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関連用語集

靉河(あいが/アイハー)

靉河(あいが/アイハー)
鴨緑江の支流です。清国側を流れ九連城附近で鴨緑江にそそぐため、日清戦争では、鴨緑江を渡河し清国領内に入った日本軍とこれを迎え撃った清国軍との間で、この河の沿岸で激しい戦闘が起きました。

威海衛(いかいえい/ウェイハイウェイ)

威海衛(いかいえい/ウェイハイウェイ)
山東半島の東端に位置する都市で、現在の中華人民共和国の山東省威海市にあたります。古くから朝鮮半島との交通の要衝でしたが、明代から軍事拠点が築かれ、清代末になると、北洋艦隊の母港となりました。日清戦争では、黄海海戦などで戦力を低下させた北洋艦隊がここに留まりましたが、日本軍は山東半島への上陸を行い陸海からここを攻撃、威海衛は陥落し、北洋艦隊も壊滅しました。日清戦争後にはイギリスの租借地となり、ポート・エドワード(Port Edward)とも呼ばれるようになりました。

鴨緑江(おうりょくこう/ヤールージャン/アムノッカン)

鴨緑江(おうりょくこう/ヤールージャン/アムノッカン)
朝鮮半島の付け根にある白頭山(長白山)を発し、東西に流れて黄海にそそぐ大河で、清国と朝鮮の国境となっています(現在は中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国の国境です)。日清戦争では、朝鮮半島を北上した日本陸軍の部隊がこの河を渡り、清国内に攻め入りました。これによって、主戦場は清国国内へと移動していきました。

海城(かいじょう/ハイチョン)

海城(かいじょう/ハイチャン)
遼東半島の付け根から北東方向約80kmに位置する都市で、現在の中華人民共和国の遼寧省鞍山市内にある海城市にあたります。清国末期には奉天府に属しており、交通上の要衝となっていました。このため日清戦争では清国軍が拠点としましたが、日本軍第1軍の攻撃により陥落しその占領下におかれました。しかし、その後も奪還を目指す清国軍と日本軍との間で激しい戦闘が繰り返されました。

牙山(がざん/アサン)

牙山(がざん/アサン)
朝鮮半島中部、漢城の南方向約90km、全州の北方向約110kmに位置しています。甲午農民戦争勃発に際して朝鮮政府から出兵要請を受けた清国軍は海路を移動し、明治27年(1894年)6月8日に、農民軍が占領した全州と漢城の中間に位置するこの牙山への駐留を開始しました。しかし、その後日本も出兵して戦闘が始まり、7月29日に附近の成歓にいた清国軍部隊が日本軍に撃破される頃には、牙山の部隊もここが戦闘には不利な地形とみて既に移動していたため、この地は日本軍の占領下におかれることとなりました。

漢江(かんこう/ハンガン)

漢江(かんこう/ハンガン)
朝鮮半島中部を流れ黄海にそそぐ大河で、下流の河畔には首都漢城が位置します。丙寅洋擾(1866年)の際には、フランスの軍艦がこの漢江を遡り、漢城近くにまで迫りました。

漢城(かんじょう/ハンソン)

漢城(かんじょう/ハンソン)
朝鮮半島中部に位置する李氏朝鮮時代の朝鮮の首都で、現在の大韓民国の首都ソウル(首爾)にあたります。京城(けいじょう/キョンソン)とも呼ばれ、日本ではこの呼称もよく使われていました。国の中枢として朝廷が置かれ、国王が政治を執り行いましたが、日清戦争前の朝鮮の朝廷では政権をめぐる争いが激化していました。また、日本の公使館も置かれており、この争いに大きく関わっていきました。壬午事変(1882年)と甲申政変(1884年)の際には漢城への出兵をめぐって日清間の緊張が高まり、甲午農民戦争勃発に際しての両国出兵をきっかけに日清戦争が始まりました。

金州(きんしゅう/ジンジョウ)

