、人道主義の精神、さらにオーストラリア人の懐の深さを感じずにいられなかったことを今でも鮮明に覚えています。
 カウラ事件の概要については、アジ歴で公開されている当時の外務省の電信記録からも知ることができます。当時、在スイス日本帝国公使館は、スイス政府から受領した同国の在オーストラリアの総領事館員が作成した収容所視察及び事件後の査問委員会の調査書を、東京の外務本省に公電で報告していました。日本政府は事件発生前から、収容所内の様子についてある程度把握が出来ていたと考えられます。それでは、アジ歴データベースから資料を取り出しながら追ってみたいと思います。

【画像①】事件発生を伝える在スイス日本帝国公使館から外務本省への電信(「2.対英国(含属領)/7.集団脱走事件(対濠) 抗議日 昭和19年8月5日」(Ref. B02032491300、2画像目)。
 事件が起きたカウラは、シドニーから道路距離で約320キロ西に位置する人口約1万人の町です。第二次世界大戦中、カウラには連合軍の第12俘虜収容所が置かれていました。設置場所としてカウラが選ばれた理由としては、内陸に位置し、脱走しにくいことが挙げられるでしょう。収容所の敷地は12角形をとっており、直角に交わる2本の道路で、A・B・C・Dの4ブロックに分かれていました【画像②】。Bブロックには日本人の下士官と兵、Bブロックの反対側に位置するDブロックには日本人将校と少数の朝鮮・台湾人俘虜、残るAとCのブロックにはイタリア人の俘虜が収容されていました。事件はBブロックで起きました。

【画像②】収容所跡地に展示されている当時の収容所の配置図(2017年11月、筆者撮影)。
 当時の外務省の公電記録にある、在シドニーのスイス総領事館がオーストラリア外務省から入手したオーストラリア陸軍軍事法廷カウラ事件査問委員会報告書(Ref. B02032491300、8~17画像目)から確認できる事件の経緯は次のとおりです。
 カウラ事件査問委員会は事件後の1944年8月7日~15日に開設され、その期間中に60名にわたる目撃者が証言しました。

・1944年8月5日(土)の午前1時50分頃、無許可のラッパ音が収容所のBブロック内に聞こえ、続けて900名を超える俘虜が大音声と共に営舎の塀に突撃した。
・俘虜の大群は収容所の塀の2個所を突破した。他の一群は自らの宿舎と収容所内の道路を隔てる塀を突破した。
・俘虜は小屋を出る前に、宿舎に放火した。
・俘虜は「ナイフ」(うち食卓用「ナイフ」1,000本以上、その多くは研磨され尖り、または鋸歯を附して攻撃用武器として準備された)、「パン」切り包丁を改造して作った刀剣、野球用「バット」及び即製の棍棒など各種の武器で武装した。
・俘虜は、鉄条網の塀を乗り越えるにあたり、手を保護するため、野球用「グローブ」及び特製の手袋及びチリ紙の束を身に付けた。突破の際に鉄条網に掛けるため3枚の毛布を用意した。多くの俘虜は2、3着の被服を纏い、体にタオルを巻き付け、米袋から作られた数本の縄を携帯した。
・1944年8月14日(月)午前9時、日本俘虜によって確認された死傷者は次のとおり。
 士官1名死亡、その他の兵230名が殺され、或いは負傷または自殺により死亡した。士官1名負傷、その他の兵10名負傷(注:オーストラリア国立公文書館所蔵のニューサウスウェールズ州首相府発連邦首相府宛の報告書においては、兵の負傷は107名とする記述があります)。
・死亡した日本人士官の葬儀では、オーストラリア軍の古参将校の他、2名の日本人士官及びその他の兵4名が棺を運んだ。
・オーストラリア軍の死傷者は次のとおり。
 士官1名死亡、その他の兵3名死亡。負傷兵4名。

 何人かは脱走に成功しましたが、数日のうちに全員の身柄が確保されました。事件は気温一桁の真冬の寒さの中で敢行されましたが、脱走できたとしても、300キロ以上離れた最寄りのシドニー港までに辿り着くには至難と思われます。このような無謀とも思える行動に追い込んだのは過酷な抑留生活によるものでしょうか。当時の在スイス日本帝国公使館から外務本省(主管課:在敵国居留民関係事務室)宛に送付された在シドニーや在メルボルンのスイス総領事館員によるカウラ俘虜収容所の視察の報告書【画像③】によると、俘虜の待遇が劣悪だったという指摘はなく、俘虜の待遇は驚くほど人道的な扱いを受けていたことが浮かび上がります。視察は1943年5月27日、同年7月29日~31日、同年9月8日及び1944年の1月6日に実施されたとの報告書があり、基本的に下記項目に基づき定点観測的に調査が行われました。同報告書の一部抜粋は次のとおりです。ちなみに、食糧目標の欄に記載の「羊肉」は今でもカウラの名産品であり、日本にも輸出されています。

