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コラムNo.3 【 終戦後における戦争調査および史実調査 】

太平洋戦争の終戦直後、日本ではこの戦争に関する二種の調査機関が設置されることとなりました。


ひとつは内閣の下に置かれた“大東亜戦争調査会”であり、もうひとつは第一復員省および第二復員省の下に置かれた“史実部”ないしは“史実調査部”でした。


この二種の調査機関は、その設置過程において大きな相違点がありました。


それは、前者が日本政府、すなわち当時の幣原内閣の意思により組織されたものであったのに対し、後者は連合国軍総司令部(GHQ)の指示により組織されたという点でした。

1. 日本政府による戦争調査―戦争調査会

大東亜戦争調査会は、1945年10月30日の幣原内閣による閣議決定「敗戦ノ原因及実相調査ノ件」と、それに続く同年11月20日の「大東亜戦争調査会官制」に基づき、内閣総理大臣の下に設置されました。


もちろん、連合国軍の占領下という状況にあったため、大東亜戦争調査会の設置はGHQの了解の下になされましたが、その設置には幣原内閣の意思が強く働いていたと言えるでしょう。


なお、大東亜戦争調査会という名称については、GHQの指示により“大東亜”の文言が削除されることとなり、1946年1月11日の官制改正で正式に戦争調査会と改称されました。


戦争調査会には、第一部(政治・外交)、第二部(軍事)、第三部(財政・経済)、第四部(思想・文化)、第五部(科学・技術)が設置され、開戦原因や戦時体制の問題点、統帥面や作戦面など、総合的な戦争調査が計画されていました。


そのため、構成人員も政治家や官僚、学術界、経済界などから幅広く参加していました。


また、統帥や作戦など軍事面の調査も対象となっていたため、関連する資料の収集やその分析において、旧陸海軍関係者も参加していました(功刀1996年、83~85頁)。




画像1 宮崎周一「戦争調査会書類」
(アジ歴Ref:C14061079700

終戦時に参謀本部の作戦部長であった陸軍中将・宮崎周一は、その代表的な人物でした。宮崎は戦後、1945年10月15日の参謀本部廃止、および同年11月30日の陸軍省廃止までは参謀本部第一部長として、1945年12月1日の第一復員省設置後は第一復員省史実部長として終戦処理および調査業務に携わっていました。


そして、宮崎は第一復員省史実部長の立場で、戦争調査会にも参加していました。


防衛研究所戦史研究センター所蔵で、アジ歴データベースでデジタル画像を公開している「陸軍一般史料‐文庫‐宮崎」という資料群には、宮崎が所蔵していた戦争調査会に関する資料を閲覧することができます(画像1)。



しかし、連合国軍総司令官の諮問機関として1945年12月28日に設置され、アメリカ・英連邦・ソ連・中華民国の代表により構成されていた対日理事会において、ソ連および英連邦の代表から、旧陸海軍関係者や戦争に協力した科学者などが戦争調査会の構成員に含まれていることに対し批判がなされました。


その結果、対日理事会における連合国側の意見対立の長期化を危惧したアメリカにより、日本政府に対し戦争調査会の廃止が通告され、同調査会は設置後一年を経ずして1946年9月30日に廃止されることとなりました(冨田2013年,103~105頁)。

2. 旧陸海軍関係者による戦争調査―史実部・史実調査部

第一復員省史実部(※)および第二復員省史実調査部は、前述のとおり、GHQの指示に基づき設置された部署でした。


1945年10月12日、GHQは日本政府に対して「戦争記録調査の指示」(日本国政府宛命令(SCAPIN)第126号)を発出し、太平洋戦争に関わる記録の収集を指示しました(田中2009年,372頁)。




画像2 「日本国政府宛命令第828号」
(アジ歴Ref:C15010010300

アジ歴で公開している「戦争記録調査機関に関する件」という資料には、日本国政府宛命令第126号が出されたおよそ半年後の1946年3月27日に、GHQのB. M. Fitch准将から発出された日本国政府宛命令第828号が含まれていますが、戦争記録調査機関(the Institution for War Records Investigation)への旧日本軍人の人員供出を指示する内容であり、GHQの同調査機関運営に対する強い意思が感じられます(画像2)。


前出の陸軍中将・宮崎周一が記した日誌には、「厖大ナル諸調査(中略)ノ要求アリ」(1945年10月24日)、「史実部ノ編成ノ研究ヲ第二課ニテ為ス」(1945年10月30日)といった記述があり、史実部の設置が上述のGHQの指示に関連した対応であったことが分かります(『宮崎周一日誌』,防衛研究所所蔵:中央‐作戦指導‐558)。


