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ミッドウェー海戦 ~命運をかけた戦い~

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ミッドウェー海戦とは

ミッドウェー海戦の名をご存じでしょうか。その名を聞いたことはあっても、詳しく知らない方も多いのではないでしょうか。ミッドウェー海戦とは、太平洋戦争中の昭和17年(1942年)の6月5日~7日にかけて、日米の海軍が繰り広げた大規模な戦いのことです。この戦いで日本海軍は空母4隻、航空機約300機等を失うという大きな損害を受け、以後の作戦の主導権をアメリカ軍に譲り渡すことになります。まさに太平洋戦争のターニングポイントとも言える戦いでした。

アジ歴では、ミッドウェーの戦いに参加した艦隊や艦艇の戦闘詳報を見ることができます。戦闘詳報とは、後の作戦指導を適切に行うために、一つの戦闘終了後その戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する文書のことです。その報告内容には、戦闘前の彼我の状況・戦闘の経過・将来参考となる所見などが記されています。戦闘に参加した人々が記した資料には、この戦闘はどのように描かれていたのでしょうか。アジ歴で見てみましょう。

前史

  • (1) 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦

    (1) 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦

当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六は、独自の対アメリカ作戦構想を持っていました。劣勢な日本海軍がアメリカ海軍に対して優位に立つには、多少の危険をおかしても、奇襲によって自主的に積極的な作戦を行い、その後も攻勢を維持し相手を守勢に追い込み、相手の戦意を喪失させるしかない、と山本は考えていたと言われています(戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年、73頁)

昭和16年(1941年)の対米開戦以後の日本海軍の行動は、ほぼ山本司令長官のシナリオどおりに進行しました。そして、次の段階の作戦目標として浮かび上がってきたのは、ハワイ・ホノルル島から北西に約2,000kmにあるミッドウェー島のアメリカ軍飛行場でした。

この作戦ではミッドウェーに進出することによって、アメリカ海軍空母部隊の誘出を図り、これを捕捉撃滅することも意図されていました。ミッドウェー攻略作戦と同時にアリューシャン攻略作戦もあわせて行われることになったため、本作戦には連合艦隊の決戦兵力のほとんどが動員されることになりました。艦船の総トン数は150万トンを超え、乗員・将兵は10万人に及び、まさに天下分け目の戦いとなったわけです。

ここでは、4隻の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」が配備され、ミッドウェー海戦の主役を担ったとも言える第一航空艦隊の戦闘詳報を中心にミッドウェーの戦いがどのように進んでいったのかを見ていきましょう (1)

ミッドウェー基地への攻撃

5月27日午前6時、第一航空艦隊は、桂島を出撃しました。6月5日午前1時30分ミッドウェーの北西約210カイリ付近に到着し、ミッドウェー攻撃隊108機を発進させ、基地への攻撃を開始します。ここにミッドウェー作戦の火ぶたが切られました。この時点で、日本軍は空母で1隻、そのほか戦艦や巡洋艦の数では、アメリカ軍を上回っていました。一方で、アメリカ軍は、ミッドウェー島の部隊をはじめ同等の航空隊を保有していました。

  • (2) 日本軍の攻撃により炎上するミッドウェー基地の石油タンク(1942年6月4日)

    (2) 日本軍の攻撃により炎上するミッドウェー基地の石油タンク(1942年6月4日)

  • (3) ミッドウェーでB-17爆撃機の攻撃を受ける空母 「飛龍」

    (3) ミッドウェーでB-17爆撃機の攻撃を受ける空母 「飛龍」

  日本海軍 アメリカ海軍
航空母艦 4 3
戦  艦 2 0
重巡洋艦 2 5
軽巡洋艦 1 3
駆 逐 艦 12 17
そ の 他   ミッドウェー航空基地

戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎 『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年、80頁。

  • (4) 経過

    (4) 経過

第一次攻撃隊は、3時45分から4時10分の間にかけてミッドウェー基地施設を爆破・炎上させます (2)。ちょうど同じ午前4時頃、アメリカ軍の航空機による攻撃が第一航空艦隊に対し行われます (3)。そして、ミッドウェー基地を攻撃した第一次攻撃隊より「第二次攻撃ノ要アリ」との報告がありました。南雲忠一司令長官は、ミッドウェー付近にはアメリカ艦隊がいないものと判断し、ミッドウェーへの第二次攻撃を決定します。戦闘詳報では、午前4時15分に待機中だった日本軍航空機の装備を艦艇攻撃用から地上攻撃用に転換するのを命じたことが書かれています (4)