金州(きんしゅう/ジンジョウ)
遼東半島の突端部の付け根に位置する都市で、現在の中華人民共和国の遼寧省大連市にある金州区にあたります。西に位置する大連や旅順と大陸を結ぶ要衝として古くから栄え、当時は城壁に囲まれた城塞都市でした。日清戦争が始まりしばらくした明治27年(1894年)11月、日本軍第2軍が遼東半島に上陸し、この金州は日清両軍間の戦闘の舞台となりましたが、やがて日本軍の占領下におかれることとなりました。なお、後の日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))の際にもこの金州では日露間の激しい戦闘が行われています。

九連城(くれんじょう/ジョウリエンチョン)

九連城(くれんじょう/ジョウリエンチョン)
鴨緑江を河口から35kmほど遡った西岸(清国側)に位置する都市です。日清戦争では、清国軍が鴨緑江を渡河した日本軍を迎え撃つための拠点となりましたが、日本軍が包囲して攻撃を行うと、清国軍は退きました。なお、後の日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))の際にもこの九連城では日露間の激しい戦闘が行われています。

元山(げんざん/ウォンサン)

元山(げんざん/ウォンサン)
朝鮮半島の付け根近くの東岸に位置する港湾都市です。1876年の日朝修好条規に従い1880年に開港した当時は漁村でしたが、以降整備が進められ発展を遂げていきました。日清戦争の前半期には、黄海の制海権を確保していなかった日本軍が、朝鮮半島への陸軍部隊の上陸のために使用し、多くの兵士がこの港から漢城、さらには清国内の戦場へと向かいました。

黄海(こうかい/ホアンハイ/ファンヘ)

黄海(こうかい/ホアンハイ/ファンヘ)
中国大陸(山東半島遼東半島)と朝鮮半島西岸に囲まれた海で、南に東シナ海、西に渤海が接しています。日清戦争では、豊島沖海戦と黄海海戦の2回の海戦があったほか、開戦時の日清両軍の朝鮮半島への上陸、その後の日本軍の遼東半島や山東半島への上陸など、多くの軍事行動がこの黄海を舞台に行われました。

江華島(こうかとう/カンファド)

江華島(こうかとう/カンファド)
朝鮮半島中部西岸に接する島で、首都漢城を通った漢江黄海にそそぐ河口に位置しています。このため、軍事的には漢城を守る要衝となっており、1860年代から1870年代にかけて朝鮮の開国を求める各国の艦隊がやってきた際には、漢城方面へと進むためにこの地を拠点として測量を行うなどし、朝鮮の軍隊との間で戦闘が起きることも多くありました。1876年にはこの地で日朝修好条規(江華条約)が結ばれ、朝鮮は日本との通商を開始し開国に至りました。

山東半島(さんとうはんとう/シャンドンバンダオ)

山東半島(さんとうはんとう/シャンドンバンダオ)
渤海の南端を形成している半島で、北側では遼東半島と向き合って渤海海峡を形成し、渤海と黄海とを隔てています。東端部に位置する威海衛は清国の北洋艦隊の拠点であったため、日清戦争では日本軍が上陸作戦を行って陸海からここを攻撃、その結果北洋艦隊は壊滅しました。日清戦争後は、半島南岸に位置する膠州湾一帯がドイツの租借地となりました。そして、ドイツ占領下で作られた鉄道やこの地域の権益をめぐる問題に、日本も後々まで深く関わっていくこととなります。

仁川(じんせん/インチョン)

仁川(じんせん/インチョン)
朝鮮半島中部西岸の港町で、首都漢城を通った漢江黄海に注ぐ河口の南に位置するため、海路による漢城への入口となっています。1876年の日朝修好条規に従い1883年に開港した当時は小規模な港町でしたが、後に港湾都市として大きな発展を遂げました。なお、当初は済物浦(さいもっぽ/チェムルポ)と呼ばれていました。日清戦争の開戦前夜に漢城方面に派遣された日本軍はこの仁川に上陸し、その後も後続部隊が朝鮮半島への上陸にこの港を用いました。

成歓(せいかん/ソンファン)

成歓(せいかん/ソンファン)
朝鮮半島中部、漢城の南方向約75km、全州の北方向約130kmに位置しており、全州に至る全州街道に接しています。甲午農民戦争勃発に際して朝鮮政府から出兵要請を受け、明治27年(1894年)6月8日に牙山への駐留を開始した清国軍は、牙山の北東に位置するこの成歓の駅付近にも陣地を構えました。しかし7月29日に、この地の清国軍部隊は牙山の攻撃に向かう日本軍によって撃破されました。