上述のとおり、参謀本部は1945年10月15日に廃止され、参謀総長・次長は退任となりましたが、参謀本部第二部長であり、連合国軍との折衝を担当した陸軍中将・有末精三の回想によれば、参謀本部廃止の後、「当面復員の諸業務のため第一部(作戦、編制、兵站)部長宮崎周一中将以下作戦課長服部卓四郎大佐などを中心として陸軍省に移って史実部となり、戦史の編さん準備という名目の下に整理に当っていた。部長(わたし)の不在であった第二部(ソ、英米、独伊、支那各課)および第三部(運輸、通信関係)の各課長以下も一応史実部に入り連合軍要求の諸調査や戦犯容疑についての対策上の諸研究に当っていた」という状況でした(有末1976年,200頁)。


なお、参謀本部には戦時中にすでに史実部があったことを窺わせる史料があります。


例えば、アジ歴で公開している「比島作戦記録目録」という資料の冒頭には、「本記録は第一復員省史実調査部に於て参謀本部史実部(在中野)の起案したるものに若干の増補を為せるものなり」、「参謀本部史実部の起案 昭和十八年春より同年秋に亘る間に於て予備役陸軍少将鈴木謙二之を起案」との記載があります(アジ歴Ref:C14020645300)。


参謀本部史実部がどのような部署であったのか、また参謀本部にあったと思われる史実部と、宮崎周一を中心として戦後に設置された史実部に関連があったかどうかは不明ですが、終戦後、参謀本部廃止後に参謀本部から陸軍省に移された第一部が主体となっていたことから、何らかの連続性があったと推測されます。


海軍においては、終戦後の早い時期から、「大東亜戦争敗戦ノ原因ヲ調査シ之ガ対策ヲ研究シ新日本建設ノ資料タラシムル為」海軍省内に「大東亜戦争戦訓調査委員会」を設置していました(『海軍公報』第5175号、1945年9月3日、アジ歴Ref:C12070530400)。


また、1945年10月1日には、同じく海軍省内に「作戦関係資料蒐集委員会」が設置されましたが、この委員会設置の目的は「聯合軍ニ対シ提示スベキ作戦関係資料ヲ蒐集整理スル為」とされていました(『海軍公報』第5194号、1945年10月2日、アジ歴Ref:C12070530500)。


その後、海軍においても「聯合軍各司令部ヨリスル戦史資料聴取ヲ目的トスルモノト認メラルル海軍士官ノ召喚最近頻ニ頻繁トナリアル所」という状況となっていたことが、1945年10月12日の海軍省(先任)副官からの報告に記されています。


その報告によれば、海軍省としては「(GHQにより―引用者)指名ノ諸官ハ豫メ作戦資料蒐集委員会(目黒海軍大学校)ニ於テ打合ノ上資料提供ノ正鵠ヲ期セラルルト共ニ聯合軍側トノ用済後モ同委員会ニ出頭事後連絡ヲ為シ置カレ度」と通知していたように、当初はGHQの動きに警戒感を持っていたと思われます(海軍省副官「聯合軍ヨリ戦史資料聴取ノ目的ヲ以テ召喚セラルル諸官ノ行動ニ関スル件照会」1945年10月12日,防衛研究所所蔵:①中央‐終戦処理‐23)。


終戦から1945年10月15日の軍令部廃止、さらには1945年11月30日の海軍省廃止までにおける海軍の史実調査部設置がどのような経緯で行われたのかを示す史料を現在アジ歴で公開している資料中に見つけることはできませんが、1945年12月1日から陸軍の場合と同様に第二復員省の下に史実調査部が設置されることとなりました。




画像3 第一復員省史実部『支那事変発生ノ経緯』
(アジ歴Ref:C11110470800

それでは、そうした史実調査について、陸海軍軍人たちはどのような手法や意識で調査を進めたのでしょうか。


1945年11月19日に陸軍省軍務課が作成した「史実調査要領」によると、方針としては「陸軍トシテノ満洲事変、支那事変及大東亜戦争指導ノ実相ニ付其ノ史実ヲ調査スルニ在リ」、要領としては「1、先ヅ史実調査資料ヲ調整シソノ基礎ヲ確立ス(中略)聯合軍ヨリ要求アル史実調査ハ之ト併セ実施ス 2、次デ右資料ニ基キ史実調査ヲ完整ス」と規定していました(軍務課「史実調査要領ニ関スル件」1945年11月25日,防衛研究所所蔵:文庫‐柚‐24)。


この内容からは、陸軍関係者の間で連合国軍の調査指示を副次的なものとして、自らの求める史実調査を進めようとしていたことが窺えます。(画像3)


