アジ歴ニューズレター

アジ歴ニューズレター 第40号

2023年3月31日

今日の資料

本土復帰から70年 ー アジ歴資料からみる奄美群島返還の軌跡 ー

2023年は、1953年12月25日に奄美群島が日本に返還されてから、70年の節目に当たります。本稿では、2022年3月のアジ歴新規公開資料の一つ「南西諸島帰属問題 奄美群島」(外務省外交史料館提供)を中心に、奄美群島返還に関するアジ歴資料をいくつか紹介します。

奄美群島は、九州本土と沖縄諸島の間に飛び石状に連なる島々で、奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島及び与論島の8つの有人島といくつかの無人島から成っています。奄美群島は、太平洋戦争末期、米軍が侵攻した沖縄を目前にした本土防衛の最前線となり、空襲の対象ともなりました【画像1】。
日本の降伏文書調印から5日後の1945年9月7日に、奄美群島、沖縄などを含めた南西諸島の降伏文書調印式が行われました。調印式には奄美群島から高田利貞陸軍少将と加藤唯男海軍少将が参列し、降伏文書【画像2】に調印しました。

奄美群島が米軍の軍政下に置かれる前後の状況を記した資料については、奄美守備隊長として奄美群島の戦後処理に携わった高田利貞元陸軍中将の手記「奄美群島ノ戦後処理ニ就テ」が挙げられます。本手記では1945年8月から12月の間の奄美群島守備隊と米軍との折衝の概要などが記されており、高田氏は米第十軍司令官宛の第一書信にて、「戦後決定セラルベキ国境ノ適正ハ万世ニ亘ル太平ノ礎ヲ固クスル為絶対必要」と記し、奄美群島を日米間の紛争の地にしてはならないと、米軍に理解を求めていました。また高田氏は奄美群島が「琉球」(沖縄県)の一部ではなく、鹿児島県に属していることを米軍側に理解させようと努力もしていました。9月21日の米第十軍カンドン大佐による武装解除の指令書にて「北部琉球ノ兵器ヲ引渡スベシ」と記されていることを理由に、高田氏は「奄美群島ハ北部琉球ニ非ズ」と指令を拒否し、議論の末【画像3】、米軍から「奄美群島並ビニトカラ群島所在 ノ兵器」と訂正された電報が到来しました。

しかし1946年3月名瀬の大島支庁に設置された米軍政府の英語標記は「United States Navy Government of the Northern Ryukyu Islands」(北部南西諸島米国海軍軍政本部)となっており、軍政下の奄美群島の英語標記は「the Northern Ryukyu」(日本語訳では南西諸島)のままでした。

1946年1月29日に連合国軍総司令部によって発せられた行政分離に関する覚書【画像4】によって、奄美群島や沖縄を含めた北緯30度以南の南西諸島は、日本の政治行政の圏外に置かれることとなりました。この指令は2月2日に米軍政府から奄美群島の住民に宣言されたことから「二・二宣言」とも呼ばれ、3月には大島支庁内に米国軍政府が設置され、奄美群島は米国の軍政下に置かれました。

米国の軍政下において、奄美群島の経済は窮状に陥っていました。鹿児島県庁内に設置された大島復帰調査連絡委員会が1953年6月に作成した冊子「奄美大島復帰促進の経過」では、奄美群島経済の窮状について、輸出を遥かに上回る生活必需物資の輸入が「過度の金詰り」をもたらし、生産の縮小と失業者を増大させた結果、住民の生活水準が低下したとし、生活苦からの犯罪件数の増大や要救護者の激増、人口減少について取り上げています【画像5】。

こうした奄美群島の厳しい状況に対して、1951年以降、奄美群島の復帰運動が本格的に展開されました。同年2月に結成された奄美大島日本復帰協議会を中心に復帰請願署名運動が行われ、歎願書が日本政府などへ提出されました【画像6】。さらにこうした運動は奄 美群島内の学校などを舞台とした断食運動にまで発展しました【画像7】。

また、6月には奄美大島曰本復帰対策全国委員会が結成されるなど、日本各地での復帰支援運動もさらに拡大し、奄美群島・鹿児島県外の地方議会からも外務省などへ請願書が提出されました【画像8】。しかし1951年9月に調印された対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)の第3条にて米国を「唯一の施政権者とする信託統治制度の下に置くべき地域」の一つに、北緯29度以南の南西諸島が明記されたことにより、奄美群島は分離されたままとなり、復帰の実現は極めて困難なままでした。

奄美群島復帰への動きに大きな変化があったのは、1953年8月8日の吉田茂総理大臣、岡崎勝男外務大臣と米国のジョン・フォスター・ダレス国務長官の会談でした【画像9】。ダレス氏は同日夜、奄美群島の返還問題に関し、「米国政府は、日本政府との間に必要な取極が結ばれ次第、日本国が奄美群島に対する権限を回復するために、対日平和条約第3条に基づき奄美群島(the Amami Oshima Group)に対して有している諸権利を放棄することを希望します」という声明を発表しました【画像10】。