・所有物
 若干の俘虜は時計を没収されたが、これに対する領収書を交付。
・食糧
 朝食:ポリッジ、パン、バター、ジャム及び牛乳。
 昼食:米飯。
 夕食:紅茶、米飯、野菜及び肉。
 他に一週間に紙たばこ35本または同量の煙草を給与。
・衛生設備
 衛生設備はあり、苦情なし。眼科医は月に一度来診。
・労働
 有償労働には頑強なる身体を必要のため、該当者は少ない。就働率は8%に過ぎず、殆どは庭園整理、伐採、薪割りなどに従事。
・運動及び娯楽
 野球、籠球、フットボールや相撲など。
・週1,000人分の食糧目標(明記が無い限り単位はポンド)
牛肉:100、羊肉:25、豚肉:100、鮮魚:300、卵:8.5ダース、パン:420、バター:24.5、ビスケット:5、米:700、砂糖:105、野菜:170など。

【画像③】カウラ俘虜収容所の視察報告書(「2 濠州コウラ収容所 2」(Ref. B02032530400、4画像目)。
【画像③】カウラ俘虜収容所の視察報告書(「2 濠州コウラ収容所 2」(Ref. B02032530400、8画像目)。
 元カウラ会会長の故・堂市次郎氏は収容所内の様子について次のとおり回想しています。
 「・・・(カウラ収容所での)豪兵は作業の能率等はやかましく言わず、自由に任せていたようで、毎日ピクニックに行く如くで、志願者が多く班長も人選に困る位で、余分に割込まれるので手を焼いていたものだ。・・・。食糧も充分あり、ビスケットは食べ切れずに全部ストーブで焼却した。日本の食糧不足を思えば、もったいないことであった。日本人は米食だから、米を支給させ、魚をよこせと言えばニュージーランドから輸入して支給してくれた。」(常市次郎「カウラ捕虜収容所脱出事件」(『新評』1972年8月号))。

 そんな恵まれた環境に置かれていたにもかかわらず、俘虜たちは「死」を前提とした脱走を選んでしまいました。日本人を脱走に駆り立てた根本的な理由の一つとしては、当時の日本人の心にあった「戦陣訓」の一節である「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という道徳観にあるでしょう。命を落とした多くの俘虜が「虜囚となった恥辱」から偽名を使ったため、事件後に建立された墓の中に眠るすべての人々の本名は、今に至っても分かっていません。カウラ事件を通して考えさせられるのは、刷り込まれた価値観がいかに根深いものかということです。
 しかし、この事件がきっかけとなって、戦後、日本とオーストラリアの交流が始まるのです。現在この事件が起きた場所は更地になって建物は残っていませんが、俘虜収容所跡として看板が建てられ、日本人を含む多くの人が訪れる場所となっています【画像④】。カウラには戦後、日本人戦没者等の墓地の他、俘虜収容所跡地、南半球最大の日本庭園【画像⑤】が整備されました。さらに日本庭園と収容所跡地を結ぶ通りに桜の木が植えられた「桜アベニュー」も作られ、毎年9月の開花の時期に合わせて桜祭りが行われています。カウラ市長の提案を受けて、1970年に始まったカウラ高校と成蹊高校による生徒間の交換留学プログラムは今でも続いています。2003年には、カウラ市と第二次世界大戦中に連合軍の俘虜収容所が置かれた新潟県上越市との間で「平和友好交流意向書」が調印され、市長の相互訪問や中高生のホームステイなどの交流事業が行われています。
 このように、かつての悲惨な事件が起きたカウラ市は、多くの前人たちの弛まない努力により、現在は日本とオーストラリアの和解と友好を象徴する場所になっています。

【画像④】収容所の跡地(更地状態)(2017年11月、筆者撮影)。
【画像⑤】カウラの日本庭園(2017年11月、筆者撮影)。
【画像⑤】カウラの日本庭園(2017年11月、筆者撮影)。
【参考文献】
永瀬隆、吉田晶編『カウラ日本兵捕虜収容所」(青木書店、1990年)
スティーブ・ブラード著、田村恵子訳『鉄条網に掛かる毛布』(オーストラリア戦争記念館発行、2006年)
土屋康夫著『カウラの風』(KTC中央出版、2004年)
鎌田真弓編『日本とオーストラリアの太平洋戦争』(お茶の水書房、2012年)
<資料情報専門官 土田浩一>