全州(ぜんしゅう/チョンジュ)

全州(ぜんしゅう/チョンジュ)
朝鮮半島南部に位置する都市で、李氏朝鮮時代には全羅道の首邑(中心地)として栄えました。1894年春の甲午農民戦争勃発の際、農民軍は最初に全羅道の古阜郡で武装蜂起を起こしており、5月末にはこの全州に入りここを占領しました。その直後に農民軍と朝鮮政府との間でこの地で和約が結ばれたと言われ、武装蜂起は一時は治まっています。同じころに蜂起の鎮圧を名目として派遣された清国軍の一部はこの全州に駐留しましたが、前後して出兵してきた日本軍との戦いの中で退きました。

大同江(だいどうこう/テドンガン)

大同江(だいどうこう/テドンガン)
朝鮮半島北西部を流れ黄海にそそぐ大河で、下流の河畔には平壌が位置します。ジェネラル・シャーマン号事件(1866年)の際には、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号がこの大同江を遡って平壌附近の羊角島に停泊し、朝鮮に対し通商を求めたことから事件が起きました。

台南(たいなん/タイナン)

台南(たいなん/タイナン)
台湾島の南部西岸に位置する都市です。明国期にオランダ東インド会社による台湾統治(1624年~1662年)の拠点となり、その後も鄭氏政権(1662年~1683年)の首都とされたことから、台湾島の中心地として発展を始めました。清国末期の1885年に台湾省が設置された際には、省都(台湾府)が台湾中部(現在の台中)とされたことで、行政上の中心ではなくなりましたが、依然としてこの地を拠点とする台湾島南部の商業活動が台湾経済において重要な位置を占めました。台湾征服戦争では、日清講和条約による日本への台湾割譲に反発する人々が建てた台湾民主国が、一旦体勢を崩した後、台湾を脱出した唐景崧総統に代わって指導者となった劉永福の下、この地で再び勢いを取り戻しました。しかしやがて日本軍の攻撃によって崩壊し、明治28年(1895年)10月21日にはこの地も陥落しました。その後の日本統治期においてもこの地は開発が進み、経済的な重要性を保ち続けていきます。

台北(たいほく/タイペイ)

台北(たいほく/タイペイ)
台湾島の北部に位置する都市です。清国期に入ってから発展を遂げ、台北府が設置されるなど行政上の拠点の1つとなっていましたが、都市化は遅れていました。1885年に台湾省が設置されたことをきっかけに、清国政府による本格的な開発が始まりました。日清講和条約によって台湾が日本に割譲されることが決まると、日本はこの地に台湾総督府を設置し、台湾島及び澎湖島統治の中枢としました。明治28年(1895年)6月7日には日本軍がこの地を占領、17日に台湾総督府の始政式が行われています。その後、昭和20年(1945年)10月25日に台湾総督府が中華民国に降伏した後に廃止されるまで、50年間にわたって日本による台湾統治の拠点となりました。

釜山(ふざん/プサン)

釜山(ふざん/プサン)
朝鮮半島南東部に位置する港湾都市です。日本と近い位置にあるため、古くから朝鮮半島と日本列島との交流の要衝となっており、中世以来倭館(日本人居留地)が置かれていました。1876年の日朝修好条規に従い同年開港され、以降整備が進められ発展を遂げていきました。日清戦争の前半期には、黄海の制海権を確保していなかった日本軍が、朝鮮半島への陸軍部隊の上陸のために使用し、多くの兵士がこの港から漢城、さらには清国内の戦場へと向かいました。

平壌(へいじょう/ピョンヤン)

平壌(へいじょう/ピョンヤン)
朝鮮半島北部に位置する都市で、現在は朝鮮民主主義人民共和国の首都です。李氏朝鮮時代には平安道の首邑(中心地)として栄えました。1866年には大同江を遡ったアメリカ船が平壌附近の羊角島(大同江の中州)に停泊し、ジェネラル・シャーマン号事件が起きました。日清戦争中には清国軍がここに陣地を構え、明治27年(1894年)9月15日にこの戦争で初めての大規模な陸戦である平壌の戦いが起きました。