ダレス氏の声明では、奄美群島をいつ、いかなる条件で返還するのか具体的な提案がありませんでしたが、日本側の奄美群島の返還受入準備は着々と進められました。1953年9月には現地調査・引継ぎに関する折衝を目的として、日本政府調査団が奄美群島へ派遣されました。調査団の報告書には、奄美大島日本復帰対策委員会より提出された「奄美大島の日本復帰に関する要望書」【画像11】が添付されていました。要望書には奄美群島の復帰に関する要望事項と、行政・司法機構・経済・財政の緊急問題がまとめられおり、米国側にも提出されていました。また調査団の報告を参考にして、10月29日に「奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」案が臨時国会にて上程・可決され、また復帰善後処理費10億の補正予算も同時に通過しました。

ダレス氏の声明後、日本と米国で奄美群島返還に関する非公式の折衝がいくつか行われました。その一つが明確な返還地域の確認でした。ダレス声明後の1953年8月中には、外務省が大使館を通じて米国国務省に返還地域について問い合わせをしており、10月20日 に米国大使館側から返還に関する文書の附属として、返還地域の地図【画像12】が送られました。日本側としては返還地域を更に明確にする必要があると米国側に伝え、11月5日に米国政府から、返還地域を「北方北緯29度、南方北緯27度、西方東経128度18分及び東方東経130度13分を境界線とする区域内にあるすべての島、小島、環礁及び岩礁並びにその領水を包括する」という非公式回答がありました。

日本と米国との正式な協議が開始されたのは、1953年11月24日に返還に関する米国側の案【画像13】が日本側に提示されてからでした。米国案は公文案・附属書4通・公式議事録案から構成されており、附属書には返還後の奄美群島の「軍事権」「施設及び区域」「財政的及び政治的な取り決め」「範囲」についてそれぞれ明記されています。

上記の米国案の提示を受けて、日本側は11月27日に米国側の代表を外務省に招致し、1回目の正式会談【画像14】を開催しました。米国案に対する日本側の意見は米国側で検討され、日米双方の意見調整がなされましたが、奄美群島に流通していたB円の処理の問題は、最後まで日米の意見が一致しませんでした。B円とは、米軍占領下の沖縄県や奄美群島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍用手票であり、11月24日に提示された米国案の附属書Ⅲにて「1、日本政府はB円を回収し、無償で米国民政府に引き渡す」という一文が明記されていました。この一文に対して日本側は、1951年の鹿児島県鹿児島郡十島村の復帰の際には回収したB円は米国側が全額日本円をもって支払った例を引き合いに出し、米国側への無償での引き渡しについてその理由の説明を強く求めてきましたが、返還の実現をこれ以上遅らせることはできないとして、やむを得ず米国案を受 け入れることとなりました【画像15】。

B円の処理には新たな予算措置が必要なため、奄美群島返還に関する日米間の取極は、国会の承認が必要な協定の形式に切り替わりました。また12月16日の日米の打ち合わせにて、協定の発効日、すなわち奄美群島の返還日を12月25日に予定とすることが決定されました。12月24日午前、米国務省より協定案に関する最終的訓令が提出され、同日国会にて審議されました【画像16】。協定案は参議院・衆議院にて共に全会一致で可決され、直ちに外務省において調印式【画像17】が行われ、岡崎外務大臣とアリソン米国大使との間に協定の調印が完了しました。また協定とは別に「奄美群島及びその領水は、日本本土と南西諸島のその他の島におけるアメリカ合衆国の軍事施設との双方に近接しているため、極東の防衛及び安全と特異の関係を有する。日本国政府は、この特異の関係を認め、南西諸島のその他の島の防衛を保全し、強化し、及び容易にするためアメリカ合衆国が必要と認める要求を考慮に入れるものと了解される」という一文が明記された交換公文【画像18】が日米で取り交わせされており、返還後も奄美群島は日本の防衛上重要な地域のままでした。

 

【参考文献】

・梶浦篤「奄美諸島の返還をめぐる米国の対日・対ソ戦略」『国際政治』第105号、一般財団法人日本国際政治学会、1994年1月。

・小林武「奄美群島の日本復帰と沖縄との関係」『愛知大学法学部法經論集』第221・222合併号、愛知大学法学会、2020年3月。

・信夫隆司「奄美返還と日米密約」『政経研究』第53巻第2号、日本大学政経研究所、2016年10月。

・間弘志『全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動』南方新社、2003年2月

・原口邦紘「高田利貞「奄美群島ノ戦後処理ニ就テ」」『外交史料館報』第30巻、外務省外交史料館、2017年。

・平井一臣「奄美返還関係外交文書にみる復帰運動」『奄美ニューズレター』第17巻、鹿児島大学、2005年4月。

・国土交通委員会調査室斎藤貢一「奄美群島日本復帰60周年を経ての新たな取組-奄美・小笠原振興開発特別措置法の一部改正案-」『立法と調査』No.350、参議院事務局企画調整室、2014年3月。

<アジア歴史資料センター調査員 溝井慧史>