日本政府はオリンピックを返上するとともに、同時期に予定していた博覧会も開催を延期することを余儀なくされました。こうして紀元二六〇〇年を記念するために計画された二つの事業が中止されましたが、昭和15年(1940年)11月に予定されていた紀元二六〇〇年の記念式典については着々と準備が進められていました。

  『写真週報』には、式典の準備の様子・当日の模様が掲載されています。詳しくは年表の昭和15年(1940年)11月10日「紀元2600年祝賀行事」の項目をご覧ください。式典は11月10日・11日の2日間行なわれ、5万5千人の参列者を迎えました。また、式典のほかに関連するさまざまな行事が企画されました。東亜競技大会もそのひとつです。この競技会は式典より先、昭和13年(1938年)6月6日から9日まで東京近郊で実施されることになりました。

  資料10は財団法人大日本体育協会下村宏会長が有田八郎外務大臣に対して東亜競技大会についての協力を求めた文書です。この文書には、「紀元二千六百年奉祝東亜競技大会趣意書」が添付されています。この趣意書には、本来この年に行なわれるべきだったのはオリンピックであったこと、「時局の進展」とともにオリンピック第12回大会をヘルシンキに譲ったこと、ヘルシンキの大会も中止を目前にひかえている現在、国際状況に合わせて東亜大会を行なうこととしたことが述べられています。この競技会には、日本のほか、「満洲国」、汪兆銘政権、タイ、フィリピン、いわゆる南洋所領の参加が挙げられており、オリンピックの規模や性格とは異なるものでした。



  資料11は東亜競技大会の様子を掲載している昭和15年(1940年)6月19日付の『写真週報』121号です。この記事では、「想へばオリムピック東京大会を放棄、ひたすら聖戦貫徹に邁進すること三年、昭和五年極東オリムピック大会以来十年ぶりに開かれた本大会は、日本、満洲国、新生中華民国、比律賓、布哇、蒙古の若人二千名が、スポーツによっていよゝ固き善隣友好と東亜若人の意気を限界に顕示する我らが民族の祭典である」と述べられています。



 

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