そうした史実部および史実調査部についても、前出の対日理事会の第十六回理事会(1947年10月2日開催)において、ソ連代表から、「史実調査部には作戦及び情報関係の前将校が居り、今次戦争に関し研究や調査を行って居るのである。何故復員庁に於てかかる事務が必要なのであろうか。(中略)日本参謀本部は正式に解消せられたといえども、今尚復員庁に逃げ込んで存在しているといわざるを得ない。但し過去と違うことは、執務している将校が制服の代りに平服を着ておる点のみである。日本政府は最高司令官の信任を奇貨として、前参謀本部の軍事的活動を正当化せんと試みておるということが憂慮せられる」との批判がなされました(外務省1979年,141~142頁)。




画像4 第二復員局総務部総務課在外部隊調査班『在外部隊情報第一号』史実調査部保管
昭和館所蔵)

しかし、史実調査資料が作成され、後世に残されたことにより、原史料の焼却や消失、連合国軍による接収などにより事実関係を知ることが難しくなっていた旧陸海軍の統帥や作戦、各部隊の行動といったものを、時を経ても詳細に知ることができるようになったのも事実です。(画像4)


その後、第一復員省史実部および第二復員省史実調査部は、1946年6月15日に第一復員省と第二復員省が統合されたことにより、それぞれ復員庁第一復員局史実調査部、復員庁第二復員局資料整理部に改編され、また1947年10月15日に復員庁が廃止されると復員庁第一復員局は厚生省管轄の第一復員局となり、史実調査部は資料整理部へと改称されました。


また、復員庁第二復員局資料整理部は、総理庁管轄の第二復員局資料整理部となりました。その後、1948年1月1日に厚生省第一復員局と総理庁第二復員局は厚生省の下に一元化されて復員局となり、陸軍の史実調査部門は復員局資料整理部、海軍のものは第二復員局残務処理部史実班に継承されました。


さらに、復員局は1948年5月31日に厚生省外局である引揚援護庁復員局に引き継がれ、陸軍の史実調査部門は引揚援護庁復員局資料整理部となり、海軍のものは第二復員局残務処理部資料課となりました。


そして、1952年1月13日に引揚援護庁が廃止されると陸海軍の史実調査部門もその幕を下ろすこととなりました。



史実部と史実調査部、および改編後の資料整理部などが行った史実調査の記録は、アジ歴データベースで多数公開しており、その内容をいつでもご覧いただくことができます。グロッサリー検索機能などを利用して、終戦後に行われた史実調査の記録にぜひ触れてみてください。



陸軍省および第一復員省の“史実部”については“史実調査部”と記載される場合もありますが、前出の宮崎周一の日誌および有末精三の回想においては、一貫して“史実部”の呼称が使用されているため、本稿では陸軍省・第一復員省の管轄下にあったものは“史実部”に統一します。

【 参考文献 】(五十音順)

  • 有末精三『終戦秘史 有末機関長の手記』1976年。
  • 功刀俊洋「大東亜戦争調査会の戦争責任観」(『歴史評論』第557号、1996年9月)。
  • 外務省編『初期対日占領政策 朝海浩一郎報告書(下)』(毎日新聞社、1979年)。
  • 呉地方復員局『終戦関係綴(昭和二十~二十一年)』(防衛研究所所蔵:①中央‐終戦処理‐23)。
  • 軍事史学会編『大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』(錦正社、2003年)。
  • 第一復員省『昭和二〇、八、一八~二〇、一二、二八 陸軍復員関係史料綴』(防衛研究所所蔵:文庫‐柚‐24)。
  • 田中宏巳「史実調査部と地図の行方」(小林茂編『近代日本の地図作製とアジア太平洋地域 「外邦図」へのアプローチ』大阪大学出版会、2009年、第四章)。
  • 冨田圭一郎「敗戦直後の戦争調査会について―政策を検証する試みとその挫折―」(『レファレンス』平成25年1月号、2013年1月)。
  • 春川由美子「復員省と占領政策」(『軍事史学』第31号、1995年9月)。
  • 宮崎周一『昭和二十年九月二十五日~昭和二十年六月十四日 宮崎周一日誌 復員時代日誌(1)』(防衛省防衛研究所所蔵:中央‐作戦指導‐558)。
  • 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14061079700、戦争調査会書類 (文庫-宮崎-95) (防衛省防衛研究所)」
  • 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15010010300、26.戦争記録調査機関に関する件 (中央-終戦処理-3) (防衛省防衛研究所)」
  • 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14020645300、比島作戦記録目録 (比島-全般-4) (防衛省防衛研究所)」
  • 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12070530500、10月 (0法令-海軍(二復)公報-160) (防衛省防衛研究所)」
  • 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11110470800、支那事変発生の経緯 戦争裁判参考資料 (支那-支那事変全般-189) (防衛省防衛研究所)」