ここでは『写真週報』に掲載された多数の写真の中から、戦時下の人々の食生活に関わる写真を取り上げ、関連する文書資料などと併せて紹介します。
 
 

 昭和14年(1939年)2月22日付の『写真週報』53号では、「廉価で栄養価に富み、しかも簡単に出来て美味しい国策料理」として、鰯、鯨、兎を用いた料理が紹介されています。鰯、鯨は当時とくに漁獲高が多く、兎は毛皮を軍需防寒具に用いるために養殖が進められていました。

  資料1は、昭和14年(1939年)8月3日付で農林次官から陸軍次官に送られた「家兎屠殺制限規則公布ノ件」という文書です。農林省では毛皮用に軍に供出するために兎の増産につとめてきたが、夏季をむかえ肉の供給のために兎を処分するものが多くこのままでは毛皮増産に支障をきたすため、8月1日付で「家兎屠殺制限規則」を公布した、という旨が通知されています。

  資料2は、昭和14年(1939年)8月16日付の『週報』です。この中の「世界捕鯨戦の話」という記事(13画像目〜17画像目)では、当時の世界と日本の捕鯨の様子が紹介されています。





 『写真週報』には以上にみた「国策料理」の他にも、戦時下で生活物資が不足する中での料理の工夫に関する記事がしばしば見られます。上に掲げた昭和15年(1940年)9月4日付の『写真週報』132号では赤ちゃんの食事工夫講習会が、昭和16年(1941年)4月30日付の『写真週報』166号では職業に応じた摂取カロリーや代用食応用の献立などが紹介されています。

 資料3は、昭和15年(1940年)3月19日付で陸軍省の副官が陸軍技術本部長に送った「各官庁の食道に於ける昼食に代用食使用の件通牒」です。ここでは各省次官会議での決定をうけ、官庁の食堂における昼食で代用食を用いることが通牒されています。また「為念」として、この件は米穀の不足による応急処置ではなく「将来に於ける不測の用」等に応じる趣旨であることが記されています。





  その後も戦争に伴う物資不足が続く中、昭和15年(1940年)5月には砂糖、マッチの切符制による配給制度が決定され、翌昭和16年(1941年)の生活必需物資統制令公布以降には、全生活必需品に拡大されていきました。

 資料4は、砂糖、マッチの切符制を決定した昭和15年(1940年)5月10日付の「消費規正ニ関スル件」です。

 資料5は、昭和16年(1941年)3月31日に公布された生活必需物資統制令の御署名原本です。



 またこの時期の『写真週報』には、以上の画像に見られるように、「空閑池」を利用して鯉などの淡水魚の養殖をすすめる記事が見られます。その背景には、資料5に掲げた生活必需品統制令と共に公布された生活必需物資指定規則があったと考えられます。

 資料6は、この生活必需物資指定規則です。ここでは医薬品及衛生材料のほか、「農林大臣の定むる鮮魚介類」が統制の対象とされています。

 資料7は、昭和16年(1941年)4月9日付の『週報』235号です、ここでは資料5、資料6などをうけた「鮮魚介の配給統制」について、解説がなされています。




 昭和16年(1941年)12月に対米英戦が開始され、のちに戦局が悪化していくと、生活物資、特に食糧の配給量の不足は顕著になっていきました。上に掲げた昭和18年(1943年)4月7日付の『写真週報』266号には、配給不足の中での外食の諸相が紹介されています。清沢洌は同じ昭和18年(1943年)4月7日の『暗黒日記』において、3月23日から4月4日までの四国旅行にふれ、「汽車の中でほとんど昼食ができなかった。幸いにパンを持って行ったんでそれを食った」とした上で、「松山の一流旅館」でも昼食ができなかった、という状況を記しています。また昭和18年(1943年)6月12日の『同(日記)』において、大阪、神戸、名古屋、京都への講演旅行に触れ、「ホテルには砂糖がない。塩がない。一流ホテルでだ。」と述べています。


 このような食糧不足の中、首都である東京市では、空き地を農園として利用し食糧増産をはかることが奨励されました。上に掲げた昭和18年(1943年)4月28日付の『写真週報』269号、昭和18年(1943年)6月23日付の『写真週報』277号は、こうした農園の様子を取り上げており、特に後者では道路を畑にかえている様子がみてとれます。

 資料8は、昭和18年(1943年)6月18付で陸軍次官から関係陸軍部隊に発せられた通牒です。この資料でも食糧増産のための空閑地の利用を促進すべきことが伝えられています。


 このような食糧増産のための空き地の農園への転用は、その後もいっそう奨励されていきます。上に掲げた昭和19年(1944年)4月12日付の『写真週報』316号は、「戦時農園」の成果をあげるための種のまき方などが扱われています。

 資料9は、昭和19年(1944年)4月5日付で大政翼賛会事務総長が各地の支部長に通知した「五月ノ常会徹底事項通知ノ件」という文書です。ここでは5月の徹底事項として、「先づ食糧増産を」という課題が掲げられ、食糧増産のための米、麦、いも類や、その他雑穀や蔬菜など「すべて食用となるもの」の作付が奨励されています(2画像目)。




 このように農作物の増産がさかんに奨励される中、清沢洌は昭和19年(1944年)4月7日の『暗黒日記』において、次のような状況を記しています。

 「毎日の新聞は野菜のことばかりだ。ところが、その増産の奨励にかかわらず、馬鈴薯の種薯も、にらもいずれも種が配給されぬのである。官僚主義がいかに不生産的なものであるかが、この一事でも分るであろう。しかしフレキシビリチーのない日本人は未だ覚ることが出来ぬ。何か行詰ると「統制の不足」に持っていっている」。

 清沢はまた、昭和19年(1944年)2月13日の『暗黒日記』において、「食糧問題の窮迫が上下を通じて問題になつて来た。つまり満腹感が得られぬのである。」と記していましたが、この時期には政府も食糧問題をめぐる人々の動向に敏感になっていました。

 資料10は、昭和19年(1944年)1月付の「通信検閲より見たる最近の食糧事情と国民思想の動向」という資料です。内務省警保局外事課が作成したこの資料では、昭和18年(1943年)10月以降に東京近辺から中国、満州に送られた郵便物の中から食糧不足に関連して厭戦的な記述をしているものがまとめられています。

 資料11は、昭和19年(1944年)6月付の「食料不足を繞る流言蜚語の概要」という資料です。内務省警保局経済保安課が作成したこの資料では、食糧不足の中で語られた様々な「流言蜚語」がまとめられています。




 

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