アメリカ軍空母の発見

  • (5) 経過

    (5) 経過

ところが、午前4時28分に索敵機(空母の周りを偵察する航空機)より「敵ラシキモノ10隻見ユ」の報告が届きます。南雲司令官は、アメリカ艦隊が近くに存在することは確実であり、おそらく空母を含むであろうと判断し、午前4時45分にミッドウェー第二次攻撃をとりやめ、航空機の装備を艦船攻撃用に再度、転換するよう命じたと言われています。

5時20分になって、索敵機は、「敵ハ其ノ後方ニ母艦ラシキモノ一隻ヲ伴フ」と報告してきました(5)。ここにアメリカ軍空母の存在は疑うべくもないものとなりました。しかし、アメリカ軍航空機の断続的攻撃は止まず、攻撃隊航空機の兵装転換作業も完了していない状況の中で、さらに第一次攻撃隊が空母に戻りはじめてきました。

攻撃隊発進をめぐる“ジレンマ”

  • (6) 経過

    (6) 経過

  • (7) 敵攻撃並に我が被害

    (7) 敵攻撃並に我が被害

  • (8) 炎上する空母 「飛龍」(1942年6月5日)

    (8) 炎上する空母 「飛龍」(1942年6月5日)

ここで司令部はひとつの大きなジレンマに直面したと言われています。すなわち、アメリカ軍空母に対する攻撃隊の発進を急ぐために、それらの飛行機を甲板上に並べれば、ミッドウェー攻撃隊の着艦が遅れて、燃料不足で不時着するものが出てきます。そうかといって、ミッドウェー攻撃隊を収容してから、攻撃隊を準備すればその発進は著しく遅れるということになります(戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年、85頁)。

このジレンマに直面した司令部は、後者の道を選択します。6時5分に艦隊に対し攻撃隊の収容が終われば、「敵機動部隊ヲ捕捉撃滅セントス」と命令しました。さらに攻撃隊航空機も兵装転換を終え、7時半から8時頃には発進可能であるとの報告がなされていました (6)

しかし、その発進直前であると言われた7時25分に「蒼龍」がアメリカ軍航空機12機の攻撃を受け3弾命中、26分に「赤城」が3機の攻撃を受け2弾命中、30分に「加賀」が9機の攻撃を受け4弾命中し、いずれも大火災となります。(7) にはその被害状況が記されています。これによって第一航空艦隊は空母4隻中3隻を失うことになります。

その後、唯一無傷で生き残った「飛龍」も引き続き戦闘を続けますが、午後2時5分にアメリカ軍の攻撃を受け炎上し、飛行甲板が使用不能となりました(8)。ここに日本軍空母の全てが戦闘不能になり、事実上、作戦能力を失うに至ります。ミッドウェーの勝敗はここに決しました。

“戦訓”

  • (9) 敵攻撃並に我が被害

    (9) 敵攻撃並に我が被害

  • (10) 戦訓

    (10) 戦訓

戦闘詳報には、後の作戦のための所見が記されています。彼らはこの戦いから何を伝えようとしたのでしょうか。

第一航空艦隊の戦闘詳報には、ミッドウェー海戦終了時における当面の情勢と指揮官のこれに対する判断という箇所があります。その中で、日本軍の戦果と被害について分析した上で、今後の作戦に当たっての索敵の強化・集合分散配備に対する柔軟性、急速なる飛行機発進の必要性等を述べています (9)

また、ミッドウェー海戦で最後に被爆した空母「飛龍」の記録も存在しており、そこには将来のための詳細な“戦訓”が記されています(レファレンスコード:C08030581700 昭和17年3月26日~昭和17年4月22日 軍艦飛龍戦闘詳報(2) 6画像目~12画像目)。

たとえば、「飛龍」の見張り施設の性能では5千メートル以上にいる高度の目標の発見は、極めて困難であったことが書かれています。このため後方から襲来した敵爆撃機を発見することができず、「赤城」への爆撃で起きた水柱によって初めて、敵襲を認識した者が多かった、とあります。この事実を踏まえて、対策として対空見張用レーダー等の装備を必要とするとも書かれています (10)

このように、戦闘詳報には、戦闘の極めて詳細な経緯が記されており、その実態と、当事者達がそれをどのように認識していたのかを見ることができます。しかも、これらはいずれも後世の人々によって手が加えられていない生の貴重な資料なのです。

<参考文献>
  • 戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』中公文庫、1991年