鳳凰城(ほうおうじょう/フォンホワンチョン)

鳳凰城(ほうおうじょう/フォンホワンチョン)
遼東半島の付け根から東北方向約100km、九連城の西北方向約40kmに位置する都市で、現在の中華人民共和国の遼寧省丹東市内にある鳳城市にあたります。日清戦争では、清国軍が九連城から奉天方面に向かう日本軍を迎え撃つための拠点となりましたが、日本軍が攻撃を開始した時点で清国軍は退却を始め、鳳凰城はまもなく日本軍の占領下におかれました。

奉天府(ほうてんふ/フォンティエンフー)

奉天府(ほうてんふ/フォンティエンフー)
遼東半島の付け根から北方向約200kmに位置する都市で、現在の中華人民共和国の遼寧省の省都である瀋陽市にあたります。古くからの要地であり、後金の時代には一時首都が置かれ盛京(ムクデン)と称されました。後金が国号を清(大清)と改め首都が北京に移された後は奉天府が置かれて副都とされ、清国の東北地方の中心地として栄えました。日清戦争では、奉天の町が戦場になることはありませんでしたが、奉天府の広大な領域にに属する海城まで日本軍は進み、清国軍との間で戦闘が起きました。なお、後の日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))ではこの奉天を舞台にこの戦争最後の大規模な陸戦である奉天会戦が行われています。

豊島(ほうとう/プンド)

豊島(ほうとう/プンド)
朝鮮半島中部の西岸、仁川から南西方向約50kmの海上に位置する島です。日清戦争開戦時(宣戦布告がなされる前)の明治27年(1894年)7月25日、この島の沖合で日本の艦隊と清国の艦隊(輸送船団)が遭遇し、戦闘が起きました(豊島沖海戦)。

遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンバンダオ)

遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンバンダオ)
黄海の北端、渤海の東端に位置する半島です。南側の付け根には鴨緑江の河口があり、これを挟んで朝鮮半島に続いています。また、半島の西端には突端部があり、ここに大連や旅順などの要地が位置しています。日清戦争では、日本軍は陸路を伝ってこの遼東半島付け根一帯の要地を攻めたほか、海路を伝って突端部付近に上陸し、旅順などを攻撃しました。戦後、日清講和条約によってこの半島は日本に割譲されましたが、まもなく三国干渉が起こり返還することとなりました。日露戦争(明治37年(1904年)-明治38年(1905年))ではこの地は再び激戦地となり、戦後、日露講和条約に基づく、満州に関する日清条約によって突端部を含む関東州(旅順、大連地区)が25年間、日本に租借されることになりました(大正4年の21カ条条約で99年間となります)。のちに南端部の旅順には関東軍司令部が置かれます。

旅順(りょじゅん/リューシュン)

旅順(りょじゅん/リューシュン)
遼東半島の突端部の西端に位置する都市で、現在は中華人民共和国遼寧省大連市の一部となっています。天然の港湾を備えており、1870年代から清国が軍港の建設を始め、北洋艦隊の拠点となりました。狭まった開口部を持つ港湾は旅順口(りょじゅんこう)と呼ばれています。また、欧米ではポート・アーサー(Port Arthur)と呼ばれます。日清戦争では、日本軍は清国艦隊の動きを封じるために、海路から付近に上陸した第2軍によって旅順港と市街を攻撃しこれを占領しました。その後、日清講和条約によって一時は日本の領地となりましたが、三国干渉によって清国に返還されました。1898年にロシアの租借地となると、ロシア艦隊の拠点として要塞化が進み、日露戦争(明治37年(1904年)‐明治38年(1905年))では旅順港をめぐって激戦が行われました。その後、旅順と大連を含む関東州が日本に租借されると、やがてここに関東軍司令部が置かれることとなりました。

連山関(れんざんかん/リエンシャングアン)

連山関(れんざんかん/リエンシャングアン)
遼東半島の付け根から北東方向約130km、鳳凰城奉天府の中心のほぼ中間に位置します。山間部の土地であり、後には避暑地として栄えました。日清戦争では、鳳凰城から奉天府方面へ進んだ日本軍がこの地で清国軍と戦闘を行いました。